凍えたまま、眠ってしまいたくなる。

信じている、とか。
この感情すらつまらなく見えるだろうから。

だから、早く




一瞬で幻と現は入れ替わった。
突然開いた目蓋の重みと、畳に直に触れていた右半身の痺れが間を置いてから染みる。
濡れた感触を感じながら視線を落としていく。
頭を預けていた右手の甲を裏返すと、平に畳目の後が赤く食い込んでいた。

冷たい。

それでも、頬を伝っている涙が畳に吸い込まれていくのを、待つだけなのだ。




横たわったまま虚ろに眺めるその先では、ちらちらと影が動いている。
そのまま視線を上げると、静かに縁側の戸を閉めようとする息子の姿があった。


「直冬」

少し擦れた声で呼ぶ。
直冬は機敏に振り向いて、そっと近くに座る。

「ごめんなさい。起こしてしまいましたか?あの、そろそろ日が…差してきましたから」

黙って首を横に振った。
すぐ横にある書机の影をぼんやりと見る。


「義父上、お疲れならこのままお休みください」

両手をついて上半身を起こす。
甲に浮き出た青い血の管と、垂れた前髪が視界にちらついた。

「これ、直冬が?」

小さい声で尋ねながら、掛けられていた衣を手繰り寄せる。
頷いた直冬は少し目を伏せた。

「有難う」
「いえ」

自然と零した笑いを向ければ、直冬もにこりと破顔する。

確実な何かが穴を埋める。私は安心して、いつもの私に戻ることができる。


「…憲顕殿は?」

「もうそろそろいらっしゃる頃かと思いますが」

「そう、だね」


手放してしまった実務

硯の墨がもう乾いている。
薄く張った黒い膜が弾き返す光は、無機質で何処か強い。
夜の闇の中の水面にも似ていて、一瞬引き込まれるかのような錯覚を覚えた。

この感覚に
覚えなど、ないはず



「なら憲顕殿が来るまで、休んでいた時間の分を取り戻すよ」

「…義父上」

心配そうに表情を曇らせながら、直冬は掛けていた薄布を畳んで腕で抱えた。


「大丈夫だ。私はこういったことをするのが好きだから」


まだ不安気な直冬にもう一度微笑み返して、机に向き直る。

重厚なその黒に触れようと、爪が近づいた。
無意識だった今にやっと気付く。
まだ夢見を、寝覚めを引き摺っているらしい。


背筋をぴんと伸ばして、右袖を軽く押さえた。

新しく墨をする。覚えているこの所作に静かに身を委ねる。

嘘ではない。
武士達をまとめ、一つの機構を円滑に動かす。
この心安い鎌倉の地は、京よりも遥かにいとおしい。

澄んだ水面の奥底
水底に沈みきった泥
飲み込まれる前に、小さな綻びから突き崩せばいい。
付け込まれる隙間は嫌な流れになる。



筆に墨をふくませる。

日差しに当てられた紙の白さに、うっすらと目を細めた。

考えてはいけない。
でも考えてしまう。

会いたいと言ったら頷き返してくれるだろうか
会いたいと言ったら―…


「義父上」


「……ん」


「髪を結い直しましょうか」

妙な頃合いで声が掛けられた。どきりとして直冬を見たが、彼はいつも通り綺麗に微笑んでいるだけだ。
少年と言える年を過ぎて、秀麗な顔つきは徐徐に一つの人格として定まり始めている。



似ているわけではない


櫛を取ってきます、と言い置いて直冬は私の寝室に行ったのだろう。


独りきりになったその中で、ただ戸惑う己を持て余す。
しかし筆を持つ手が止まることはなく、感情を切り離すことに苦労もしない。


だけれど私はどうしても、











「夢を見ました」


正面の憲顕は猫背気味に座り、上目に私を伺っていた。
手元の扇からは、焚き付けた香の薫が仄かにあおられてくる。


「とても嫌な夢を。」

「そうか」


戯れた指が一度竹の軸に絡んだが、また何事もなかったように動きはじめる。


「たかが夢だ」


憲顕は繰り返す。


「たかが、な」


ええ、と頷く私はやりきれず俯く。
それでも視線を逸らさないでいてくれる彼は、本当に優しい人だ。



言い切る憲顕の強さ
そしてそれに縋る私の弱さ

弱さに気付いた方が、先だった。



気にするな、と言った憲顕が、その心地よい風を私の方に向けてくれる。
彼の遠回しなあやし方も好きだ。
上品な白檀の薫が鼻先を掠め、前髪を軽く揺らした。

何を見たのか聞いてほしかったのかもしれない
しかし私以外の誰にも、知ってほしいことではない。


「…もう忘れます」

「それが一番だ」


風がそっとゆるむ。

旨く吸い込まれてくれるだろうか







私が兄上に、
『いらない』
と言われる夢











時期的には「後ろの目」よりも前。
いつ始まるか解らない本編仕様。説明になりきれてない上に内容が被。