「…直…師直?」

降りかかる声に振り向けばそこに立つのは尊氏だった。

「!ご無礼を…」

自分は主の室でいつの間にか寝てしまっていたらしい。無礼極まりないその行為にだが尊氏は苦く笑っただけだ

「海路が苦手なのは昔から変わらないな。疲れてるのに、寝ておけ」

上気した様子で尊氏は笑う。どうやらあのまま風呂にでも入りにいったのかもしれなかった。

「…いえ、」

頭を振って尊氏を仰ぎ見れば小さく肩を竦めて勝手にしろ、とまた笑った。

熱気を冷ますように尊氏は縁側に出て夜風にあたる。皐月にもなって、そう冷たい風でもなかったが夜のそれは確かにまだ涼しい。

満月に照らされたその様子を見てみれば尊氏は少し郷愁めいたものに浸っているようで、小さく目を眇めた。つい先刻までと余りに違う。ここ最近はつとに見ていなかった姿でもある。

「…何かおありでしたか?」

はたと我に帰ったように振り向いて尊氏はこちらを見やる。笑うというには足りないが、口の端をちらりと閃かせた。

「…道誉が余計な世話をやきおっただけだ」

おもむろに懐に手を入れて文を取り出す。薄い紅の香紙の差出人は佐々木近江守道誉。安綱にとっては道誉が宗家に当たるのだから、この場で届くのは別段おかしい事でも無い。無造作に手渡されたそれをそっと開いた。


『―…某は御意有り難く傷の治りなども良く、至って安穏と日々を送っておりまする。後顧の憂い無く、尊氏どのは迅速に此方へいらしゃるが宜しかろう。…御玉、確かに某が預かりまして候、お二方ともにご健勝なれば後は尊氏どのの戦勝のみを土産とお待ち申し上げております…―』


「…」

最早今更ながら、よくもまあずけずけと物を言う男ではある。要は待っててやるから早く勝って帰ってこいということだ。だが尊氏を慰めるには確かに十分であっただろう。義詮は未だ六つである。あの道誉が匿っているというのなら確かに安堵たりうる。

「…」

尊氏が手に弄ぶ組み紐はどうやら帯紐のようだ。探るように視線を飛ばせば今度こそ苦笑して尊氏はそれを眼前に掲げた。

「義詮のだ。文を纏めていた。…返しにこいと、いう意味らしいな」

道誉は頻りに呆れていたものだが、尊氏はそうして立つところが確かにある。自分で守る全てに縋るような、一種の弱さが。

思えば早かったものだ。筑紫の地へと落ちてから三月足らず。軍勢は天をもを衝き、その凱旋を疑うものもない。最早尊氏は天下をその指先に捉えているのだ。


それなのに、こうして憂いめいたものに浸る尊氏は余りに淡い。何故なのだろう、周囲が勢いにのればのるほど尊氏はむしろそう、なる。逆境にはあれ程強くあれるのに。

「尊氏さ…」
「、師直」

急に上げられた声を振り仰げば、驚いたように夜空を見つめる尊氏が、促すように腕を上げた。

「…これは…」

淡く白い望月に、たなびくのは二筋の黒雲。星の光すらも掻き消して、独り夜空を統べるその望月が。綺麗に上下段にたなびくそれに分かたれたかたち。

「素晴らしい…瑞兆でございましょう」

翻る二引両を、天頂に掲げたかの如く。

ほかでもこの奇蹟じみた光景に気付いた者がいたらしい。ざわめく空気が波紋のようにたゆたい、それから弾けるように歓声が上がった。

「…勝てます。尊氏さま。」

見上げている横顔は少し遠いが、言葉を継いでいく。


「もう少しで全てが終わるのですから」


苦笑のような歪んだ笑みをちらつかせて尊氏は振り返る。縁側に面した障子を、後ろ手に手繰り寄せるようにして閉めるとそのままそこに凭れるように座りこんだ。

「…おかしいか」
「、は?」

ぎしりと鳴る障子に首を流す。


「…俺は…勝ちの齎すものを履き違えてるのかもしれんな」

一月前の多々良を忘れたわけではけして無い。でもそれでも、ここ最近の様子はつくろうものではなかったのだから。少しは薄らぎ、慣れたものとなったのだろうと思っていたのに。それは確かに辛抱などではないのだろうが、表に出ないから無いだなんて何故思ったのだろう。

抱えた片膝に額を押し当てて尊氏は囁くように言葉をこぼす。

「……怪我でもしてないか…辛く在るんじゃないか…」

切なげなまでにゆっくりと、紡がれた声はけして揺れることもなく、淡々と響く。だがそれ故に尚更悲しくもあった。


「…―そんなくだらないものに支配されて、身動きひとつとれなくなる」


見えた顔には矢張り困ったような笑顔が浮かんでいるだけだったけれど、その瞳は雄弁に語る。

「…俺が、戦に求めるのはそういうことなのかもしれんな」

心配だから
怖いから
大切なものが傷つくのを避ける為に全てを壊すだけで

「…もっと、求めなければいけないのかも…、しれん」
「尊氏さま…」

戦は本来全てを勝ち取る為のものだ。だからこそ勝者には勝者なりの責が存在する。だが尊氏は求めず得たそれを自らのものと見れない。絡めとられる感情に身を委ねてしまうのが尊氏の弱さなのだ

そして直義の。
そう、直義の全てが尊氏を支配するのだとすれば。
それこそ戦に勝ちさえすればいい。側にあればいいというのなら、それを叶えてやればいいのだろう。

空に浮かぶ瑞兆が勝利を導くのだとしても、それは尊氏自身の救い足り得るのだろうか。尊氏が望むのは瑞兆ではなくきっと、彼の弟がその瑞兆に意味を与えることなのだから

「……悪かったな、師直。もう寝ろ」
「、あ…」

「……命だ」
「はい…」

拒絶するように抱えられた膝に、自らで踏み入る術を持たない。
静かに立ち上がり室を出ても最後まで尊氏は何も言わなかった。



唐突に視線を感じ思わず息を呑む。

「っ、重能ど」
「しっ!…、聞こえるだろ」

慌てて口を噤めば呆れたように肩を竦められる。どこから聞いていたのだろうか。大体隣室にいたことを失念していた自分も大概愚かしい。伺えば、どこかつよいその目がひたりと見据えてきた。

「…聞いて?」
「…勝ちゃあいい。そうすれば悩むことも無い」
「…そうですか?」
「どうせ直義様にしか意味がねえなら、俺らがうじうじ悩んでも時間の無駄だろ」

どこか力が抜けて思わず眉根を落とす。それを見た重能は一つ息を吐いて首を振った。

「仕方ない。尊氏様はそれでも大将なんだから、手前で望みを叶えてやりたいならやっぱり勝つしかないんだろ。その後は尊氏様自身で何とでもするんだから、って…ああ、巧く言えねぇが、まぁそんなもんだ」

「…あ…はぁ、」

些か唖然と見つめ返せば、重能は一言二言継いでさっさと踵を返し室に戻っていってしまった。またも一人残され立ち尽す。

重能が言わんとしたことを完璧に知ることは出来なかったけども、勝利の意味を定める権利は確かに尊氏にしか無いのだろう。

尊氏の憂いを晴らすことなど出来ないのなら自分に出来るのはただ尊氏に選択を示すことだけだ月の光自体はあくまで等しく照らす。だから等しく見上げているだろう直義に、委ねてしまえばいいのかもしれない

深々と息を吐いてゆっくりと室へ向かった。




「、重能!」
「只今戻りました」

馬から降りた重能の側まで尊氏は駆け寄る。丁寧に一礼すると重能は文を捧げた。

十七日、児島に留まっていた本陣に直義から使者が来た。赤松と三石の城を落とそうというらしい。尊氏は早速返書をしたためて、そして重能を使者にたてた。直義のいる陣は備中の河原とこの児島の間三里。遠くもない距離、誰をたてても差し支えはなかっただろうが、重能をそれに当てたのはそれなりの配慮だったのだろう。

「勝ったか」
「はい、脇屋も追い落しまして。幸いこちらの被害も殆どありませぬ」

文を紐解いて尊氏は食い入るように見やる。

「…直義は」
「お元気で、尊氏様からの文とても喜んでいらっしゃいました」
「…そうか」

はっきりと華やいだ声で尊氏は笑う。穏やかにそれを見る重能は、どこか達観したように頷きかえした。

結局はそうなのかもしれない。自分には出来ないことだってそのひとひらの文は容易く成し遂げる。もう、ほんの後少しで全て終わる。指先にかかった勝利を捉えるのは難しいことではないだろう。勝ちさえすれば尊氏は枠、を手に入れる。選択の幅としての勝利ならば尊氏の望みを叶えることができよう。そして尊氏の弱さが変わることなきその質なのだとすれば、それでいいのかもしれない。

重能を待って出される用意をしていた船が帆を張る。
重能に色々と尋ねながらそれに乗り込む尊氏を、そっと見やった。




「……こうか?」
「そうすね…、多分それでいいと」
「……」


海を渡る風は相変わらず爽やかに吹く。雨季に近い湿った空気は些か重たくあるけれど、風切る帆を止めることもない。相変わらず、甲板に据えられた机床には書簡が散らばっている。

…しかし最早その前に座るのは自分一人だけだ。


「……あの」
「もう一本くらいあげるか。火を貸してくれ」
「は、じゃあこちらに据えましょう」
「ああ、師直。其処をどけてくれ」
「……は」

最早軍議など存在すら無い。諦めて書簡をざっとかき集め、そのまま近くの台座へ、ぽいと放り出した。



児島を出ると、聳え立つ山に船から軍を見ることがかなわなくなった。
あからさまに沈んだ尊氏に、またも笑顔で火を手渡したのは重能だ。喜び勇んで狼煙などをあげれば、向こうの状況も推して知るべし、速攻で返事があった。

それから日夜…、寧ろ一刻ごとに。兎に角手当たり次第に上げまくり、最早甲板は狼煙の台座以外の役割を見いだし辛い。


「、返事か!」
「良かったですね」
「……」


文ひとひら、その返事だっていい。
尊氏が強くあれるのはまさしくその弱み故なのだから。


…―だから多少の事など気にはすまい。京に早く、着ければいいのだ。

薪を組み立てながら、それでも深々と溜息が漏れるのを止められそうに無かった。




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