約束に意味などないことを知っていた。
それを叶える力に伴う犠牲に怯まずとも、
その力が間違いなく約束自体を叩き壊す可能性は容易く足を止めさせる。
戯れにも似た誓約。
意味などない、意義など求めない。
だから危ぶむのか、だから目を背けるのか。
代え難いものとして腕の中に抱き込むそれが脆いものだと知っている。
だからその様を危ぶみ、目を背けるのだろうか。
いつか壊れる日がくると、知っている。壊れたら泣くのだろうと、思う。見たくなどない。
だから止めるのか?
自分の、為に?
舞い散る雪はだが地に落つる前にその白を失い赤く染まる。
積もりその地を覆う前に、踏みにじられ露へ変わった。
夜半から始まった戦はもう日の昇った今尚、激戦の体を帯びる。正に敵味方なく入り混じった戦場には
夥しい血が流れ、側に流れる川までを朱く染めあげた。
「追え!脇屋は伊豆で義貞共々踏みとどまろう、多少の犠牲を払っても構わぬ。
なんとしても伊豆からは追い落とせ!」
馬上の尊氏が声を張り上げ指示を飛ばす。つい二日前まで袈裟を着ていた筈のその姿は返り血で赤く染まり、
そして既に走り出した幾人かの将もその姿は正に修羅、あたかも血の海を通り抜けたが如きである。
だが気は揃って軽く表情は明るい。
勝ち戦、再び大将を掲げた足利軍は久方ぶりの大勝利であった。
三河からこちら勝ちの続いた新田はやはり油断していたのだろう。箱根に落ちる直義を追わなかったことも
その一端だ。あの時追われていれば最悪鎌倉まで新田が迫る事態となっただろう。
それをしなかったのは新田の気の緩みと、その原因となる確かな兵力差にあった。
新田には焦る必要などなかったから、仕方のないことかもしれなかったが、それにしても増長のしすぎと
いうものだった――陣を、組む場所を選ばない程に。
「脇屋か」
一昼夜駆け足柄へと辿り着いた尊氏はだが、直ぐには矛を交えようとはしなかった。
新田の陣を確認すると全軍に火を消させ、そうして夜隠に身を潜ませてひとまずの休みを取らせる。
夜襲の機を伺う為に。
足柄には義貞は居ず、その弟である脇屋義助、そして宮軍が布陣していた。
「驕りか…否、それとも中書宮故か」
尊氏は寧ろ呆れた様子だったがそれ程新田の陣は不味い場所にあった。
夜露を凌ぐには快適であろう足柄明神以下、民家の側は、だが足柄山の急腹にあったのだ。
凡そ夜襲を避けるべき夜陣は攻め込む余地の無い地に張るべきであり、急腹などという
「攻めやすい」場所を避けるのは兵法とすら呼べない基礎中の基礎だった。
「宮は戦場にはお慣れになっていないでしょう、やはり足柄明神の側は過ごし易い」
「師直、やはりそういう意味なのかこれは」
呆れを通り越したらしい尊氏は深く溜め息を吐くと力無く笑った。足柄に向かいながらも尊氏はずっと色々な
ことを危惧していて、義貞以上の猛将と呼ばれる脇屋の重みは大層重かった。
義貞はいない。それは脇屋に足柄を任せておけると思ったからだ。名に違わない勇猛はだが、このままいけば
恐るに足りないだろう。
「…一刻後だ。全軍に伝えろ」
笑いを収めた尊氏は、打って変わって酷く冷めた口調で告げる。
間の抜けた敵に、感じるものは最早侮蔑だけ。既に通り過ぎたそれに尊氏は興味すら無くした様であった。
義貞はいない、それは
「早く、行かねば」
義貞はいない、
義貞は箱根にいるのだから。
雲の掛かった月は姿を隠し、辺りは酷く暗い。舞い散る粉雪の中に浮かび上がった赤は兵を鼓舞するには十分な明るさがあった。
火を射掛けた新田陣は、俄かに浮き足立ち忽ちに崩れた。
「行くぞ!」
自ら先陣を駈ける尊氏の刀は直ぐに血露に濡れ、そして無様と呼べる新田の混乱に止めを刺した。
「足利の宰相だ!!」
不在と思われたその存在に、夜襲で右往左往していた駒は雪崩をうつように逃げだした。
脇屋は驚き怒り、自ら逃げ出す味方を切り捨てんばかりに大刀を振るったが、それも日が昇るまでが限界だった。
後ろを守るべき味方がいきなり刀を翳したのである。
脇屋は猛将だが馬鹿ではない。総員退却を決めた後は早かった。
雪がはらりと舞う。
追いおとせ、と指示を出してから尊氏は歩み寄る駒に足を止めた。
未だにぱちぱちと燃えている陣を背に近づいてくる男。一応敵陣にいた筈の身なりは以前見たそのままの
酔狂で些か呆れた。
「尊氏どの、師直どの久方ぶりですな」
「道誉か、」
にんまりと笑った佐々木はゆっくりと馬を降り尊氏の前に礼をとる。案外整った礼に暫し驚くが、
尊氏は気にかけた様子もなく声を掛けた。
「よくやってくれた」
「お陰様でこの道誉は益々悪名を広げましたな」
「今更であろう、だからこそお前に頼んだ。お前にしか出来ないとな」
「お褒めか、貶しか、尊氏どののお言葉ははかりかねますな」
昨夜初めて聞かされた策謀。
まさか佐々木が二重の背反を予めする事になっていたとは思わなかっただけに、
それを頼りに尊氏の直義が軍を割いてこちらに兵をやろうとしたのを止めた訳を初めて知ったのだ。
「はは、どちらでも構わぬ。」
愉快そうに笑う尊氏は、軽い調子で言を継ぐ。
「佐々木道誉」
いきなり、尊氏は声を抑える。
朝日が昇りきり、この荒れはてた戦場を溶け出す雪の中眩しく照らし出した。
尊氏、後ろに立つ自分、そして佐々木にも余すところ無く日は射し照らし、浮き彫りにする。
尊氏の血に濡れた頬には解れた髪が一筋垂れていて、それをゆっくりとした動作で掻きあげた。
「…なにか、尊氏どの、」
似合わず詰まるように吐き出された声には動揺が透けだしていて少し驚く。
佐々木の驚く様など初めて見たが生憎自分に出せる口も無い。第一その訳は未だ自分にもわからないのだ。
尊氏が変わったと、確かに何かを得たことは分かるのにそれを理解するには及ばない。
だから垣間見る威圧に慣れることはあっても、それに馴れることはなかった。
「…一度きりだ。もうこんな機会は、無いぞ?」
静かに、口の端を釣り上げた尊氏はだが寧ろ淡々と言葉を乗せる。
佐々木は黙り込むとちらりとこちらに目をやった。先程の尊氏の言葉といい、何か自分の知らないことが
あるらしい。
「…尊氏さま?それは…一体」
「師直どの」
訊ねる前に佐々木の方から声が飛ぶ。苦い声に口を閉ざすと、佐々木は先を続けることはなく尊氏に向き直った。
「…意地の悪い問いですな、尊氏どのは些かこわい方になられたようだ」
頭を振って佐々木はじっと尊氏を見つめる。
今まで誰も言ってなかったことをあっさりと佐々木は言い放ち尊氏の反応を見ている。知らず手綱を握る手を
強め、そっと前を向く尊氏を伺った。
静かに、黙っていた尊氏はゆっくりとまた笑う。鮮やかなまでの笑みには、自嘲に似た色がちらつき
それでいて激しい何かを透けだした。
「……変わった、か。」
だが直ぐに笑みを、そればかりか表情と呼ばれるそれを一切消し去った。
「お前がそう思うなら尚更だ。如何する」
自分に向けられているわけではないのに、こめかみから冷たい汗が伝う。
絶えず人が駆け回り、未だ剣戟の音が響く中、しかし確かにここは取り残された空間だった。
青ざめた佐々木はゆっくりとうなだれて声を出す。
「……否やはありませぬ」
「ならよい」
あっという間に元の顔に戻った尊氏は、直ぐに伊豆に向かうぞと言い捨ててさっさと馬首を向け直してしまった。
佐々木と二人残された形になり、些かばつの悪い思いで見やる。この男は嫌いだったが、
その心中は察して余りある。
戦場を駈ける、このまま京へ向かう。それはもう半ば決まったことだ。
尊氏が決めたのだからそうなるのだろう
何がそう信じさせるのは自分には分からない
きっとこれから先も
「師直どの」
かけられた声に我にかえると、佐々木が静かにこちらを見ていた。
その顔には少なくとも先程までの動揺の様子は見えない。この男もまた只ならぬ気性の持ち主だ。
「…尊氏さまのことならば私に言える事はありませぬ」
知らず諦めたような声音になるのを止められない。実際酷く疲れていた。
「…」
ちらりとこちらを見やる佐々木の目にはまた違う色が浮かぶ。
「御舎弟は箱根か」
唐突な話題に面食らいながらも辛うじて頷く。
「…だから尊氏さまも早く伊豆に向かいたいのでしょう」
あえて思い付くことを口に出すと佐々木は寧ろ虚を衝かれたような顔で首を振った。
「そういう事を言おうとしたのではない…ただこの場にいないということだけを」
続くだろう言葉を待っていたが、佐々木はそれきりはたりと口を閉ざしてしまった。
直義がここにいないから、何だというのだろうか。佐々木は心配というよりは変に諦観した様子がある。
もしや尊氏の変化に思うところでもあるのだろうか。からといって別に直義を原因としている訳でもなさそうだ。
訊ねようとして、それより先に聞かねばならないことがあることを思い出した。
「…佐々木どの、先程の話は一体」
ちらりと顔を逸らした佐々木は嫌々といった様に大仰に溜め息をついた
「師直どのは堅い方だ」
「は?」
「尊氏『さま』が言ったのは単なる牽制だ」
「あの…?」
今一話が掴めない。やれやれと言ったように肩を竦めた佐々木はゆっくりと言った。
「尊氏どのが寝返れと言った時、私は裏切るからには後のことはわからないと申し上げた。それだけだ」
「…!それは」
「だからこその牽制だと申したであろ?尊氏どのは些か変わられた。
…私にそれに背く気概はとてもとてもありませぬな」
冗談めかした口調で佐々木は話を打ち切ってしまい、それ以上のことを訊ねられない。
苛烈になったというのも違う。ましてや厳しくなったわけでもない。
確かに変わったものなのに手に掬った砂のようにこぼれ落ち掴めない、それが酷くもどか
しかった。
「ほらもう向かうようですよ?」
伊豆。見事覆した戦況のまま、このまま京まで駈けるのだろう。
共に駈ける、そして鎌倉に何かを置き去りにすることを恐れている。
約束など意味がないと知っている。それに縋ることの愚かしさだって知っていた。
それでも縋る何かが欲しくて、途方にくれる。
確かであるからこそ不安になるなんて馬鹿げたことだと分かっているのに。
このまま駈ける先に何があるのか分からない。信じきると言える程には諦められない自分がいた。
舞い散る雪を赤く染め上げたように、尊氏が何かを変えようとしているならば。
それならば自分のとる道は一つだけ。
溜め息をついて佐々木と共に馬首をかえす。
昇りきった朝日は眩しく、正視を許さない強さがあった。
暴かれる恐怖に背筋が震え、そんな自分が嫌いだ、と思った。
next
|