怒号の様な喚声が飛び交い、忽ち寄せる波には紅が滲む。
二十五日朝、和田ノ灯籠台へ上陸しようとした足利の海軍を迎えた軍は、勢い盛んな精鋭万を数えた。
「なかなか、やる」
御船の上で岸を見つめていた尊氏はちらりと笑う。
実際新田軍の勢いは思っていたより遙かに強い。寄せる船々を浜手から弾くように追い払っている。
こちらに吹きつける向かい風に乗せその矢を飛ばしに飛ばし、船を海上に縫い止めようとでもするが如きである。
「お退きになりますか」
「そうだな、一度沖まで下がらせろ。」
重能は軽く頷くと指示を飛ばしに下がる。
それを見送ってから、沖へ向かう風に袖を遊ばせつつ尊氏はしっかりと陸を見据えなおした。
浜手から遠く高台にはためく旗印。この距離から見えよう筈も無かったが、そこにあるであろう菊水の紋を
他の誰でもない尊氏が見誤るわけもないのだ。
「…退くぞ師直」
その顔に口惜しさは無い。
どこまでも青く広がる空に、二引両が翻った。
最早京までは指呼の距離、ここを抜けさえすれば京は手に掛かったも同然である。
児玉を出て尚打ち散らすように進んできた軍がこの湊川の辺りで宮側とぶつかるであろうことは分かっていた。
義貞の率いる禁軍が二万五千、そして先日正成がそこに加わったと報せがあった。
尊氏は矢鱈と正成を避けていた節がある。怖い男だと言ったのも一度ではない。
そして実際兵の間でも、その意識は強くあるらしい。瀬戸内を進む際に、馳せ参じた中国の味方を見て楠木勢だと
勘違いした兵たちが恐慌状態に陥ったのは記憶に新しい。
だから端から尊氏は激戦を予測していた。そしてそれでも、この天を衝かんばかりの足利軍が負けよう筈が無い
ことも分かっていたのだ。退くことに躊躇いは無く、また焦りなどあろう筈もなかった。
「重能、浜を攻める方から船を割けるか」
沖に下がった足利軍は統制はとれているものの些か浮き足だっている。
序戦でいきなり二百を散らされたのだから仕方がない。だがいつまでも沖で手を拱いているわけにもいかない。
上陸が遅れれば遅れる程陸手に回った直義の軍に不利になるのは明らかだった。実際、一度沖に引いた今山側は
益々激戦の様である。しかもそこに布陣するのはあの正成なのだ。
だが浜手の脇屋にしても数を並べた隙のない布陣である。突破には何らかの策がいる。
「船を…ですか?二十くらいなら割いても平気かと思いますが」
「そんなにはいらん。精々三か四、なるべく目立たない船がいい」
「すぐにでも支度できますが…」
「尊氏さま?それを如何なさります」
あぁ、と事も無げに首を振って尊氏は振り返った。
「船をかえる。三隻でいい。すぐにだ」
「は、?」
思わず重能と目を見交わし、尊氏に視線を向ける。
「僅か三隻ですか?」
「目立つわけにはいかん。残りには生田へ向かってもらう」
「あ…」
生田はこの和田灯籠よりも東、つまり京側の岸である。
なる程そちらへ船を向ければ義貞は追わずにはいられまい。湊川を守りきって京が墜ちれば何の意味もない。
「錦旗も高くさせ。義貞と正成を分断出来ればそれ以上願うこともない。」
「は」
ふと掠めるように散った波が目の前に飛沫く。
ぎくりと身を震わせば、霞むように目を細めた主が居た。
「…」
向かい風は巻き上げるようにして吹く。ただ静かに陸を見た尊氏の表情からは何を読み取ることも出来なかった。
拒絶に至らない拒否
踏み入ることを許さない距離がそこには確かに存在した。いつからだったのかそれは最早記憶に無い。
重能は勝てといった
尊氏に必要なのは力ではないのだから求めさせるのは難しいことではない
それでも何時しか忘れていたのではないか
今はいい
ただ直義が側に居ない、それが駄目なのだと知っている。
焦がれ、縋るような姿とて相応しい。
だがひとたび抱えられた膝のうちに立ち入る術を持たない。
それはきっと自分だけではなく、そして直義すら例外ではない。
いつからだった、いつまでなのだ。
最近はつとにそういった姿をみる事が多い気がする
尊氏は強かった、そして依存する弱さがある。知っている。
なのに踏み入れられないところには何か違うものがある
弱さと言うには冷たい、強さと言うには脆すぎた
いつ、変わったのかと言われれば心当たりはある。
例えば寺を出た夜や、京を落ちた日、多々良の後だとか。
何かが少しずつ変わった。それでも拒絶するあの距離はけして変わったものではない。
遥か昔から、透明に似たその瞳に宿す距離は確かに存在した。
守る全てに尊氏は縋り縛られる、それは尊氏の弱さだ。
守る全てに尊氏は己を見いだす、それが尊氏の強さだ。
とすれば、いつか切り捨てることを知ったその瞳は弱さなのか強さなのか
無防備にさらけだされた行く手に、尊氏の先を行くものなどいはしない
何を案じるわけではない
ただ漠然と感じるのは少し痛みめいた感情
絶対であるということは快い
拒絶に感じるのだってそれは安い心配などではない
それでもそれは拒絶に至らない拒否だから
ふとした瞬間に思いしらされる
笑顔に嘘がなくてもいつか尊氏は平気で嘘を吐くようになったのではないか。
段々と己すら騙せるようになったそれを自分は何一つ分かっていないと、
何一つ、分かってなどいないのだと。
怖い
静かさは今の尊氏に酷く似合う気がして、厭だった
いま、本陣には二百足らずがいるだけだ。錦旗を生田へ追った義貞に目論見通り本陣は和田から
悠々と無血上陸を為し、宝満寺の林間でひとまず寸時の休息をとっていた。
床机の前に座る尊氏は陸手で義貞を追う頼尚の伝令を聞いている。
「…重能どの」
「あ?」
今なら聞いてもいいだろう。
「重能どのは…直義どのをどう思っているんです」
数度目をしばたくようにしてから、重能は言葉をついだ。
「いきなり何かと思えば…またいらねぇこと考えてるのか」
「……」
「尊氏様と直義様のことなら出来ることは無えって言っただろう」
尊氏と直義、それとは少し違う気がする。
尊氏は変わったが直義に対してのことは何一つ変わってはいないという気がするのだ
「…いえ、」
と言っても、では何がと言われれば答えを持たない。
答えが分かっている質問などを敢えてぶつけた自分の意図など重能はとうに理解しているだろうが。
「…難儀な奴」
肩を竦めて見やる目には呆れた色と寧ろ憤るようなそれが入り交じっている。
確かに戦場で考えるような事ではない。ただ戦場に立つ度に尊氏が見えなくなる気がする。
戦うことが尊氏の何をかえるのか知る術は無く、突きつけられるのはいつだって結果だけ。
守られているようでさらけ出されている行く手に、何があるのか知り得るのは尊氏自身だけで。
「、申し上げます!!」
急に上げられた声にはっと我にかえる。
「何だ」
「楠木五百が一団となってこちらを目指しております!恐らく将軍ここにありきと知ってのことかと!」
緊張が走り、耳を研ぎすますようにみな押し黙る。未だ近く聞こえる筈もないその剣戟の音を等しく聞いた。
陸で直義の軍と激戦となり千も数えぬ楠木は散りに散って行方が知れぬのだとも聞いた矢先のことである。
「…直義に伝令をたてて急を伝えろ。」
「は、」
本陣は二百たらずの小勢
「……重能」
「はい」
「お前に預ける。」
「…尊氏様」
「頼む」
「は!」
迷い無く颯爽と重能は刀を抜き放ち張られた陣幕を出る。その広い背はすらりと伸びていた。
「すぐに援軍が来る!持ちこたえろ!」
本陣は少なりといえど屈強な旗本二百である。だが攻めいるのもあの正成。
「尊氏さま、馬をひきます。どうかしばしお逃げを…」
「師直」
ふと尊氏は声を潜めてぐいと顔を寄せる。
「正成は死ぬだろう」
「、」
「逃げるわけにはいかん…すぐに直義も来る」
楠木は最早全軍でも五百を数えぬ。義貞は生田だ、援軍もそう遠い距離ではない。
持ちこたえることは出来るだろう。でもそれでも何かを焦る。
「…尊氏さ」
「…師直、引きずるな」
「は…?」
「…甘えるな。お前は俺じゃない」
きぃん、と高く澄んだ音がして敵の襲来を告げる。あがる剣戟の音は忽ち陣幕を斬り裂いて広がった。
抱えられた膝、見えぬ行く手
何を怖がる
ー…そんな下らないものに支配されて身動きひとつとれなくなる…ー
尊氏は戦を怖がったことはない。歓んだことも、ない。
戦場で憂いめいた感情は消えることはない。たゆたうように漂うもの
退くときめればさっさと逃げた。武を誇る戦い方をするのはむしろ直義のほうだった。
なのに感じる違和感
「師直」
「…」
言葉にならない感情を持て余して、ゆっくりと尊氏を見返す。
迫る音は余りに近いのに、せり上がってくるものに集中できない。
「……何も考えるな」
怖がる。距離をか、置いて行かれる自分を?
それとも置いていかれるのは
「…お前が何を考えても」
「!尊氏さま」
飛びかかる様に迫る刃に、回された刀
「ぐぅ…」
地に倒れ伏した男をちらりと見ると尊氏は血塗れた手でがつりと胸倉をつかんだ
「、あ」
「お前はただ聞いていればいい。考えるな、これは命だ」
「…!」
振り払うように手を離すと尊氏は二三歩前に出る。隙間見える重能の振るう刀が朱を引いた。
「抜け、それか下がっていろ」
頷く暇もありはしない。重能らの剣刃をくぐり抜け飛び込んできた兵の数十足らず。
振り抜かれた刀に遅滞は無かった
戦を疎め、怖がるは傷をつけられるその行為。弱さなのか強さなのか、そんなこと知りはしない。
勝つことが決まっていても負けしか見えぬような戦でも。
嘘をつくのは、つかれるのも、変わらずに
斬り伏せるそれは一つの流れが如き。返り血すらが鮮やかにそれを彩り
舞うように、そう軽やかに演舞は進む。
壮絶な美は、浮かべた笑みに飾られて
「…」
戦いを憂い、その刃を恐れても。尊氏は笑んで刀を振る
「…あ」
全てを伏せるように重能は刀を振る。庇うように尊氏を見やる目にも余裕があった。
切なさにも似た気分に小さく呻く。怖い、全てを飲み込む刃の輝きがひたすらに異質だった
「援軍だ!」
上がる歓声をどこか遠く聞いた。
「…深追いするな、行かせてやれ」
最早楠木は散り、残るも僅か。死に場所を探すそれを妨げる気は無かった。
「尊氏様!ご無事ですか」
「あぁ重能、よくやってくれた。礼を言う」
「は…」
駆け寄る重能は血まみれだったが手傷一つ負ってはいない。
それを認めて微笑むように顔を緩めて尊氏は刀を鞘におさめた。
分かるのに、見えているのに、掴めなかった。深追いしたのは自分、それを止めたのは尊氏。
美しさに嘘は無い。でも頭が割れるように痛かった。
「……」
「師直」
楠木を退けた。もう正成は死ぬだろう。この期に及んで命を惜しむ相手ではなかった。
ならばこの戦は勝ったのだ。直義の援軍と合流した今義貞を追うのは容易い。
喜ばしい事実だ、
何故押しつぶされるように苦しむ必要が、ある
ひとつ戦を経るごとに、流される血がある度に
では今変わったのは、一体何だ?
「師直!!」
「っ、はい!」
響く声に打たれ、仰げばかち合う瞳。
「命だと、いった筈だ」
「尊氏さま…」
「黙れ…お前は」
苛立たしげに尊氏は一つ頭を振るときっとこちらを睨む
「俺に死ねと言われれば死ねるのか」
「…?!……それがお言葉でしたら…いつなりとも」
「…師直」
見返す顔には表情が無い。
「お前が俺を案じるなら、死ねと言われて殺す気概を持て。…甘えるな。お前は…俺ではない。さもなければ意味が無いだろう」
切なさに似る、痛みにも近い。絶対を知らぬ主の言はここまで刺さるように鋭く。
深追いしたのは自分、戻れぬのも自分だ。馬鹿な真似を、したのは自分なのか。
「…は…い。」
京の地を踏み、これから大きな転機を迎える。飲み込まれる不安から逃れる術はないのに
救いを期待する愚かしさを、誰か
「尊氏さま」
けして大きな訳でもないその痩身に凭れていたのか。深々と背を折り頭を下げれば、はぁと苦しげに尊氏は息を漏らした。
「……し…」
「はい?」
「何でも無い…」
疲れたように笑う尊氏にはどこか色が無かった。
「殿」
掛けられた声に尊氏は振り向いて、跪いた伝令を迎える。
「…正成一同自害。首級は既に頭殿の陣に納められまして御座います」
「…そうか」
蒼天を見る目には感情が無い。すっと逸らされた視線の先を追うことは出来なかった
「…ご検分なさりますか?」
「直義は何と」
「頭殿はご負傷なさいまして、今戦線を引いております」
何気なく告がれた言葉に忽ち場が凍り付く
「…な、んだと?」
「いえ!お命に別状は御座いませんが」
慌てたように継がれた言葉を聞いているのか
「っと、尊氏様、!」
一二歩よろけた尊氏の肩を重能が掴み支える
「……ぁ…」
苦鳴のように漏らされた息が零れ落ちる
ひとつ戦を経るごとに、流される血がある度に、変わったのは何かだなんて。
傾いだ痩躯
囲い込まれた膝
そうして身動きひとつ、とれやしないのに
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