こうしてまた、奉じる言葉さえ失って

暁を迎えた海辺の風は重たく背を叩く。吹き上げるようにして過ぎるそれはだが馬の足を駆るように運んだ。

「…正しく瑞兆、か」

笑むその口元はひどく力強い。照り輝くまでの光輝に思わず目を眇めた。



薄氷の上を歩むが如き道のりである。

迎えいれた手こそあったが、筑紫に落ちてきてすぐさまに突き当たった菊池軍の襲来。 大宰府はもう既に菊池の手に落ち、少弐妙恵すらもが追われたという。元々菊池は宮方と縁深き家である。 足利の下向を知りそれに連なる大宰府を落としたのは驚嘆すべきことでも無かったが、それにしても早い。 味方と呼べる数百はあまりに少なくか細い。何より時を競るこの状況は何とも苦しい…筈だった。 何故だろうか。
輝く光輝はむしろいや増して、立ちある姿は一層大きい。

勝てるのかもしれない。否、勝てるだろう。もはやこの戦は主の手にあるのだ。

「師直、」
「はい」

砂辺へと駒を進めながら尊氏はゆるりと笑う。

「見ろ、菊池は未だ影すら無い。」

高台からずらりと並ぶ横陣にしかし向かう下方に翻る旗の一本すらない。

少数の兵を敢えて押して福岡の方まで兵を進めてきた。 地の利ゆえに多々良に布陣を決したのだ。 それを提したのはあの少弐であり、つまりはここもとの地形は筑紫に於ける通念のようなものだ。 そのような賭地に陣取った利は大きい。数少なき兵を利がその数倍にも値させよう。

「そうですねきっと勝てましょう、…籠城などせず良かったと申し上げましょうか」

尊氏はからからと笑うように声をあげて手を振る。

「そう言ってやるな。具簡とて己の身のかかることだ」





薄氷の上を歩むが如き道のり。
実際、こうして多々良の地を踏むまでにも既に尊氏は削ぐような氷の上を歩んできたようなものである。

頼尚に迎えられ多々良を目指してから幾人もが足利軍に馳せ参じた。 数百を数えるのみであった兵は少しずつ増え千にも届こうかと思われ、直義との先陣と二軍に分けた行軍の中、 立花山に立ち寄った尊氏を兵と共に迎えたのは大友具簡であった。

「宰相、近江守具簡でございます」

老年に達しようかという具簡がその身を小さく折り畳むように尊氏の前に跪いて城に招き入れる。 どこか濡れた目でそれを静かに見やると、尊氏はおもむろに小さく礼をとった。

「な、」

打たれたかの様に固まるのは具簡だけではない。その場の幾人もが目を見開くようにそれを見た。

足利の宰相、武家の棟梁。鬼神の如き雷名を轟かせた尊氏が筑紫の地を踏んだのはこれが初めてである。 縁浅からぬ地とはいえ、見も知らぬ男をこうして主と迎えるものがいるのは幾らかの訳が確かにあった。

北条英時。嘗てこの筑紫の地をその叡知で治め、名をひろめたかの探題は北条の名ゆえ鎌倉幕府と共に死して尚、 その存在を悼まれた。そして英時は赤橋守時の実弟、つまりは登子の兄にあたる。 それ故に英時の義弟としての尊氏は、坂東から遙か遠いこの地に幾ばくかの権を得ていた。 そして此の地には帝への怨恨がある。古来より外つ国との軒先として宮と繋がりが深い筈の地である。 後醍醐が幕府に反旗を翻した際に如何なる武士に先駈けて菊池に書を宛てたのもそれ故である。
しかし聖業はやはりこの筑紫でも等しく行われた。 既に手に入れていた権の大きさ故尚更にこの怨恨は濃い。

その全てが尊氏を迎えるに利し、実際敵軍の中からすら足利への風当たりはそう悪いものではない。 組するに利あらばそれを躊躇う訳は一つしかない。


つまりは、はかりかねているのだ。
足利尊氏自身が信に足る相手か否かを。

値踏みする視線に気づかぬわけもないが、尊氏は至って平然としていた。 半ば以上ここは敵地に等しい。弱味など見せられはしない。
それは例えば某かの譲歩だとしても。

綺麗にとられた礼に動揺したのは果たしてどちらだったか


「具簡…お主の子息、貞載はこの尊氏に大功を尽くさせたばかりに戦陣ならぬ死を遂げさせてしまった。 此の場を借り詫びよう」

ぎくりと背を伝う感覚に視線を飛ばすが、尊氏の表情は寧ろ酷く静かだ。 己の代わりに親光に斬られた貞載に、負うところなどはないだろうが。

「い、いいえ、いいえ。戦乱の世の倣い、息子も本望でありましょうにそのようなご斟酌は却って いたみいりまする」
「…否、お主もだぞ具簡。尊氏が為捧げる全てを有り難く思えど、擲つこと相成らぬ。」

静かに視線を伏せた尊氏には某かの厳粛さが漂って館の大門の前を静かに締めあげた。 尊氏の態度はいっそ遜るようですらあるのに打たれたように身動きするものはいない。

だが何処か痛ましい目でそれを眺めていた尊氏はふと空気を和らげて具簡に立つように命じる。

「…聞けばこの館は貞載のものだとか、これも何かの縁であろう」
「…はい、誠に。今日のかかるお運びは正しくまたとなきご縁、どうでしょう此度はこの城より打って おいでになられれば」
「具簡。」


小さく予感にも似た。それでも最早これは確信と呼べよう
足利はきっと此の地を統べ、京へと旗を翻すことができるだろう。

そう思わせるのは間違いなくその光輝なのだから


竦むように立ち尽くす具簡ばぴたりと口を閉ざしてただ凝然と尊氏を見つめる。

「此の地はさほど地の利があるとも思えぬ、福岡まで兵を進める」
「…恐れながらこの少勢で、?」
「構わぬ。最早この尊氏に引くべき地など残されていまい、進むべきその途が一つしかなかろうと 先が見えてさえいればそれでよい」
「…」

何かを言いかけてだが具簡は静かに黙り込む。 どこか悄然と肩を落とす具簡はほんの数刻前に見た時より余程小さく見えた。

「、宰相…」
「…――」

尊氏は小さく何事かを囁き、今度こそ具簡はうなだれたように見えた。 だが急に伏せていた顔を上げると衣を蹴たてるようにして膝をつく。

「宰相、我らが大友勢、確かに御前にて尽力致しましょう」

具簡の後ろに控えた者から誰からともなく具足の音が鳴り響き、そしてその場に跪かぬものは無かった。 ただ戸惑うように成り行きを見ていた足利勢もそれに倣い慌てて膝をつく。 自らも従いながらただ一人そこに立つ姿を遠く見た。

「…大友具簡」

赤地金欄の鮮やかな衣は少弐妙恵が献上したそれである。 跪く大友具簡の手をつかせたものは、威光などという華やかさだけでは無い。

「頼みに思う。身命を尽くすがいい」

具簡が伏せるのを横目に頭を下げ、浸るように満ちるものに静かに目を閉じた。







「尊氏さ」
「…執事どの」
「あ…大友氏、これは失礼を」

多々良を控えその夜を城内で過ごすこととなった軍はひとまずの休息の時にあった。 宵闇の中厩の側に立つ尊氏を見つけ声をかけたが、どうやら具簡を伴っていたらしい。 慌てて下がろうとすれば尊氏が首を一つ振ってそれを止めた。

「私がこれで失礼致します、では宰相、執事どの。ゆるりとお休み下さいませ」

足早に駆け去る後ろ姿を見送ってから窺い見れば、少し淡い笑みで尊氏は此方を見ていた。

「分かりやすい奴だ。聞きたいことがあるんだろう?」
「…はい、お分かりでしたか」

分からない訳も無い、と喉奥で笑って上目に先を促す。些か決まり悪くなる心地に当てつけるように問った。

「………その、お気づきでしたか」
「お前は考え過ぎだと言っただろう。」

口の端を吊り上げて尊氏は厩の柱に寄りかかる。きしりと細い音がして暮れる薄闇に鳴いた。

「尊氏さまは最早一介の将では無い、とも申し上げました」
「だから斬るか」

全て。続く言葉に曖昧に笑み返せば、尊氏は肩に流す様に頭を倒した。

「…尊氏さまこそ、具簡に何と仰ったのです」
「……今なら、と言っただけだ。」

―…今なら、この距離ならこの首お前に取れよう…―と。

「あんまり離れると『誰か』が考え余って構えていた刀に先に止められるからな」
「またそのような…!この前はあの婆沙羅でしたが此度は敵地で御座いますのに、戯れが過ぎます」

兵を控えさせたのを尊氏が薄く見ていたのは知っていた。 考え過ぎなどと言われても控えられる訳もない。 ここは間違いなく敵地、実際に具簡が今尊氏になにを言っていたのかも予測がついた。

「戯れなものか。」

笑んだまま目を細めて尊氏は足下を見つめる。

「今大友を斬れば筑紫の地全てが敵に回ろう。さすれば明日の日の出すら見ること叶わん」
「…やはり、そう?」
「具簡も率直な男だ。黙っておけば知れぬものを、隠し立てしないのが奴の忠義なのだろうが」

半ば分かっていてその具簡と二人になる尊氏も尊氏だ。 芝居がかった動作で身を引いて言葉を継いだ。

「…初めは大友の命運が為、先行き無き朝敵を葬り帝に捧げんとも思っておりました、と」
「…それは確かに率直というか…」

些か呆れて息を吐けば、揶揄かうように視線を流した。

まさしく危地に立っていた。押し切った光輝は作為ではないだろうが
…『今この距離ならば』だと?



「…では尊氏さまは正しくその首賭けられたのです」



ひたりと見据えれば返るのは見上げる視線。 尊氏は一度静かに瞼を下ろしてから、暮れた残照を留めたような苛烈な瞳を向けた。

「言った筈だ。二度目は無い」

うすらと暗い夕焼けに浮かぶ白い月は細い。

「…それでも一度目を掴ませねばその手届くことも無いだろう」
「…一度、ですか」

釈然ともしないが尊氏は引かないだろう。 どうせ自分が引かないのだって分かっているのだから致し方ないのかもしれぬ。

「お前もだぞ師直?」
「は?」

ふ、と浮かべられた笑みは酷く鮮やかで思わず目を奪われたが、


「この首欲するならばいつか一度だけ試してくれる」


吐かれる毒の甘さに、ぐらりと目眩がした。

「……尊氏さま、」

訳の分からない熱に狭まる視界を必死に繋ぎとめる。 目の前の尊氏は笑っているけれども弾く残照の苛烈さは些かも変わりが無い。

吹き上げる風に、そのひかりに静かに息を鎮める。 ただ一言も無くこちらを見据える主の顔を正視できるようになるまでには日は完全にその姿を消した。

滴るように甘い毒はだがその凄烈さに敵うものでもなく。 浅く息を吐いて、そろりと尊氏に視線を合わせた

「……尊氏さま。先程お尋ねになりましたな」
「…」
「だから斬るのか、と」

静かに凪いだ何かから衝かれたように言葉を押し出す。

「斬りましょう、尊氏さまの敵だとあらば、全てを」

例えばそれが己だとしても

さすれば落ちる首を見送ることは無いだろう

「まあ…いい」

暫しの時があって、どこか困ったように尊氏は頭を一つ振る。窺うような視線はどこか幼い常のもので。 浮かばせる笑顔が綻ぶのが分かった





夜明け前に城を出立してついたこの多々良の地。 此の戦ですべてが決そう。だがおそらく既に勝利は尊氏の手の中にあるのだろう。

ならば自分のすべきことは一つだけ
主の敵を全力で排除することそれだけで

「行くぞ」
「はい」

吹き上げる風に、差す光輝に駆られて駒を進める。

握り締めた手綱がしっとりと手のひらに馴染んだ





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