「…ー!」

呼ばれる。 はたりと静かに落ちる色。目の前の瞳に宿るのと同じ、しかし冷たく揺れることはない色。
…映りこむ自分が小さく笑うのが、見えた。







「どうぞ、兄上」
「あぁ」

なみなみと注がれた杯を受け取り一気に飲み干すと、強く喉を灼いて腹に落ちる。 思わず熱い息を洩らすと、酒瓶を傾けた直義がさも可笑しげに笑った。

「強い地酒ですのに、兄上」

そんな煽らなくても、と言いながらも空いた杯に再度透明なそれを注ぐ。 そして自分の杯も満たしてからゆっくりと酒瓶を置いた。 火のくべられた陣内は、冷えきった冬の夜でもほんのりと暖かい。晦日も明日に迫ろうという師走の夜に、だが不思議と切るような冷たさは影を潜めていた。京へ向かう途次で迎えることになった年越しは何故かゆるやかで、戦場に張られた筈の陣には穏やかな空気があった。

「美味い酒など久方ぶりだ」
「ふふ、そうですね…美味しいです」

こくりと嚥下して直義は笑う。 気を利かせた輩がいるのだろう。見え透いたそれは苦笑を誘ったが、どこかびくついてる姿が目に浮かべば苦笑以前に諦めもつくというものだ。どちらにせよ今この陣内にいるのは自分と直義だけである。 名目に借りて逃げたのだろう数名の顔を並べてから、今宵は面倒な採決を全て押し付けて酒を呷ることに決めた。

「もう三晩明けたら新年ですね」
「…そうだな」

おそらく泰平とは程遠いであろう年明け。 今この近江柏原に張られた軍営が洛内に達するのはおそらく三が日の明けきらぬ頃。ただ三年ばかりで崩れようとしているそれに今更ながら苦笑が漏れた。否…三年すら、保たなかった。目まぐるしく過ぎたこの年が、 いつからこの今に向かって始まっていたのかはもう分からない。 京が既に上を下への混乱振りであることは聞いていた。京の民は荷を抱え大路を行き交っているらしい。 難儀なことだと他人事のように思いながらどこか京そのものの強かさを見た気がする。京はいつだって 京で在り続ける。…例えそこに座るものが変わろうとも、だ。

左手で杯をとりかけて、ふと動きが止まる。自然に見えるよう念じながらさりげなく手を持ち替えた。 幸い直義は気にした風もなく、ゆっくりと杯を傾けている。一つ息を吐いてから杯を置いた。

「兄上」
「ん?」

どこかまろい声で呼ばれる。笑いかければ、直義も上気した顔で綺麗に笑った。

「私は、嬉しいです兄上」

言わんとすることを察してぐしゃりと頭を撫でてやる。

「あぁ、来年こそはだな」
「はい」

思えばいつだってそうだった。自分が立つ理由など最初から決められていたのだ。 大袈裟に頭を掻き回してやれば直義は少し怒った顔をしてから、破顔した。

小さく寝息をたてる直義を畳に寝せてからゆっくりと陣を出る。酒に火照った体を冷やしたくて幕を出たところで立ち尽くした。それ以上離れる気もない。直義はあと半刻くらいしてから起こせば大丈夫だろうが。




直義の為に、立つ。だが直義の為だけ、ではない。
凪いだその中にある冷たささえ心地良く思う。それでよい、構わない。結果が伴う犠牲に怯える必要は無く、 それは犠牲ですら無い。大切だからこそ、かけがえのないものを諦められるのを自分は知った。 諦観ではない、諦めではない。 開けた新しい多くの道は、確かな指向性を示した。 ただそこに伴う綺麗な何かを遠く見つめられるようになったのだ。 容易く手におちるような感覚に覚えるのは、充足感ではない。 当然のことだ、という感覚が先走って凪いだそれを波立たせることもない。

大切な、(大切な?)弟。

望むなら天下すら取ろう。自ら手を伸ばすのでなく、この自分に伸ばして欲しいと言うならそれでもよい。 そう結果が伴う犠牲に怯える必要は無い。 それは犠牲では、無い。


握り込んだ手のひらに痺れが走って眉をしかめる。仕方ないと息を吐きながら煩わしさにうんざりとした。



「……尊氏さま」

月も細い暗がりの中からこの幕側の篝火の方へ歩いてくる人影。先程並べたてた顔の中にあった二人だが、 その取り合わせに思わず嘆息した。

「師直、このうつけめ。」
「…済みませぬ…」

頭を下げた師直を横目にもう一人に向かい直す。

「憲顕」
「…尊氏さま、いえ…直義どのには、申し上げませぬから」

完璧知れている。固い声で言う憲顕にもう一度溜め息が漏れた。




爆ぜる篝火の横で小さく頷いてやる。

「…時行の、遺臣であったと」
「それ程大袈裟なものではない。時行の差し金というよりは、時行と別れ途方に暮れたのであろう」

些か青い顔の憲顕が頭を軽く振る。

「…やはり時行はまだ生きているのですね」
「二十日先代と言えどなかなかにしぶとい。こんな手段でしかこの戦に介入できぬのは哀れだが」

黙り込んだ憲顕の横で師直が落ち着かなげにする。入念だからこそ抜けたところに気付かない男だ。 命鶴丸に指示でも出してるところをこの変に鋭い従兄に咎められたに違いない。どちらにせよ口止めの甲斐無くこうして自分の前まで連れてこさせる羽目になったのだから、咎められた時の焦り振りも推して知るべしである。

「…尊氏さま」

見上げてくる相手も誤魔化すにはしぶとすぎる。軽く息を吐いて左腕を捲り上げ見せてやった。

「…かすり傷だ。大事無い。」

巻かれた巾にじわりと滲む血は、もう黒ずんでいた。







名を呼ばれて振り返ったのだ。

「殿!」

何の変哲もない陣の中。いつもの様に書簡でも手に取ろうと床机に向かえば、まるで戦場のような鋭い声が 響いた。振り向いた視界の先には見慣れた鈍い光が見えたが、そのままゆっくりと立ち尽くす。 左腕に熱い感覚が迸り弾け、それでもただ立ち尽くしていたら、ぶつかるように飛びかかってきていた男が よろめくように後ろに下がった。 はたりと静かに垂れる赤。目の前の男…と呼ぶにも若すぎる彼の目に浮かぶのと同じ色だ。

「足利尊氏!」

名を呼ぶ声はやはり震えている。 無造作に一歩踏み出せば反射的に青年は後退った。 可笑しくなって笑えば、何の為ここに駆け込んだかでも思い出したのであろう。瞬時に顔を赤くして血塗れた刀を振りかぶった。

「先年にはご恩ある北条家を裏切っておきながら、いま尚朝敵としてたつとは。何たる不貞、成敗してくれる!」

生憎震えた刀は正直で、軽くいなす。色めき立って切りかかろうとする近侍たちを制してから、軽く足をかけて転ばせた。床に落ちた赤い刀を蹴飛ばしてから殺すなと言って抑えさせる。 見下ろした目にはやはりぎらついた赤があって、そこに写り込む自分の腕すら掻き消す強さであった。

「時行か」
「…」
「筋違いだ、恨むならば己の弱さを恨め」
「時行さまは!確かに正統な北条家の跡継ぎであらせる!きっと鎌倉の御代を二度なされたのに、貴様が!」
「弱き時行の罪だ」

言い切ればたじろいだようだったが、取り繕うように暗く笑うと更に言い募った。

「貴様とてその権威長く続くと思うな、北畠は既に坂東の地をたったぞ」
「顕家か」

記憶に残るのは童のような武士姿だけだが、どこか挑むような目は確かあの者のものだったか。

「…はは、その時はままよ」

拍子抜けしたような青年の前に血塗れた左腕を突き出して告げる

「お主の強さなどこれほどのものだ。身を裂き血に浸る覚悟すら無い大言壮語は聞き苦しい」

声にならぬ音を漏らす青年は滴る赤に目を取られたように虚ろだ。静かに息を吐いてから転がる刀を手にとった。そのままの勢いで振りおろす。

「…っ!」

顔の側に真直ぐ突きたった刀に震えた青年を戒めから解いてやる。困惑気味に離れる近侍たちの中で呆然とした青年はただ赤い刀を見つめていた。

「去ね。死にたければ死ねばいい。」
「…あ」

駆けつけた師直が真っ青になって指示を飛ばすまで、青年はじっと動かなかった。





「徒に騒がせることもあるまい、全く不手際だぞ師直」
「申し訳ございませぬ…」
「では…本当に大事無いのですね」

憲顕は何かしら言い足りない様子ではあるが敢えて聞かぬ振りをする。他言さえしなければ別に構わない。

「…ああ、明日には京に向かう」

ゆっくりと頷いた二人を横目に幕を伺う。そろそろ更けた夜に吹く風は冷たい。

「…明日だ。今宵はもうよかろう」

正直あまり言及などされても答えることがなかった。痛む左腕は、ただそれだけのことだ。

「…どうか御身をお厭い下さいませ」

思いの外真剣な声音に背を向けかけた足が止まる。 案じるそれを履き違えるほど愚かではない。 じっとりと湧き上がるものを抑えながら、ちらりと微笑んだ。

「憲顕、お主が言わねばいいだけのことだ」

分かりきっていること、だ。誰に、など言わされるだけ愚かしい。 微かに身を震わせた憲顕を見やってから幕の中に入る。もういいだろう、という気もしていた。





穏やかに眠る直義の側に腰を下ろして飲み直す。直義の解れかかる髪を左手で退けてやりながら、 じっとりとしたそれを飲み下す。

理解など必要ない。ただ享受できさえすればいいのだ。

全てに強くあることが、本当に強い筈がないのだから、弱さを隠す弱みなど捨てて然るべきものだ。



今直義はここで眠っている。それで十分だ。



滴る血すら心地よく、喉を灼く感覚にしばらく酔った。






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