瀬戸内を吹き渉る皐月の風は酷く乾いて快い。
海原の上を駈けていてさえその新緑を感じさせるには十分であった。薄く潮の靄のかかった朝でさえ、その爽やかさは海路を行く軍を慰める。地平線を染め上げて登る朝陽はその眩しいひとさしをまだ投げかけてきたばかりだ。


「師直、早いな」
「…尊氏さま。おはようございます」

二引両の旗幕の翻る尊氏の御船は絢爛と呼び指すに相応しい造りでこそなかったが、その偉容は覆ることのなき頼もしさがあった。…それもその筈で、これは彼の串崎の舟である。串崎の舟といえばかの義経公が壇ノ浦にて平氏を打ち負かした際に先陣を駆った舟である。その功に公役を一切まぬがれる免状を持ち、長くその腰を上げることのなかった一族が、尊氏の東上の為御船を捧げたのだ。幸先よろしく備後から船出を切ったのももう三日も前の皐月の十日。

しかし本陣の御船とはいえ五十近い兵にとっては大して大きな造りでもない。流石に尊氏にはその船室の一つがあるとはいえ、他は大部屋で一所に寝起きしていた。狭くはないが、詰め込まれるその空間には正直ぞっとしない。こうして甲板に立ちその開放感に浸り何とかなっているのが実情ではある。


「、師直?寝足りぬか」

覗きこまれてはたと我にかえる。

「い、いいえ。そんなことは…」

慌てて取り繕うが、何処かだるい体は否みようもない。顔色が悪いのも自覚があった。

「…まぁ海路では仕方ない。あと二日もすれば児島に着く、暫し耐えろ」

含み笑うように言われた台詞に思わず赤面する。船室の如何に関わらず元々海には強い方ではない。流石に酔いこそしないものの体調が悪いのは常のことだった。

…最も、此度の疲れはそれだけではないかもしれぬが。

「あの…尊氏さま」
「ん、」

矢鱈と穏やかに笑み返されて言葉に詰まる。

尊氏はこのところ始終上機嫌だ。最も張り詰めたようなあの様は正直見るに耐えないのだからそれは寧ろ、否、至極喜ばしくはあった。

多々良での再会以来、一月あまりを兎に角暇さえあれば直義と共に過ごした尊氏である。陸路と海路にとその行く手を分かつ時にはそれこそ悲しげですらあったものだが。

「…いいえ…なんでもありません…」
「変な奴だな」

さもおかしげに笑う尊氏には笑みをつられるが、見えた姿に思わずその笑みが引きつるのが止められない。

「おはようございます。お早いですね」
「あぁ重能、お前もな」

弾んだ声で頷く尊氏に隠れて息を吐く。


喜ばしい門出、幸先良い東上。
舟に揺られるその旅路が些か疲れるものになったのは訳があったのだ。





「見えるか重能」
「はい、おそらくあのあたりにいらっしゃるかと」

確かに船室は些か手狭だし、吹く風は快い。だがその風を切り進む舟足は今ひとつ駆る速さでなく、朝陽に照り出された甲板に据え付けられた机の上に、書簡が散らばる様はどこか有り得ない光景じみている。


「…あの…」
「あの綾桧笠は頼尚どのでしょう。」
「ん、そうか…あれか。本当良く見えるものだ」
「お褒めに預かりまして」
「……あの、」

どこか童のような様子の主がこんな事を始めたのはきっかり三日前、つまりは備後を出立したその日からだ。



「上杉重能、本陣にて尊氏様をお守り致します」

出立が決まり慌ただしい中、重能は自分と床机を囲んでいた尊氏をおとなってそう告げた。一瞬虚を衝かれたような顔をした尊氏は、だがいっそ素直に顔を歪ませた。決まり悪げに落とされた眉根は少し幼い。

「…直義か」

なにも言わずに重能は礼をとったが、尊氏は焦りに似た感情を閃かせて戸口のほうを見やる。当然そこに直義の姿は無かったけれども、尊氏は急に恥ずかしげに視線を逸らす。寂しいなどという感情が素で見える程に多々良後の尊氏は妙に稚気でもあった。そしてそれは直義にも言えることだったから、重能は一つちらりと笑うともう一度言い直した。

「直義様が、御自分の代わりに尊氏様をお守りするように、と」
「…そうか」

一つ頭を振って尊氏はどこか困った様に笑った。

「頼む」
「は」

そうして重能を加えて船出を迎えた訳だったのだが。
出航してから尊氏は始終甲板の柵に凭れて、陸の軍の進みを見ていた。陸の進みにあわせた船は当然そんなに早く駆れる訳もない。かといってそれを尊氏に言うのも気がひけた。二手に別れただけで今の尊氏にとっては一大事だ。これ以上を求めるのは酷というものだろう

「…あぁええと…師直?」
「…は、?!」

そんな尊氏を見ていると急に後ろから声がかかる。勢い振り向けば、そこに立っていた重能がどこかずけずけとした態度で言葉を継いだ。

「船、急がせなくていいのか?新田が迫っているんだろ?」

第一さっさと京を落とさないと俺が困る…などと呟きながら頭を掻く。呆気にとられて見つめていたが、言っていることは正論であるし尚かつ軍の進みに関することだ。自分が答えない訳にもいかないだろう。

「…尊氏さまが陸の軍勢と伴にお進みになると決められたのですから仕方ありません」
「いや、そりゃ…それはそうなんだけど、それにしたって遅いだろ。直義様の軍の位置が確認できる程度を保てばいいんじゃないか」
「…、」

ちらりと見やれば相も変わらず陸を見つめて立つ姿が目に入る。つられたようにそちらに視線を向けた重能はあぁ、と納得したように一つ頷いた。

「…尊氏さまは…、…?」

溜め息をついて更に言葉を紡ごうとすれば今の今まで眼前に居たはずの姿は無い。求めて視線を巡らせば、何時の間にか縁に立つ尊氏の前にいた。

「!し、重能ど」
「尊氏様、」
いっそ綺麗に笑いかける重能に続く言葉を失う。漸く気付いたように振り向いた尊氏も首を傾げてその言葉の先を伺った。
「重能?」
「船をお急ぎなさいませ、赤松以下数千が尊氏様をお待ち申し上げておりますれば」

案の定少し瞳を曇らせた尊氏は、小さく頷くようにして押し黙る。だが重能はそのまま笑顔で言を継いだ。

「第一この距離ならば見えぬ距離でもありませぬ。そうですね…今ならば、…ほら、あのあたりに直義様がいらっしゃいますね」

目を丸くした尊氏はがばりと顔を上げて岸を見やる。重能が手を伸ばしてあのあたりです、と指し示した。

「…彼処に?」
「はい、結構遠目は利くほうですから、多分間違いはないかと」
「…」

食い入るように見ていた尊氏は、ほうと息を吐き出すと傍らの長身を伺うように視線を上げた。

「…見えるのか」
「はい、だから御気兼ねなくなさいませ。お望みならばいつでもお教え差し上げます」
「、そうか」

満足げに頷く姿に何処か血の気が下がる思いがする

「なら船の進みはお前に任せる。いいか重能?」
「お任せ下さい」

力強く笑んで会釈した姿に今度こそ目眩がした。



それから毎日尊氏は重能に請い対岸を見る。自然と軍議すらがその甲板の机で行われ、尊氏は日がな上機嫌ではあった。

「…」

それを嬉しく思う反面、何処か疲れを覚えているのは否めない。

「……あ、の?」
「あぁ、重能。児島についたら一度文を頼んでもいいか」
「お安いご用です。直義様も喜ばれるでしょう」
「……」

いっかな進むことのない軍議の事は最早気にもならないが。

喜ばしい東上、幸先良い船出。
それでも重能の台詞そのままに。

一刻も早く京に入ればいいと、思った。



皐月の十五日、備前児島に着いた。
備前はあの佐々木道誉の支族である加治安綱の領地である。東上を予め聞き知った安綱は仮御所を造って軍をもてなした。

「宰相、この度の御東上誠にめでたく。…佐々木近江守からも言いつかっておりますれば、暫しゆるりとお休み下さいませ」
「出迎え大儀だ。有り難く使わせてもらおう」
「は、湯もご用意いたしております。」

久しぶりの、といっても都合六日足らずの道のりだったのだが、自分にとっては有り難い陸地だった。

「師直、重能。今日はもう休んでいい。折角の安綱のもてなしだ。ゆるりとな」
「は、」
「はい。有り難く」

穏やかに笑んで尊氏は一人踵をかえす。

「…じゃあ、私はこれで」

側の重能に礼をとってあてがわれた室に帰ろうとすれば、重能はひらひらと手のひらを振って尊氏にあてがわれたその隣の室に入っていった。

「…重能ど、の?」
「言っただろう。俺は直義様に尊氏…様のことを任せられたんだから、」

手の届かない位置にいては仕方ない、といって刀を抱えたままごろりと畳に横になった。

「……」

何処か重い足取りで誰もいない尊氏の室に入る。持っていた軍議書をその床机の上で開きながら、小さくため息をついた。




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