…―鳥をやろうか。

何が欲しい、と弟に問い掛けるのは珍しいことではなかった。埋め尽くすだけのものが全て自分の物であればいいなどと云う、幼稚な駄々を弟は笑って許容する。青く抜ける空を追う瞳が矢鱈と物欲しげであったので、つい言葉が零れた。手のひらに乗るくらいの可愛らしい、小さな。そういうのが弟の心を塞ぐように慰めることを知っていた。
だけれど少し困った様に首を傾げてから弟は頭を振った。別に欲しがった訳でもない、何気なく何故と問い返す。ふと揺れた色に思わず瞬いて、肩に凭れかかってきた体躯を見下ろした。傾ぐ様に頬を擦り付けるので、支えるように引き寄せる。囲うような体勢で、上目に伺う視線を縛った。兄上から、頂いて、籠の中で。ぽつぽつと繋がれる言葉は無闇に稚く、うん、と一言ずつ相槌を打つ。離せなくて…死んでしまったら、泣いてしまうから。きっと、と笑んだ顔は窘める様な穏やかさだった。
それなら何を欲しがっていたんだと、問おうとして澄んだ瞳に映る蒼穹に口を噤む。とくりと伝わる脈の音が、自分を絡めとっていく。直義は、存外意地悪を言うな。照れに似た気分に寄りかかる熱に顔を埋めれば、けらけらと軽い笑い声。

欲しい、と。
その実、真摯に紡がれた言葉に、強く強く手を握り返したのは勿論の事ながら。














開けた一面に夏草の青が広がる。暑い盛りだったが、日も傾く頃になればこうして涼しげな風が吹いた。風になぶられる草々は波打ち、ただ独り立つ自分を飲み込むようでも、また弾き出すようでもある。馬を放り出し分け入るようにその中に進む。ひたすら駈け乱れた息を少しずつ抑え、高台のほうへ歩いてゆく。足に絡みつく夏草は鬱陶しくもあり、冷ややかな感触は快くもあった。人の入らぬ高台に出る頃には波の高さは膝丈を優に越す。

暮れゆく日を背に立てば、遥か東の山々がのぞく。悠然と聳え立つそれはあまりに高く、その向こうを伺い知る事は叶わなかった。

…それでも東、この空を辿り行けば鎌倉の地があるのだと。

夏日の刹那の煌めきは鋭く、ただただ彼方を眺め遣る眼を射た。口を衝くのは、浮かび上がる様に心を占める名ばかり。遠く、会えぬというそれだけで何もかも狂おしい。

「……、」

風に流される名を、噛み締め立ち尽くす。…―出兵の許可がおりぬまま日は経ち、七月は終わりを迎えようとしていた。




「帝…、どうか、私に御命じ下さい」
「―…尊氏。大勢定まらずして兵を動かせば、いらぬ策謀にも落ちよう…そなたの心痛も分かる、が暫し時を待て」


握りしめた手の強さは、だが何処か等閑なものだった。既にこの様なやり取りを交わすは数回目だ。北条が蜂起してから、幾度も。そしてそうしている内に、鎌倉はとうとう陥ちた。攻め込まれ壊滅する前にと、軍は鎌倉を抛擲し落ち延びたとの報せ。幼い皇太子を擁し、辛うじて体裁を整えながら三河を目指し進んでいるという。


「ですが、今こそ時を与えれば叛軍は地盤を固め、朝廷の大害となりましょう」
「鎮圧に向かっておる軍も、努めておる」


後醍醐帝は、ちらと声音を落とす。似合わぬ伺う様な真似に、握りしめた手が微かに震えた。

「…私、が。一刻も早くに平らげて参ります」
「……」
「左兵衛督、お主が動かずとも、先発の者がきっと帝の御心を安らがせる戦果を上げましょうて」


挟まれた声の主を一瞥し、密かに顔を顰める。公卿の一人だが、初めて出兵願い出た際から延々と笑い混じりに自分の出兵など有り得ぬと宣うばかり。回を重ねる度に明け透けになる差し出た振る舞いには全く閉口させられる。回りの公家共にしても、浮かべる隔意には大して変わりがない。


「…恐れながら、軍権に関する処ならばこそ、私めにお任せ頂ければと」

「足利殿、今度の戦は先年のものとは違う。兵に長けた足利殿なればこそ…京で帝の御身を御守りすることに専念頂きたい。…北山の例もある」


如何にも、と朝堂をさざめかせる声はいっそ笑声の様な軽やかさだ。噛み合わせた奥歯の擦れる音が、目の裏で響く。述べられた勧戒めいた言葉面も、強ち正しからぬものではないのが尚更ささくれた気分を逆撫でた。


「京には武勇誉れ高き諸将が居りますれば、私如きを欠いても盤石でありましょう。が、京に兵至らば確かに御心騒がせるは事実。…ですから、その前にと」

「何を遜るような、抑々軍権に自負有ればこその奏上であろうに」


今度こそ毒々しく返された声は、嗤いと謂うにも引き攣っている。精々白けた風で流せば、今更の様に御簾の向こうの視線に気付いた素振りで引き下がった。


「…尊氏、近日、出兵はなろう。だがそれは今では無い」


再度繰り返される声はだが、籠められる意を諮るにも平坦だ。喉をつかえつつ、応えを返す。目を伏せても、凝っと薙ぐその視線は生々しく身を灼いた。


「…どうか…、…鎌倉を落ち来るは、私の―…」
「否、」

遮られた語調の頼りなさに、ぐらりと視界が揺れる。口を開き、続けようとしても、意味のある並びは組み立てる先から消えた。

「帝、」
「……今日は下がるがいい、主は、少し動じておるだけだ」


磨き抜かれた木床に頭を擦り付け、噛みしめたものが口惜しさではないことに瞑目した。だらりと礼服の袖が暑さに垂れ、伝う汗が蟀谷から落ちる。目尻から伝う感覚がそぐわしからぬ空々しさで、いっそ本当に空涙でも流してみせればいいのだろうか、と捨て鉢な思考が浮かんだ。倨傲の爺共でも、多少なりとも真面な態度を返すかもしれない。…それでも、ただただこの場で。似合わぬ真似ばかりしてみせる帝だけが、恐らくは今の己が心内を察しているのだろう。
間に走る某かの緊張はだが、受け入れる帰結の気配だけを滲ませ揺れていた。









ごろりと夏草の上に体を投げ出して横になる。犬蓼が紫紅色の穂をつけているのが目に入り、何気なく摘み取って手に取った。草の揺れる音だけを耳に入れ、空を見上げる。ゆらゆらと目の前で紫紅を揺らし、未だ朱には染まらず色を薄めゆくばかりの青を綯い交ぜる。

北条の蜂起。そして当然の様に、虚構煌びやかな舞台の上に立っていた新政は、いとも容易く切り崩されようとしている。半ば疾うに分かっていたこと、だ。出兵をと願い出たのは、ある意味当然のことだった。…そして其れが、拒まれることも。

さらりと風に靡く髪が眼の横を掠め、軽く瞬く。不意に乾いた笑いが喉を衝き、切れ切れに引き攣った声が落ちた。

「く…は、は」

思惟に耽るような真似をしておきながら、莫迦げた態度だ。俺は稀代の愚か者だ、などと嘲ってみても尚更空々しく響いた。

―…宮との、対立を避けなかった。六波羅の構えを整えるは、入京後当たり前のことだった。
そもそも、幕府が命を受け鎌倉をたった自分がなぜ叛旗を翻したのか。己が何をしようとしているかなど、勿論知り尽くしているのに。


何とは無しに続けて手の先に生える草を千切ろうと、指を揺らす。途端に熱い痛みが走り、弾ける様に赤が散った。

「あ、つ…」


とっさに手を引いたが、思いの外深く切れたそこからは大粒の血が滴り落ちていた。握り込んで血止めをしようとして、ふと動きを止める。寝転がったまま頭上に手を掲げれば、はたりと頬に赤が垂れ落ちた。滴る赤が火照る体温に心地よい。同じ温度の筈のそれは、何故だかひやりと冷たかった。

濡れた干草のような赤の香り、戦場を恋うごとき馨。自分が今向かうべき場所、戦場に立つその瞬間を待ちわびる様にその赤は鮮やかだ。指先を滴るそれを目で追って刹那、不意に沸き立つ情動に、必死に堪えて拳を握った。


…―直義。


鼓動の音に熱く指先が跳ねるのとは裏腹に、冷める視界には鮮やかな緑ばかりが映える。その戦場に今、立っているのは自分では、ない。



一つしか年の変わらぬ、弟。兄上、と自分を慕う弟と。そうして居られるだけの暮らしを享受する、たったそれだけが自分の全てであった。たった一人の兄弟、自分の為にあるそれが全てだった。父の不在を意識されていたかは分からぬが、それにしても常に共に在ることを許された。…家の名は豪奢な籠の様なもので、其れこそ鳥を飼うそのものより立派な造りをしていた、というだけの話だ。
守る、と幼い誓いをたてた事を、いつだって忘れたことは無い。けれども今、この手はただ惨めたらしく己が赤を握るだけ、その刃は何をも切り伏せる場所にはなく。


漸く夕陽に相応しい色に染まった空。もう大分遅い刻限なのだろう、帰らねば心配すると、わかってはいても寝転ぶ体躯は力無い侭だ。浮かんでは消える過去の情景に身を浸して、戦ぐ風が巻き上げるものを目で追っていく。気の早い星が白い空にぼんやりと浮かんでいた。











「直義」
「あにうえ…どうしたんですか、それ…」

幼げに顰められた眉、室に待たせていた弟が慌てたように駆け寄ってくる。少し躊躇ったが、つい小さな体に飛びついた。…霞むような記憶、幼い足取りは自分のものでもあった頃だ。

「転んだ」
「……うそです」
「半分は本当」

切なげに、自分を見上げてくる瞳にくしゃりと笑いかける。

「…―もう、しないってさ。だから直義が心配することはない」
「……!…誰、だったんですか?」
「廚かなんかの…ええと…うん兎に角下棟の奴だった」

土に汚れた衣は先程一応一通りは払ったが、埃っぽい匂いがした。…喧嘩と呼べる様なものではない。自分はこの館の若主であり、相手はほんの小間使いだ。けれど童同士、それなりに感情に任せたやり取りは交わされた。伸びてきたしろい手が顔の汚れを拭い、ぱたぱたと動く。


「叱られて、苛々してたから、って」
「…」

困ったような顔で、直義は視線を揺らした。

鳥や猫や、室を訪れるそれらを不器用に愛でていた弟が、痛ましい訴えをしたのは数日前。庭の片隅で蹲ったり、片足を引き摺るような哀れなものに、触れて良いのかも分からない、と顔を歪めた。日に日に目に付くようになったのだという、そんなもの達は、だが明らかに自然に負ったにしては数が多すぎた。挟まれた歪な悪意に、弟は身を震わせて嘆いた。可哀想、とか酷いだとか言うよりも率直に、何故、と。

稚拙な哨戒の真似事で、だけれども比較的あっさりと犯人は見つかった。塀近くは見張る者が在るし、奥庭に近い所であろうと適当に中りを付けて見張っていたら、見ている前で早速凶行に及んだのはひとりの童。…といっても、自分よりは余程歳上ではあろうが。鞭を手にした獄吏が如き剣幕を思い描いていた自分が、拍子抜けする程には幼く大人しげな顔立ちであった。

止めに入った、というより間違いなく当人なのかどうかを確かめたかったのが近い。

「もう、だいじょうぶ」
「…あに、うえ?」
「……ううん、」


ぐしゃぐしゃと弟の頭をかき混ぜてから、また梳いて落としてやる。為されるが侭になって此方をじっと見上げていた直義は、不意にすっと手を挙げた。手首に掴まってきた掌が涼しくて、動きを止める。きゅうと握り締めた手がそっと下がって、そのまま弟の膝の上に手の甲を置いた。

直義が。この弟が、痛ましく訴えなどをするのは自分にだけだと、知っていた。濡れたような色をしている瞳が、悲しみなどを浮かべるのは酷く哀れだ。直義が感じているならば。その痛みは共有されて然るべきで、自分は其れに傷つかなければならない。


無言で膝をつきあわせて座り込み、ただじっと弟の膝の上に預けた手を見詰めた。上に乗った掌が、少し温くなって熱を受けている。許されているものを少しだって取り零さぬ様、小さく俯いた。

「もう、悲しくない?」
「兄、上」
「…直義?」


汚れた掛衣の襟刳りを引く仕草に大人しく従う。どうでもよく脱ぎ捨て、薄着になり室の端に手を繋いだまま寝転んだ。

横になって見る世界は少し可笑しい。顔の横に置いた手を軽く揺らして笑う。向かいあった直義がふわりと綻ぶ様に笑んだ、その刹那。何かどうしようもなくなって、握った場所に力を籠める。分かっていた様に、そっと指先で握り返してきた感触に、包まれるように目を瞑った。


「手をつないで寝たら、同じ夢をみるかもしれませんね」
「いいな…それ」

…それはひどく素晴らしい、ことに思えた。
だから、とほんの小さな声で囁かれた声が優しくて、ひどく暖かい。



こんなにも嘘みたいに、幸福になるのは容易かった。




緩やかに落ちていった記憶はだけれども、不意に引き攣れたように震える。

鳥も猫も、なんでも。自分はそんなに、可愛がったことは無かった。小さい生き物が寧ろ、少し怖かったのかもしれない。だから、それはきっと直接的な、痛みではなかったのだけれど。

「っ、……」

どくどくと目の裏に熱が上る。急いで足を進めても、蹌踉けるような足取りにしかならなかった。夕暮れ、昼寝から目覚めて自室に戻る途中で目にした其れ。触れる距離まで近付いて、ただ見下ろした。

汚れて横たわる小さな姿は、酷くみすぼらしい。痛々しく見えるのに、不思議と憐れだという思いは欠片も浮かんでこなかった。地の色が変わるほど濡れていただろうに、影の落ちた毛並みは砂の塊の空疎さに似ていた。
じりじりと西日が首の裏を灼くのに、立ち尽くしたままで動けなくなる。それでもやっとの事で、ぎくしゃくと腰を折りしゃがみこむ。恐々と指先を伸ばして、その小さな体躯に、触れた。

柔らかい、という感覚だけが不思議とはっきりとあった。…その落差に土塊の其れを、思い浮かべていたのだと今更呆然と思った。それにしては、と視線をずらしていく。未だ生ぬるく、無闇に柔らかい。…ゆっくりと、のぞきこむ為に顔を下げる。半ば閉じられた瞼から覗いていた瞳は、ひと色だけを湛えて此方を見ていた。

「っ、う、え…」

気付いた時には、地に手をつき嘔吐いていた。何かしら駆け上った様な感覚があったのに、足先から熱が抜け落ちる。

立て続けに出た咳を抑えてから、ようやくのろのろと頭を上げる。痺れた様にぎこちなくしか動かせなくて、無暗に大げさな素振りになった。

そのまま暫くぼんやりと目の前に転がる死骸を見つめて、座りこんだままでいた。 意味を成さぬ言葉を拾い上げているうちに、何を考えればいいのかと、倒錯した思考が浮かび、途端弾かれた様に空を見上げた。 …はやく、しなければ。日が落ちる、前に。

思考を積み立てている間に、もう冷たい土を掴む手が、先に動いている。 土を掻く手は、けれども微かな憐憫すら乗せずに、隠さねばならないものを全て地の中へ放り込んだ。

「…、…はぁ…」

埋めた跡を確かめるように叩いて、土塗れのまま立ち上がった。 周囲を見渡し、室とは反対側に迷いなく足を向け駆け出す。 立ち上る夕餉の支度の為の白煙、が緩やかに夕空を霞ませるのが、赤々と映えていた。


「若、君?!このような所に…」
「構……いや、一緒にきてほしい」


廚の入り口で、交代を終えた門衛に出会す。腰に佩いたままの其れにちらと視線を這わせて、目を白黒させている彼を引き連れたまま廚に足を踏み入れた。

「若君、いけません、若君がお入りになるような所では…!」


門衛の制止の声が、廚の中に響く。無視して進めば、ぎょっとした顔で幾人もがこちらを見る。続く呼び声に、次第に騒がしかった其処は潮が引くように静まり返っていった。探していた顔を見つけ、ますぐに歩み寄る。顔を青くした彼だけでなく、誰に用があるのか悟った者もぎこちなく此方を見つめたままだ。

彼の目の前でひたりと足を止める。追いついてきた門衛を振り向いて、すっと手を伸ばした。


「貸せ」
「若君!」


抜いた其れは、自分に与えられたものより重い。けれども突き付けた刃の光だけは変わらず、確かに手の中に収まっていた。

「ひ、」

悲鳴のような声が上がったのは後ろで見ていた方で、彼自身は小さく息を飲んだだけだった。

「今すぐ出ていけ」
「…、」
「若…?、若君、」

声のする方に視線を向ければ、横に立っていた雑夫がおずおずと膝を折った。

「こいつが粗相をしたのでしょうか…?誠に申し訳ありません…お怒りは尤もなれど、ど、どうかお慈悲を…」
「慈悲?」
「こいつが御館様から頂く日銭で、幼い弟妹を喰わせてやれるんです…ですから、」

視線を刃先へ戻せば、途端がくりと崩れる様に這い蹲って彼も同じ様な台詞を吐いた。
口先で告げられた内容を転がして、小さく首をかしげる。 脳裏に浮かぶは、綻ぶ様な笑みばかり。噛み締めた舌の上に乗るのは、土の味だけだった。


「…知ったことか」


ひたりと動きを止めた相手を見下ろして、柄を握る拳がぎしりと音を立てた。

「若君、」

門衛が少し低い声で自分を呼び、不躾と呼べるほどずいと手を伸べた。だけれどそれに逆らわず、差し出された掌に柄を返す。刀を手放して、だらりと腕を垂れる。底冷えする感覚に、指先がぴくりと跳ねた。複雑な色で凝っと此方を見ていた門衛はだが、姿勢を改めると一礼して指示を、と問った。

「この場の誰でも他言は許さない。…父上には私から申し上げておく」
「……は、い」

押し黙ったまま、こちらを見てくる数人はただただ青い顔をしている。門衛だけに、ただ少しの謝意を篭めて軽く腕を叩いた。
…這い蹲ったままの彼は視界に入ることがないままで、厨を出ていく自分に、もう追い縋ることもなかった。











暮れ切った夏の日は存外に暗く、昼の間は無かった筈の雲が懸かる月をぼんやりと滲ませていた。寝転んだままで、段々と冷えていく風を頬で受け流す。握り締めていた掌を開けば、斑に汚れた掌は酷く滑稽な具合に歪んで見えた。

手をつないで、同じ夢を見れたら、それだけで。


追憶に誤魔化すことを許さずに、それでも目前にあるのはただ京を出ることを許されぬという事実。
幾つも、何だって、埋めてきた。悲しまぬように、と。ただそれが今ひとつ増えようとしているだけで何も変わったことではない。主と抱く相手、それに限っても初めての事なんかではないのだから。…きっと排除しなくてはならぬものに抱く、こんな情念紛いの執着は、己が気の迷いに違いないのに。

目にうつる月は欠け月で、引き攣れた傷跡にも似た形だった。



…――欲しい。


耳奥に響く声にただ目を細めて、掠れていく白い光を眺めている。
手に懸かるところに、輝くそれに手を伸ばす。そんな安易なこと。


強く掴む真似で視界を掻き消すと、指先には鋭い痛みだけが残っていた。






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