吐く息が白く、頬に吹き付ける風は切るように冷たい。戸の前で思案げな顔で待ち受けていた師直は、酷く曖昧な笑みで此方を見つめている。渡り廊の木床は冷え切っていたが、磨かれた其れは浮き上がるように火に照らされ明るい。夜が更けきる前の時分、灯篭に種火を絶やさぬ社のような真似は些か大袈裟にも見えた。

「…此処に控えておりますが、一刻も早くお済ませ下さい」

小声で念押した師直は、だがその口振りより遥かに憂鬱そうな視線で戸を見遣る。一間ほど離れた処で構える兵も、目が合うと肩をいからせて堅く目礼を返した。重たげな手つきで押し開かれた戸を潜り、二三歩と歩み入る。背後で戸が閉ざされ、そして錠が下ろされきるまで其処に立ち尽くしていた。別に意図があった訳ではなく、目が慣れるまでそうせざるを得なかったのだ。
風は無いが、灯の点されぬ室の中の暖かさは大して外と変わらぬ。しかも一面木の気配で固められた空気は、寧ろ余計に寒々しくすらあった。

「火をお入れしましょう、」

囁くように力の入らぬ声であったが、室の奥からは顕著な反応があった。息を飲む様な気配と、喉を転がす強張った応え。格子窓から差し入れられた火を受けとり、備えつけてある灯を幾つか点してゆく。その度に此方を見据えたまま動かぬ姿がゆるゆると浮き上がり、そして己の姿もがより鮮明に彼の人の眼に露になっているのだと分かった。

「足利尊氏…―」
「鉢にも火を…―、夜更には雪の気配もあります故、…大塔宮」




炭が爆ぜるか細い音が、漸く温い熱を帯びた空気に殊更響く。己が今どの様な表情を浮かべているか、些か覚束無い。つい一昨日の初雪の宴、全てが為された時自分は帝の坐す続きの間でただ虜囚の真似事をして時を送っていた。あの時この身が解かれる事は、一つの意味を持っていた。其れが、今斯うして眼前には真実囚われの身としてこの足利の家へと送られてきた宮の姿がある。喜ばしいか、と言われれば答えを決めかねた。一つ息を呑んで、ゆっくりと頭を下げる。床に付いた拳は未だにひどく冷たい。

「この様な仕儀と相成り、」
「尊氏」

遮る声が性急に響き、口を閉ざす。だが予想していたような面罵が続くことはなく、ただ只管な沈黙が落ちた。宮は、実際に内裏で、御錠だと告げる名和に捕らえられたという。己が縄を掛けたわけではなくとも、それは間違いなくこの手で為した事だ。幾度も迫った凶刃や、負った傷、夜通し焚かれた篝火、そして滾る様な殺意が溢されていたのを思い出しても。それらで打ち消してしまえば、その生々しい初雪の光景に対し何も思わぬ、と言えば嘘になる。実父に、縄を掛けられ平気な訳があるだろうか?―…思いの外自分の深く痛い所を突く思惟は、ここ数日ずっとこの身に燻っていた。


「今更許しでも乞うか」
「……いえ、さぞこの尊氏を御恨みでしょうと」

不意にくつくつと笑い声が漏れて、そっと視線を上げる。何処か苦く、けれども間違いなく愉悦に笑みを刻んだ宮は、そのまま少し姿勢を崩した。

「…ああ、勿論だ…憎い、憎いとも。だがな尊氏、貴様は違うのか?」

顔を上げろ、と改めて言われ静かに座りなおす。何処か虚ろに告げられる声は止め処なく、掌から零し散らばりゆく玉を思わせる程に淡々と続けられた。

「お主こそ、この大塔宮が憎いのではないか?今更この様な問いを重ねるのは遅く…そして意味のなきことだと、勿論知っておるわ。―…だが、帝に意を申し、お主を排除しようと様々な手を尽くした。政の儀のひとつひとつ、言うまでもなくおぬしの首其のものも、な…どうだ、これは別にお主の為したことと、何一つ変わらぬだろう」


面喰い、慎重に声を紡ぐ。…何に驚いたかは、はっきりと分かっていた。誘い出された言葉を其の侭口先に乗せる。

「私は…宮を憎いと思った故に、この様なことを為したのではありませぬ」
「…」
「…私は唯、帝の臣として…足利の者として。この様にしか在れませぬ」
「ならば分かる筈だ」

呆と視線を空に逃がし、宮は嗤う。


「貴様が憎いわ。だが、最早其の憎しみは虚ろとなり、この宮の物ではなくなったのだ…帝の息子として、何を抱いても今となっては路傍の石より価値無き物よ」

ひたりと哄笑は収められ、見据える視線は唯色の無さばかりが際立つ。痛ましさを感じる身勝手を責められたと分かっていても、身の内を冷たいものが滴っていく。こうしてあるひとつの結末がついたというのに自分は何も喜べていない、安堵出来ていない。その理由を正に突きつけられているのだ。斯うして、単身で語り合うのはこれが最初でそして最後になる筈だった。この先どのような事になっても、もう自分が宮に何を訊ねることもなく、そして許されはしない。

「……戦を、好むものがおりましょうか」
「…お主はそうかもしれぬ、だが少なくとも武家が皆そう考えているようには見えぬ」

何一つ終わっていないのだと、痛いほどに分かっている。何故だと、己で問う声すら白々しい。


「いつか帝を弑逆奉り、幕府を開かんと欲するだろう」


再三、それこそ宮と対立などという事態になってからは毎回の様に聞かされた台詞だった。だが、真坂と一蹴するには余りにたった今、己の内はただ冷えていた。

「私は―…」
「お主は武家の棟梁、仮令おぬし本人がどのように諂おうと、全てを諾うでも、それを受け入れられるものか。この宮が帝の息子としか在れぬ様に、お主は何処までも足利の者でしか在れぬ」

武家の棟梁、足利、当たり前のお題目だ。己が背負うべきはまずは其れしかない。そしてそうであろうと自ら望んでいる。だが、斯うして言及される口調は寧ろ垂れるばかりの同情と侮蔑に満ちていて、思わず項垂れる。己の弱さを透かされるのとは違う方法で、その無力を指摘されれば酷く後ろめたい気分であった。

この場に自分は何をしに来たのか。まさか本当に許しを乞いたかった訳ではない。勝者として敗者を睥睨しに来たわけでもない。一つの帰着が、止められぬ全てを曝け出す切欠でしかないことを知り尽くしながら、其れを正視するまで認められぬ弱さが、斯うして足を運ばせたのだ。


「…お主は、弟を重用していると聞いた」
「は、…」
「肉親ならばこそ、そうして動けよう。宮は、父帝をその様にお慕い申し上げ、支えてきた心算だ」

視線が促すように振られ、実際に覗き込むように体を乗り出す。ゆらゆらと揺れる火は、その横顔に薄く影を落とした。


「…弟は限りを尽くし私に尽くしてくれます、勿論、私も」
「……」
「ですが、帝を弑し奉りたいと、思うた事などありませぬ」
「ふ、くく、」

しゃあしゃあと言う。どこか暗い笑みで宮はぽつぽつと続けた。

「相争い、斯うして負けた麿と、お互いそうとしかあれなかったと先程言ったではないか」
「…」
「二つを選べるなどと考えるのは、赤子の我侭か愚者の貪欲ぞ」


分かりきったことだ。自分が何の為に生きているのかなど。譲れる類の事ではない、揺るぐ筈だって無いことだ。だが、家臣の一人ひとりを大切にする様に、他の誰彼かを心に留めるように、その様にしてこうして主を冠した…―それが、許されぬことと。分かっていたのかも知れぬのに。けれどもそれは全く種類の違う物だった。柔らかい部分を全て掴み、染み込んでいくような己の存在理由に対し、殴りつけ押し流し、そして後に残らぬものの上に積み上げていくような主の情。己を平らげもせず奪いもせず、ただ其処に居ただけだ。全てを捧げるなどと言える相手は自分には一人しか居ない、主ではない、唯一人しか。だが其れを求めぬ主だから、冠したに違いないのだ。


「……お主は、武家のためと言われれば帝を裏切ろう。そして武家を背負うことが出来よう」

それを為せる器よ、だからこうなる前に殺しておきたかった、殺してやりたい、―…殺そうと思っているぞ。告げられた声色すらが寒々しくて、酷く哀しかった。


「殺してやりたい」


何か多くのものを欠いた其の台詞が、正しい意味で響くことはもう無いのだ。いっそこの首に手をかけて縊る真似でもしてみせれば、いい。宮へ向けた視線にはそんな投げやりな気分が混じっていたが、ぼんやりと此方を見返す眸は暗く全ての光を飲み込むように暗澹としていた。

「斯うして態々身柄預けられては貴様も麿を殺せまい、…全く難儀なことだ」
「……宮、」
「…黙れ。―…尊氏、存外お主は嘘を付くのが下手だな」


その様な鈍くさい田舎武者は、矢張り到底好かぬわ。乾いた笑いが転がって、だが其の痛みに身を削がれるのは間違いなく己自身だった。

言葉が虚実の狭間に落ち。そして沈黙がまた降りる頃には、言った通りに重く雪が降り出していた。













先程も通された室を前に見る位置に立って、暫し柱に寄りかかり、ぼんやりと庭に垂れる濡れた緑を見詰める。まだ日の落ちる時間ではない。どんよりと曇っていても其れなりに薄明るい光に照らされ、浮かび上がる枝なりは、どこか芸を披露する楽士のようにただ華やかでそして強かだった。

そっと首を振って、室の前へ歩んでゆく。だが其処に手を掛ける前にするりと滑らかに戸は引かれ、琥珀色に光を弾く両眼が此方を見上げた。

「よく分かったな」
「足音が、兄上の物でしたから」

懐かしいやり取りを交わせば、すんなりと力が抜ける。ふわりと柔らかいばかりの微笑みはけれど、見慣れている筈なのに今何故か無性に切なさを煽った。

「温まりました?」
「ああ、沸かしたての湯だったからな」


笑み交じりの声に此方へ、と手を引かれて室に入る。既に用意されている茶器の類が目に入り、薄く哂う。その冷たい手が室の中ほどで離された刹那、反射的に腕が伸びた。立ち尽くす背を後から抱き込む。先程にも、そうして確かめたばかりなのに、その温度は矢張りこの腕に馴染み、そして驚くほどに鮮烈であった。

ほんの暫しの瞬く間だって、何一つとして、失った訳ではない。なのに、餓えてささくれ立った処が、こうしていれば何かを漸くこの手に取り戻したようだ、と叫ぶ。欠け、損なわれるように失っていたものを取り戻したのだと。

肩に近いところにぐるりと腕を回したまま、ただ抱き竦める其の力を抜けない。小さく笑って黙ったままで居る弟の吐息が肌に感じられるのが、少し櫟ったい。


「…昔、お前に、雲の端を見たいと言って困らせたことがあったな」
「……兄上?」
「雨の切れるところに立てば、手を繋いだ此方と其方で天気が変わるに違いない…とか」
「ああ…大雨の中探しに行こうと言って、」
「…でもそれなら端が通り過ぎるまで屋敷で待っていればいい、と丸め込まれたな結局」

くすくすと転がる笑声は軽く、預ける重みはそっと欠損を接ぐ。

「大雨の中手を伸ばした先が晴れ、中々面白い光景だろう」
「そうですね…目の前が大雨でも濡れない、なんて少し変な気分になりそうですが」

軽く身じろぎしたので、少し腕の位置を下ろす。首を捻る様に半ば此方を振り返った直義は、そっと右手を伸ばし頬に伝わせた。

「兄上」

滑らかな感触が伝って、小さく息を呑む。気遣うような、慈しむ様な、そして曖昧さを責める様な。薄く潤んだ眸には、美しいばかりの光。

「……なあ直義」
「はい」
「夢を見たんだ」

ゆめ、とその薄い唇がなぞるのを、どこか切ない気分で見やった。無性に寂しかった。大声で笑いたいような、泣き叫びたいような。石の如き沈黙も、湧き出すように口をつく声も、何もかもが恐ろしい気がした。ただ傍にあるこの気配だけのことしか今は考えられない、…考えないようにしていた。

…不意に立ち尽くす軒の並びは、よく知るようなそれでいて見覚えのない場所。通りを行きかう人々は己が記憶の中を掠めるようにして消えゆく残像のような希薄さ。誰も自分に注意を払う様子はなかった。

「知っている気がするのに、でも何も感慨は湧いてこない。顔を知る奴は誰も居ない。それで」
「―…それで?」

目の前の家並みを叩き壊し、そうしてこの喉を思い切り刀で掻き切った。そう囁けば、直義は少し目を見張った。困ったように滑る指先を留める様に頬を擦り付ける。

「目が覚めた時、喉が痛くて」

柄にも無く怯えた。苦く嗤い、そろそろと力を抜けば、その腕を導かれて崩れるように座り込んだ。

「…私は此処に居ます」

そっと首を抱くように伸ばされた手がしなやかで、今度こそ泣きたい気分になる。不器用に項垂れれば、膝に乗り上げるように、今度は抱きしめ返されて、そっと眸を下ろした。気を張り詰めていた、と。疲れているのだと、分かるのに。その仕草は矢張り何処までも優しい。





目を閉じれば、最前聞いたばかりの言葉を思い出す。




師秋、は何時も其の瞳に透明な憂慮を乗せる。それは弟に似つかわしくもあり、不釣合いでもあり、その食い違いこそが、彼の憂いに影を与えていた。


…―つい先刻。湯殿から上がり、その続きの間で衣服を調えさせていた時。視線を遣れば、戸に見慣れた背影が映っていた。

「師秋」

軽く名を呼ぶと、すぐに師秋は此方へ進み入り側女の邪魔に為らぬ所に控えた。相変わらずの物慣れた態度に、何処とない安堵を覚えながら、そっとその表情を伺う。この男は、己の執事と異なりそこまで表情に彼自身の感情を滲ませることが多くない。無表情と言うわけではなく、穏やかで引き締まった表情をしているのに、その内の影は精々ちらと翳る程度にしか姿を見せない。

「まだ早い時間なのに手間を取らせて悪かったな」
「いえ…雨が酷うございましたから」

気の急くままに駆けてきただけあって、夏とはいえど確かに頭の天辺から足元まで濡れそぼち冷え切っていた。

「直義様の室に茶の用意をさせますので」
「……師秋」

腰を上げかけた彼の名をもう一度呼び止めれば、今度は何処か見据えるような眸で此方を見返した。半ば分かっていた様にそっと膝で僅かににじり寄る。側女の手を止め、そのまま下がらせてしまう。人の気配が引けるのを窺って、少し苦笑めいたさざめきを浮かべた男はそんな所まで物慣れた様子で、此方も思わず苦笑した。

「何なりと」
「先ずは礼を言おう…この状況だが、直義をよく援けてくれた」
「……及ばぬ事ばかりで御座いますれば、寧ろ心苦しく」
「いい、」

何か皮肉げに視線を揺らした様には気付いたが、敢えて見ないことにする。問った所で彼はそうしたことは口に乗せぬし、大体翻って己の問題であることは分かっていた。

「軍のことは、あとで師直とも調整してくれ。数も揃っているし、問題ではなかろう」
「は、」
「此処まで落ち来る中で何かあったか?」

戦続き、少なくない死人が出たと云うのに酷い台詞ではあったが、師秋は意を間違う事無く静かに項垂れた。

「……ええ。酷く気を張り詰めておいででした」

痛みを隠すように振舞うのは、弟の習い性になっている。それが弟の優しさで、そして裏返せば哀しいまでの勘責であった。曇った瞳は凍える様にこちらを見るのに、涙の代わりに笑みを零してみせる。撫上げられる焦りと、狂おしい程の恐怖に、掌を握りこんだ。
幾つ夜を数えても、共に在らねば不安になった。幾つ昼を過ごせば解けるように水が流れるように、全てを平らげられるかと思っていたのに。結局は何もかもが塗り篭められず、そして曝け出すことも出来ずに凝るのだ。

歪な思惟が言葉を阻み、飲み下すものはやはり苦い。弟の瞳を見、この腕に抱いている間だけ得られる安穏に、だが眼前の男は差し出た口を挟むこともない。そのように在れるから、彼を弟は用いることが出来るのだと、知っていた。そして、そう思っていたからこその今の己の捩れた気分に、恐らく自分より師秋のほうがよく解しているのだろう。次の問いを重ねろ、とその視線は促していた。

そっと這わされた視線の先や、気安い声音、自然な仕草に気付かぬ訳も無い。何処かあからさまに突きつける態度は、師秋自身の陳謝の色が滲む。幾度も聞いた名だったし、特段気に留めるようなことではなかった筈だった。その視線を受けるまでは。

「上杉、憲顕と言ったか」
「はい」
「よく働いてくれたらしいな」
「…はい、」

渦巻く幾つかの感情は、打ち消し合って消えるではなく絡み合い落ちてゆく。多くのことを考えなくてはならない。そう思えば思うだけ、夜闇に揺れる篝火の輝きばかりがちらついた。言葉を切ってしまえば代わりに浮かぶのは愚かしい感傷の気配だけだった。

ふと気付けば、無意識のうちに瘡蓋に指先を這わせている。誤魔化す様に掌で少し水気の残る首筋を拭って、半端に羽織ったままの掛衣をすこし引き上げた。肩に青く痣になっているのは、この前絞り上げられた指の痕だ。口先に乗せる嘘や、苛立ち、そして真実身を切られるような悲嘆に、誰でもないただ弟だけは晒したくない。握りこんだ白く引き攣れた傷口の形こそを求めている。

師秋はまだ黙っている。訊ねなければ為らないことは、まだある。

「…師直は隠し立てていたが…それでも聞こえてはくるものだ」
「……」
「師秋、」
「……」
「他に書状で述べられぬ報告事があるなら、言え」

知っている、分かっている、でも聞きたかった。しかし問い詰める様に訊ねたくはない。ならば彼に口にして貰うしか、ない。


「鎌倉を捨てる折に、大塔宮を害し奉りまして御座います」
「………そうか」


耳に響く予想していた言葉の並びは、思いの外複雑な響きで腹へ落ちた。いつか帝を、と脳裏に蘇る声音は確かにその切り落とされたであろう首の主の声である。けれども其れは絡め取るように綾を持って、喉に痞えた。

早冬の夜。あの室の中で、虚実の狭間に落ちた言葉が浮かんでは消える。…帝の息子として。そう告げる声があれば否応無しに、その玉座を抱く人の低く足の下まで響くような張りのある声が思い起こされた。―…尊氏、と。しかし其処に乗せられた色は己の裡から沸く癖に全く以って判然としない。息子を亡くした時に、己がどの様な事を考えていたか思い返そうとしても上手くは行かなかった。


「……師秋、」
「―はい、」
「…茶の仕度を、頼む」


それからこれを、とそっと笑んで整わぬ己の格好を示せば、一度深く礼をして師秋は直ぐに立ち上がる。そっと瞳を引き下ろしてみれば、刹那落ちる暗闇にすら、ちらちらと光が散るようであった。

幾つもの言葉にならずに消えてゆくものが、静かに裡へ落ちてゆく。まるであの日見た雪が如くに、しかし其の実態は燃え切れぬ木切れが飛ばす煤の様に、かそけく不確かな物ばかりだ。
雪は、音を沈めて降るものだ。―…外を煙る水幕、雨音は続いている。









「…兄上、」

顔を上げれば、透明な琥珀はただ静かに自分を見ている。蘇る幾つもの言葉、迫られている全ての選択。胸を焼くのは恐怖でも後悔でもないのに、ただ焦燥だけが落ち着かずに、その瞳を求めていた。

「言って下さい。今此処で」

まるでその薄茶に吸い込まれる様だった。嵐の最中にいるのに、酷く静かだ。ただその声だけが不思議と響く。唐突な言葉に、だがするりと返答が口をついた。

「俺はお前が居なくては生きてゆけない」
「…、」
「だから、お前が齎してくれ」

寂しいんだ。呟けば、慰めるように頭を撫でる手が動く。弟だけは、ただ一人だけは傷ついてなど欲しくないと思うのに。ただ絡みつくようにその優しい手は罪ばかりを拭い、其の身に負おうとする。他でもない自分の為に、自分の所為で、雁字搦めになって動けなくなってゆく。
宮は死んだ。京都を離れ、そして鎌倉へ向かっている。

聞きたいことなど幾つもあった。言わねばならない事も多分沢山ある。

だが今だけは。せめて夜までは、ただ只管にその傷ついた掌を重ねていたかった。 垣間見えるのは焦燥か、諦観か、それとも絶望なのか。打ち寄せる愛しさと切なさに、そっと息をつく。


「―…直義」


幸せになれる。全てを手に入れられる。潮騒は、ひと時だって止むことは無いのだ。当たり前のことなのに、それはまるで途轍もない僥倖のようで、胸が詰まる。波無き海は、恐らく全てを失って揺蕩うばかり。掻き切った痕もない喉がひくりと鳴って、焦がれるように其の名を呼ぶ。


追懐の晩には恐らく、仮初に美しい星ばかりが輝く。ほんの暫しの間の逃避に、それでも安寧は確かにあった。
…簡単なことなのに。けれども甘えた体躯は力無く、抱く腕の直向さに言葉を失うばかりで。







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