もう火鉢などと大袈裟な。だがそれが彼の温情である限り、私は襟を掻き開いてでもこの身に浴びるは幸いだ、
と己に言い聞かせ。
「ごめんなさい。お待たせしてしまいましたね」
「まあ、それよりもういいのか」
「ええ」
直冬を伴い戸を開けた直義は、病のせいか、この季節のせいか、自らを包むよう
に大きめの衣を着ている。
その癖顔色は白いが青褪めるでもなく、実は何時もと変わらぬようにも見えた。
「直冬、少し休みなさい。有難う」
「はい」
振り向きざま息子を下がらせ、向かいに腰を下ろす。
その癖何を切り出すでもなく、火鉢の炭が紅く染まり、灰が時々落つるのをちら
ちらと気にしているようだった。
このままでは埒も明かぬと、私が先に口を開く。
「寒いか」
「今はそれ程でも」
それはそうだろうよと内心毒吐き、扇で軽く床を叩く。
「無理をなさるな。別に出直してもいい」
「すみません。いえ、何からお話しようかと」
恥じるような笑いは、偽りでは無かろう。でも何処か煮え切らない。
その癖一人
になることを嫌がるような、だが見通されないようにと殻を曇らせている。
「なら私から、申し上げてもいいかな」
「ええ、勿論」
予想はしていたが、流石に早い、と。
今日は霜月の三日、 それこそ数年顔を合わせていなかった義弟は、何食わぬ顔で
直義の向かいに膝をつき、長い刀を腰から外して礼を取った。
一方の直義と言えば、初めはやはりと困惑していたようだったが、時折目を細め
思索に耽り、またいくつか言葉を交わすことで、自分なりに落し所を見つけたら
しい。尊氏付きの彼とは以前から顔見知りであったこともあり、強張るようなこ
とは無かった。
・・・かに、見えた。
「兄上は何かおっしゃっていましたか」
「いえ、急いでこっちに来たもので」
そうですか、と直義は小さく頷いた。
「…そういえば、護送の任はどなたが?」
「確か、陸奥守細川顕氏殿だと」
すると今まで続いていた取り留めもない会話がふと途切れ、彼は黙り込んだ。
横
目でちらと伺えば、その目は据わりきっている。
重能が首を傾げ、私がまずいと
気付けば案の定、直義は気配を鋭く変えた。
「護送が貴方の任でないのなら、誰の命でこちらに?」
兄上ですか、と矢継ぎ早に責められ、重能は仰け反るように身を引いた。
「いや、尊氏様は本当に関係なく、…まあ俺の気分、とか」
「…重能殿の?」
訝しむ直義に、降参だと首を竦めた重能は、私に目配せをしてくる。
いつになく
助けを求めて来た弟と、そうさせた隣の男を妙に愉快に思いつつ口を挟んだ。
「すまんな。私が呼んだんだ」
「…憲顕殿が?」
笑いかけてやれば、素直に首を傾げる。しかしすぐに、憤った表情に変わった。
「でしたら何故、私に今まで言わなかったのです?重能殿は今、嘘までついて、
」
「隠れて来いと言ったもので。重能が何故姿を消したか、たぶんあちらの尊氏殿
もご存知無い」
場はしんと、静まり返った。
直義は、膝の上に行儀よく置いていた手を握りこみ、拳に変える。そして怒りの
ような、だが妙に悲愴な面持ちで私を睨み据えた。
「お聞かせ願えますね」
「……お耳に入れてよいものかどうか」
白と言い放てば、直義は堪え切れぬようにくしゃりと顔を歪めた。
「……貴方まで、私を!」
「いやいや、違う」
手を振って宥めつつ、固まっている弟を見遣る。少しだけからかうつもりが、予想以上に直義が本気だったの
で、内心少し驚いていた。
「おい重能、お前があれをさっさと出さないから」
あれ、と雄武返しに呟いて、重能は黙った。
そしてしばしの膠着の後、頭を掻き
ながら、ああ、と素っ頓狂な声を出した。
「!そう、直義様、見てくださいよ!!」
突如として間の抜ける程の晴々しさで笑った彼に、呼ばれた名の主が面食らう。
重能はいそいそと背に斜め掛けしていた風呂敷を解き、床に拡げ始める。
そして姿を現した木箱の蓋を、弟は勢いづいて開け放った。
「見てください!」
「…え、?」
これは、とむしろ怯えたような瞳をしている直義の、その中を覘きこんで言ってやった。
「上杉御用達、丹波の黒豆餅だ。神無月最後の市に京でのみ並べられる、数量
限定の品でな」
今度は、直義が固まる。
私は抑え切れず腹を抱えて笑い、妙に人の良い弟は、まるで的外れで爽やな笑み
を浮かべた。
「大丈夫。まだ旨いと思いますよ。馬を三頭走り潰して、献上に参りましたから
」
「確かに、宮より先に来いとは言ったがな」
「ああ悪い悪い」
関東廊番という肩書も貰う前から、飛び出してくるとは。
早とちりの弟の完全な手落ちだが、そのうち父が何らかで上手く動いてくれるに違いない。
あの後、結局声を上げて笑い出した直義のあの態度の柔らかさをみるに、案外彼に頼んでも計らってくれるかもしれないとも思う。
「で、…御行列の露払いは済んだのか?」
「そりゃわかってる奴は片付けながら来たけどよ」
今まで気丈に持ちこたえてきた直義を、ここ数日苛んでいるものの正体に気付いている。
勿論彼が表立った政務を滞らせる筈も無いし、屋敷にいるものぐらいにしか衰弱は知られていない。
何より漏洩を望まぬのは直義自身の意思であるから、身内にしろその敵にしろ、京へ早馬が上ることはないだろう。
彼はここで事を荒立てたくないのだ。まだ支度も、整いきらぬうちに。
宮の配流が後醍醐帝の裁だとしても、流された先の処遇を決めるのは直義。
その直義から宮への『温情』を、よからぬ手段で請う輩が、沸いてきているのだった。
脅迫染みた書簡。だがそれでも目に見えるところで、彼に危害を加えることは出来ない。
だから重能は、味方にさえ隠密である必要があった。でなければ意味がない。
処遇が言い渡される前だからこそ上がってくる有象無象を消し去るには、直義の元に先回りをして、
向かい討つが一番効率的なのである。
ひとまずこの弟は、私の屋敷に居座るしかない。
彼の四頭目の馬は、あろうことか此処への道すがら息絶えていた。
直義の屋敷の灯りも視界から途絶えたあたりで、先を進んでいた重能は足を止め振り返る。
そして私が追いつくのを、待っていた。
「でも残念ながらさ」
「ん」
「網から洩れてるのもいるかもな」
ほんの一寸前から私の意識が、自分を通り越して後方に向かっていることを、当
然重能自身も気付いている。
刀の柄に彼の指が掛かると、握る拳甲から腕へと、筋が
走っていくのが分かった。向かい合う弟の全身から、殺気にも似た威圧が発せら
れる。
己も腰の刀を抜くべきかと考えていると、弟は一度横を向いて唾を吐き捨て、額に皺
を寄せた。
「お前なあ、また面倒臭いとか言うつもりか?何時も半端で止めやがるしよ。ち
ゃんとやれよな?」
「ああ、」
目の前で抜き放たれた刃は鈍く光った。血を吸い慣れた義弟の刀は、煌めきとい
うには意外にも何処か芒としている。獣の牙と同じで、必要のない輝きなどは備
えていないらしい。
「……ま、俺一人でもいけるけどな」
「上等。見せてみろ」
結局、血の戦を一番待ち切れぬのはこの弟だ。 此方のがきな臭いと吹き込めば、
真っ先にすっ飛んでくる。挑発するような笑みをくれてやれば、受け取るよりも
先に影の気配に切り込んでいく。
高い、鉄の音が聞こえた。
それ意外は無音、
まるで静かな。
宮の処遇が直義の口から言い渡されてから、半月程。
直義の、尊氏の、…そして世を統べる帝の意思であるという建前があるなら。
その残されし同志達が、いかに鬱積し、刃を向けてこようとも、その亡骸
すら水面に浮き上がることは無い。
あの時罪状を読み上げた直義に、案の定隠しようも無い雑言が浴びせられたので
あったが、
肝心の直義は、黙って宮を見返していただけだった。眉一つ動かさず。
こういった態度は結局相手を逆撫でするだけだったのだが、彼は自分が沈黙とい
う手段を用いることを貫き通した。
だが一度だけ感情を滞らせたような重い瞬きをした後、何事かを一人呟いた。
誰に聞かせる為でもない独り言で、傍にいた私でも唇が僅かに動いたことしかわ
からない。
それは彼自身ではなく兄尊氏を詰る言葉の、後だった。
『お連れしてください』
目を細めて見送っていた直義だが、列の最後を歩いていた男にふと近寄り何事か
耳打ちをする。男はぎょっとして、この若き相模守を見返したが、慌てて二三度
頷き列の尾に戻っていった。 またも何を吹き込んだのかわからぬ
――...陰湿な、
直義をよく知る私でさえ、思った。だが一方で、むしろ潔くそのような
態度をして見せたことが意外だった。
弁の立つ男だ。言いくるめようとするだろうと思っていた。 なのに、彼は何
も言わなかった。
「いいか重能。直義殿は良く頭の働く方だ。たぶんお前が、考えてる以上だ」
切っ先で無造作に頭を示しながら言ってやれば、重能はにやにやと笑いながら、
顎で続きを促した。
握る私の手から直っすぐな線として続き、斜めに傾むいているその刃渡りを、血
雫が伝う。
そして先端が示す先、見知らぬ死者の、こめかみの上に落ちる。
「任せておけば、事を成してくれる。だから私達は彼の策が滞らぬよう、道の露
を払い腐肉を除けなければならない」
「へえ。言葉面だけ聞いてると、正しく、って感じだな。
………で、兄貴。忠義と説くそのお心は?」
ばしゃん、と大きな水音がした。橋上の欄干の隙間から、ぐったりとした身体は目の前の弟にけり落とされた。
「願わくば得られる信の厚きこと、だ。直義殿は真に繊細で、用心深い心をお持
ちだからな。」
「頭に入れとくのはそれだけでいいか」
「ああ、好きにやれ」
直義なら重能を上手く使えるだろう。おそらく尊氏よりも。
直義は自分の頭の中だけで策を練り、誰にも打ち明けることのないまま実行しよ
うとする。他者を巻き込みたくないのか、邪魔されたくないのか。おそらくはその両方だ。
思索という点でのみ、直義程難攻な城は無かった。
勿論、探れば探っただけ答は手に入るし、協力者には必要な情報と思案を提示し
てみせる。
しかし彼に今有用なのは、策を共に語り練り合う者ではなく、策を理解せずとも
目先のことに、目先の命に動いてくれる者なのだ。
「いいねえ、汚れ役ってのは。でもまあ俺は、あんたがここまでやるとは思ってなかったけど」
「入れ込んでるからな」
「それは案外建前じゃねえんだろ、憲顕」
血を拭った懐紙が、ぺたり、と薄汚い音を立てて落ち、骸を追いかけて流れていく。
反吐が出そうだ。
温情など、何と醜い有様。
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