あたりはもう紅を残さぬ仄青い空であった。
篝火が灯され始め、晴れ渡った今日の午の去り際を照らし出していた。 前を行く背を、暗澹とした気分で見詰める。 静謐な夕べの中で、彼の人の姿は酷く映えていて、未だに其れを認められぬ自分を柔らかく刺した。

さくさくと歩みを進める主の、足元に散らばる折れた矢。 直義の後陣の周りではあるから、途の目立つところでは屍体が除けられてはいたけれども、 それでも一刻ほど前までこの地が戦場であった証左は其処彼処に刻まれている。

「其処か」

急遽設けられた陣幕を一顧し、尊氏は言う。温度を感じさせぬ声にただただ首を垂れ肯いた。
そのまま陣の中へ入っていく尊氏へ付き従うべきか暫し躊躇い、結局のところのろのろとした足取りで後に続く。 一人にしてはいけないと、おこがましく思い、またそうさせて欲しくないのだと半ば面当てのように喚いてしまいたかった。


――楠木正成の首級が納められたしろい幕は此の青い夕べの中、一際鮮やかに翻って。



直義の怪我は兵の言ったとおり、確かに命を取るまでのものではなかった。 だけれどもそれは、直義のことであれば喩え指先を濡らすような傷であっても目の色を変える尊氏のことだ。 ふらついた足取りで急ぎ駆け付けた陣に、創に倒れる直義の姿ときては正に顔面蒼白といった態であった。

だけれども斯うして去りし戦場を歩む姿は、最早先程までの尊氏のものでは、無い。



「……尊氏さま」

首台の前佇んだ尊氏は、だけれども此方を顧み様とはしなかった。 控えていた幾名かに手振りで下がるように命じてから、そっとその背へ近寄る。 半歩下がったところまで近付いてから一度立ち止まり、否やのないことを確かめてからそっと踏み出した。

「味気ない」

刹那呟いた尊氏は、嘲笑とは違う色で口元を歪ませた。

「死に際は、」
「……最早此れまでと一族郎党自刃に果てたもの、との」
「本懐よの、正成」

いっそ冷たい口調で言い放った尊氏は、だけれどもただ凝っと台上に据え置かれた首を見詰めていた。

正成の死に際はまさに見事としか言いようがない、其れに尊氏は元々酷く正成を気に入っていたし、懼れてもいた。 尊氏の気質から考えれば敵への愚かとさえ言える情のかけ方だども、不自然なことではない。
だからこそ検分に相応しい冷たい物言いは、何故か酷くそぐわぬものと響き、底の無い暗闇を髣髴とさせた。


菊水の紋、非理法権天の旗は無惨に折れた。
尊氏は其れを惜しんでいた筈だ。確かに先刻までは。



「……首級を白木の台に据えろ。軍紀どおり湊川河原に梟ける」
「…は」
「師直」

銀刃の煌きに、細く息を呑む。抜き放たれた刀を、尊氏はいっそ無造作に振りかぶった。


「腸が煮えくり返る」


派手な音を立てて刀は首台に喰いこみ、木屑を飛ばす。 正成の物言わぬ首級の隣に寄り添うように突き立った刃が、陣内に灯された篝火を弾いて光った。

「…、た、尊氏さま」
「まこと立派な果て際よ。死すれば最早此の刃届くことも叶わん」

突き刺さった刃を引き抜かずに手を離した尊氏は、ついと唇を歪ませた。 今度こそはっきりと嗤いの形をとったその表情はいっそ愉しげですらある。


咲んで、刀を振る。
目蓋に浮ぶ情景に反射的に背筋に冷たいものが伝う。

尊氏は戦を恐れた事もなければ歓んだ事も無い。 凄絶な笑みで血飛沫に舞う姿には、だけれども心の底からの愉悦めいたものが滲む。


「……尊氏さま、御手が」

落とした視線の先が赤黒く汚れていて、反射的に声を上げる。籠手ではなく膚を直接汚す其れは先程までの斬り合いでついたものか。
「……はっ!巫戯気るな、許すものか!」

その汚れた掌でもう一度刀を掴んだ尊氏は、今度こそ力一杯振り下ろした。 角を欠いて、歪な形になった首台に其れでも正成は鎮座し、土くれと混じった落ちた木片が間抜けな音を立てた。

「……あ、」
「構わん入れ」

言葉を失って立ち尽くせば、尊氏は陣幕の入り口の方をちらと見やって言う。 釣られるように視線を遣れば、重能が静かに入ってきた。

「直義か、」
「…は」

ちらと首台へ視線を忍ばせた重能、しかし何も言わずに尊氏の前へ歩み寄った。 急に黙りこくった尊氏はだらりと刀を握ったまま腕を投げ出している。

「此れが正成の首ですか」
「そうだ」

一拍の後、尊氏は小さく言い直す。

「死してなお、血化粧うつくしい首よ。」
「……尊氏様」

非難ともつかぬ声で名を呼んだ重能に、尊氏はまっすぐ視線を向けた。


「直義には山崎に行って貰う。」

唐突に言い放たれた内容に、暫し思考が止まる。解せぬ命に、重能も小さく首を傾げた。

「恐れながら、直義様は御負傷為されてますし…山崎は前線、些か御辛いのでは」
「戦わせはしない」

今の直義を前線に出すなど尊氏こそが一番に避けそうな事案である。 困惑しつつその顔を見やれば、何処かぼうっとした眼差しで尊氏は虚空へ視線を逃がした。

「勿論山崎に陣を敷いて後、直義は其処に留め置く。俺が着く前に戦線開くことは相成らん」
「……」

何故、と問おうとして、言葉に詰まる。重能もただ言葉を発さず尊氏を見詰めた。傍らにある首級は、そうして曝される中に受けるもので最も強い怒りを受け止めていた。


「こんな下らないものを見せる気は無い」

小さく呻くようにして、尊氏は唐突に手にしていた刀を放り出す。からからと地の上を転がる其れを呆気に取られて見ていれば、尊氏は復も乾いた声で笑った。



「俺の、ものだ」


ぎらぎらと輝く刀は、露払いされて曇り無き刃を天へ向けていた。
くるりと此方へ向き直った尊氏は、酷く愉しげなその笑みを張り付かせたままでいる。 苛烈に灼ける眸だけが、全てを蹂躙し尽くすような怒りをありありと滲ませていて、吊り上げられた唇から零れる声は酷く暗い。



疲れたように漏らされた名を知っている。
冀うように呟く様を覚えている。

焼き尽くすように、奪うように、全てを護るのだと呟かれた名は、立ち上るような怒りの中にあって其れでも矢張り優しさのような甘さが滲むのだ。



「傷付ける術など無しと知れ」

汚れた掌を、寧ろ丁寧に掲げた尊氏はそっと口を寄せた。
舌先が削ぐ赤が尊氏の唇を汚すのをただ呆然と見詰める。

鮮血の滲んだ巾の巻かれたばかりの細い肩に、尊氏が震える手を伸ばしていたのを、今更に思い出した。






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