舌足らずな口調など、尊氏はほんの僅かな時期しか使わなかった。
「、師直」
「高氏さま」
だからそれは本当に昔のこと。尊氏が覚えているかすらあやふやな昔。
水を打ったように、と称すには余りに騒がしかった。
確かに音一つないのにどこか寄せては返すあの潮騒に似たものが薄く響いているのを感じる。
冬の夜に相応しくない生ぬるい空気は酷く停滞していて、背に伝う嫌な汗を凍り付かせる鋭さは
期待出来そうになかった。
何があった?
それだけがひたすら頭を駆ける。目の前の尊氏は見たこともない色を纏っている。
端的に言えば凄絶、というような激しさなのだがそう言い切るには余りに底が深すぎる故にか、
迫るものが異なる。
高く燃え立つ焔に似るようで、その温度は何より遠い。それこそ炎を凍らせでもしたら近いのかもしれないが、いずれにせよどこかこの世のものならざる色だ。
…自分は必死になっているのだと、掌に滲む汗が語った。
何に?決まっている。目の前の尊氏を、理解せねば、掴まなければ、
何の、為に?
「…それでは兄上、我々は外でお待ちしております」
直義が未だ涙の残る顔で、静かに言った。
後ろを振り向く気にはなれない。だが憲顕と重能がゆっくりと直義に合わせ踵を返したのは分かった。
ついて行く必要もあるまい、否ついて行く場でもない。それに今、自分は尊氏から離れられない。
しばらくその場にはひとことすら無かった。
尊氏はじっと此方を見て――見詰めるというには散漫な視線だ――いるだけだったし、喉にかかる言葉は
全て出るまでに力を失った。
「…殿、お持ち致しました。」
頼春が具足を持ち室に入ってくる。共に寺にいたこの男が今の尊氏をどう見ているのか無性に知りたく
なったが、頼春は尊氏の衣を着付ける支度をしている。流石に尊氏の目前では尋ねかねた。
「師直」
「、はい」
見透かすようにかけられた声に思わず身が震える。
尊氏はちらりと笑うと少し解れた髪を掻き上げた。
「どうした、久方ぶりだというに。」
言いたいことがあるのだろう、と指先を払った。
「……」
聞きたいことは山のようにあるのに言葉に出すことが出来ない。
ただ頼春が鳴らす鎧の音だけが不規則に響いて、形になる前に何かを掻き消した。
「…ふ、まあよい」
尊氏はまた一つだけ笑うと、ゆっくりと具足の調整をする。
握り込まれる手の脇には確かに黒光りする尊氏の刀が下げてあって、あぁ出陣なのだと今更過ぎることを
漸く強く感じた。いつかはそうなるだろうと思っていた、大体ここにきてあんな謀までしたのだから当然の
帰着だったが、刀を下げた尊氏からは尚更以前と違うその威圧がいや増す。
「師直、お主が聞かぬなら俺から一つ聞きたい」
ふるりと一つ頭を振ってから尊氏はこちらを真直ぐに見やった。
鋭い視線はだが覚えのあるもので、潜む激情はむしろ安堵を誘った。
「はい、何なりと」
「新田はどこを目指しておる」
「…は?」
思わず間の抜けた声を上げてしまい、慌てて言い繕った。
「いえ、その…この鎌倉でありましょうが」
「そうだな、鎌倉。ふふ…いや悪い、」
と言いながらも尊氏は笑うことを止めようはとしない。ただくつくつと笑いながらどこか遠くを見た。
「頼春、ご苦労だったな。お主も支度するといい」
支度が終わり、頼春を下げてしまうと尊氏はゆっくりと縁側ーこちらに寄ってきた。
「鎌倉を、」
笑う
「目先しか見られぬ愚か者よの」
ただ一瞬でその鮮やかな表情は翻され、
そうして浮かべられたのは酷く退屈そうな…そして冷たいそれだった。
背筋が凍る。大体において尊氏はあまりその種のことを口に出す方ではなかった筈なのに。
「…鎌倉は捨てる」
余りに唐突に言い渡された言葉を自分に噛んで含める様に呟く。鎌倉を、捨てる
「別に差し支えなかろう?」
ひらりとまたその退屈そうなものを引込め綺麗に笑う。
尊氏は先程から笑ってばかりいる。
それなのに一向に弛む気配のないそれは、むしろ尊氏が笑う度に密度を増すようだった。
「鎌倉を…でございますか」
坂東は足利家の勢力下の地、いわずとしれた要地である。
「京に、」
縁側を降りてゆっくりと歩く。夜気で湿った土が濡れた音をたてた
「京に行くのだ」
殺気にも似た歓喜を浮かべ静かに、笑う。
底に込められたものが決意などという浅いものではないのは明らかだった。
鎌倉を捨てる。
「鎌倉などに固執しては京には辿り着けまい」
尊氏が捨てるものが鎌倉だけかは、分からないが。
幼い頃の尊氏は到底模範的、という言葉とは縁遠いものであった。
日が暮れるまで野を駆け回り、早い内から戦の真似事などをして遊んでいた。
傷まみれで帰ってきてろくに書なども嗜まず跳ねるように過ごした。
だが弱い当主を抱えた足利家ではむしろそれでよかった。尊氏の兄とて赤子の頃病で亡くなっている。
誰かもが若殿は些か御自覚が足りない、と諫めながらも色々なことを笑って許した。
尊氏がそれを知っていたかは分からないが、昔からその点では意識せずとも如才無い童である。
その頃、ほんの童の時から直義は酷く真面目な質であった。いっそ当主としてなら直義の方が余程似合いというものだったし、冗談紛れに口に出されたことも確かにある。
それが冗談の域を出なかったのはひとえに憲房の威圧と…何より兄弟自身の態度ゆえである。
「、師直」
「高氏さま」
舌足らずに呼ばれる名は苦心のあとがあって微笑ましい。些か逡巡して、薄くこちらを見た。
「…まだやるのか?」
膨れ面の高氏は手元の半紙をじっと見詰め溜め息をついた。
怠けすぎて母に怒られた為、殊勝にも朝から書の練をしていたのだが、一刻半もすると流石に飽きたらしい。頻りに外を見やる手元は一向に進まなかった。
「…そうですね…今日はもうよろしいでしょう」
どちらにしろこれ以上は進まないだろう。
そう聞いた瞬間に高氏は筆を片付け始める。
あまりに張り切った様子に苦笑を禁じえないが、元々このようなものである。
「今日は直義と遠くに行くから、」
言い訳じみたことを呟いてさっさと立ち上がる。
「それは楽しみでございましょう」
どこか悪戯めいた顔で思い切り笑う。
「直義に、見せてやりたいものがあるんだ」
「何をですか?」
「言わない、」
秘め事だと笑いながら高氏は既に外に行く支度をしている。
どうせ直義と、と言ってもこれから無理やり連れ出しにいくのだろう。
「…本当に、仲がよろしくて…」
そのせいで二人して騒動…高氏が無理やり直義を巻き込んで、だが…を起こすことも少なくないのだが。
半分苦笑まじりに呟いたら、高氏は急に動きを止めた。
「当たり前だ、直義は俺の弟だ」
真直ぐに此方を見て高氏は言う。至極真剣に言われた言葉は何らかの真情が籠もっていて軽んじられる
種のものではないと直感する。気のきいたことも言えず黙り込むと、今の表情が嘘のように笑った高氏は
じゃあ、といって室を駆け出ていった。
ぱたぱたと遠ざかる足音を聞きながらゆっくりと握っていた掌を開く。高氏の真情は切りつけられるかの
ように重く、童らしからぬその真剣味には切ないまでの本質が透けた。
後に残されたのは書き散らした半紙だけ。
てらてらと濡れたばかりの墨が輝いていた。
鎌倉を
「…そこまで、」
覚悟をお決めか、とは流石に言いかねると具足を鳴らして尊氏はゆっくりと振り向く。
偽りの綸旨、謀りの聖書。それが本当にここまで尊氏の意を決させたのか?
「師直は不満か」
からかうように言われた言葉は呆れた色が強い。
「…出陣、ですね」
わざと言ってやると尊氏は軽く首を傾げる。
出陣、もう後戻りなどできない。尊氏が討って出ればあの偽綸旨はその時こそ真となるのだ
「…師直」
あ、と思った時にはまた尊氏はあの冷たさを漂わせた。
「出陣は、しなければ、」
笑みのない言葉は酷く上の方で響く。
尊氏が一言ずつ区切るように言うのは、恐らく単なる必要性のことではない。
「…はい…?」
天高く昇った望月が皓く輝く。生暖かい空気を攫って冷たい風が、ふいた。
「直義が、死ぬ」
凍らせた言葉は強く背を打つ。言葉は確かに常の尊氏のもの、強く弟を想うそれであるのに。
何だ
これは
「直義が死んでは、この尊氏の生きる意味すらなかろう」
夜だというのに望月が輝くここは変に明るい。
まざまざと見える尊氏の表情に視線を逸らすことすら出来ない。
ただじっとこちらを見て言われた言葉。昔と変わらぬそれでいてむしろ研ぎ削がれたかのようなその瞳の色、
「……仕方が、あるまい?」
そしてゆっくりと笑う
「直義が、出陣してくれと、そう言うのだから」
滑り出る言葉はその深い笑みに弾けた。
怖い、
尊氏は何かを越えた。ただ純粋に兄としてあろうとした尊氏は、何を越えてしまった?
常に傷を隠し持つ尊氏、その玉階たろうと決めた自分。だが尊氏は浸される何かに似て、
どこか深みへ入ってしまった。
この主が望んだ無は、全く違う形で目の前にある。
直義に見せてやりたいものがあるんだ、と。告げたそのように。
天下などを遥か越えたものを引きずり出そうとしている。
何故、何があった、何故?
気づくと歩を進めた先は井戸端の直義達であった
「直義」
軽やかとすら言える声に、だが直義はびくりと振り向く。
必死に…、見えたのは思いこみ故かもしれぬが…軽く走り寄る直義は尊氏の前でぴたりと止まった。
じっと俯き、ちらりと上目に尊氏を伺う。
「…兄上、兄上は…」
ざあと強く風が吹き少し離れたところにいた自分と、おそらく重能らから直義の声を浚う。
何を言ったのか、直義は酷く真摯な目で尊氏を見ている。尊氏は少し驚いたように目線を上げたが、
声をたてて笑いながら直義の肩に手を回して、一言二言囁いた。
そうしてからゆっくりと離れ、手でぐいと直義の頬を拭ってやる。何故か酷く素直に為されるがままに
なっていた直義はそれにただこくりと一つ頷くと、ぎこちなく笑った。
それを見て笑う尊氏の目には、そしてあの色は無く。
稚気を思わせるその一連の動作は何故だかこの場に似合いだった。
月が高い
これから沈み日の光を呼ぶ筈の月は高く、まるでそのものに成り代わるように輝く。
そうして空をぼんやりと見上げてから、ようやく握りしめた掌に血が滲んでいるのに、気付いた。
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