畏れたことはあっても、懼れたことはない。
『強く在れ』
架せられた枷に、付随した責務。自ら学びとるには幼すぎた自分に差し出された本当に多くの手。
強くあれ、刀を取り血を流しそれでも立つ強さを。肩に掛かる重みを背負い立つ強さを。
立つ、強さを得よと。
それでも時に立ち止まる際にどうしてその強さを保てるだろうか。
強くと諭す多く手の中、引き留めるように弱さを教えてくれた一人の手。
――お悩みになりませ
ただ前だけを見て立つことがどれだけ危ういことか、知りそして動けと。
それでも
畏れたことはあっても、懼れたことは、ない。
荒れ果てた京。
何より煌びやかであった筈のそこは焦土に根付く術を案ずるほど、見るも無惨な姿へと変わった。
色々なものがあったここには何一つ無くなった。
それでも何が無くなったのか答えられない、その霞がかった様だけは確かに京の本質として残る。
何もかもが朧気になる地だ。目の前の情景すらを遠く見つめる。
白刃の煌めきを恐れたのは何時までだったか。最早それは自分の生の一部としてある。
「…師直、貞載は」
「はい…薬師を呼びましたが…恐らくはもう…」
「…惜しいものだ…親光の遺骸も、惨く扱うことならぬ。丁重に葬ってやれ」
洞院の空館に据えたばかりの本営に、降将の知らせがあった。結城判官親光と言えば帝の側近であり、結城家は東北の大族の家だ。その親光が親交のある大友貞載のとりなしで降ってきているという。それが真ならば
またとない好機、早速場を設けたのだが親光はやはり根からの忠臣たる男であったらしい。
大門の前で降将の取り決めに従い刀を預かろうとした貞載にいきなり斬りつけ、本営の中に飛び込み刀を
振るった。といっても多勢に無勢、到底この自分までは届くこともなく直ぐに幾刃もの刀の下に倒れ伏した。
血を吐きながらも、視線を動かし親光はゆっくりと口を動かした。
「…帝…お許し下さい、この親光は御誓いを果たせませんでした…この足利の不貞者が焔獄に落ちるはもう少し先のこととあい成りましょう…」
「貴様!何を世迷い事を!」
「頼春」
尚斬りかかる頼春を制す。自らの血溜まりの中から、それでも親光はこちらを見据えてしかと笑む。
数日前にも見た光景。しかしそして親光は血溜まりに浸り、そしてどこか皮肉気にこちらを見据えていた。
そして何を語ることもなく、笑んだそのまま親光の目からは静かに光が消えた。
皮肉なことだ。
正に命を擲った親光は何を為すことなく血溜まりに沈み、
血に恐れを抱いたあの青年はこの左腕を確かに裂いたというのに。
血の汚れすら拭き取られ、すっかり元の体裁を取り戻した本営はだががらりと人が出払っている。
直義が明日にも入洛できそうだという。戦の帰趨はとりあえず定まったのであろう。
「…随分と恨まれたものだ」
思い出し軽く苦笑すれば未だ固い顔をしていた師直が眉を吊り上げて言った。
「…恐れながら、尊氏さま。もう少し、御辺にお気をつけ下さい。尊氏さまは、今や一軍の将ではないのです」
どうやら先日のことをまだ怒っているらしい。黙り込んだ師直は酷く苦々しげだ。未だ記憶も新しい中の事、
繰り返すそれが程度を増すことを危惧しているのだろうが。
「…むざむざ殺されてやる気もない。そう気に揉むな」
死にたい訳ではない、だが死ぬ気すらしないのだからそれを恐れよう筈もなかった。
向けられた刃を恐れたことはなく、付けられる傷を重く感じることはない。
戦場を駆ける勇などとは違う。
それ故に恐れない訳ではなくただ気に掛ける必要性を感じない、それだけのことだった。
師直の目は不満気だったが、論じる前提が既に違う。
自分にも分からないものに、師直は諦めたように息を吐いた。
二十七日、気味悪い色の日が昇り、その日京は不自然なまでの静けさの中にあった。
「顕家か」
「はい兄上、三井寺はもう攻め落とされたと」
漸く一軍と為った足利軍に、しかし休む暇などは無かった。奥州からまるで矢の如き速さで下り来た顕家が、
そのままの勢いで京に押し入ってきたのである。
「…やむを得ん、出る。」
張ったばかりの本営はもう棄てねばならない。三井寺から雪崩を打つように流れくる顕家とそして義貞の軍
を止められはしないだろう。
「…はい、では直義が先陣に立ちましょう」
そう言う直義はだがどこか自信なさげな態度だ。仕方が無い、これは軍としての強さとは違う。
京には兵糧が無いのだ。予め京侵攻を予測した官軍の仕業であろう。そして頼みの補給路はよりにもよって
あの楠木が塞いでいるという。なるべくなら直接刃を交えたい相手ではない、楠木の強さは必ず多くの血を流す。
どちらにせよ数万の軍は餓えている。士気の低い軍は否応無しに敗色を示した。
「…すまぬな頼むぞ直義」
はい、と答える直義は無理やり表情を和らげる。握り締められた手には気づかぬ振りをして
将の名の綴られた書簡を開いた。
入洛してからの直義はどこかおかしい。
酷く上の空かと思えばじっと何か見据える様にしていることもあった。それでも軍務に滞りが無いのがこの弟らしいところではあったが、何にせよどこか不安定な感が否めない。
何に起因するのかが分からず見て見ぬ振りをする他無かったのだが、自分も存外余裕が無いらしい。
分からないというよりは分かる筈のものを見落としているような焦りがうすらとあった。
「…で、ここを重能どのに任せますから…兄上?」
「あ、ああ分かった」
書簡を指差しつつ述べられた言葉を薄くなぞる。
要は直義の本隊が先陣を駆り上杉に中軍を任せるというらしい。否やのある筈もなく頷いた。
「殿」
急に廊から掛けられた声に振り向けばここ数日で更に見慣れた姿が書簡を抱えて立っていた。
「直義さまもご一緒でしたか、軍議のお邪魔をしてしまいましたかな」
「いいえ、そんな」
慌てて否定する直義の斜め前に持ってきた束を置いてからゆっくりと立つ。伺うように此方を見る視線に
息を吐いて言葉を乗せた。
「…伯父上、用向きは何です?」
伯父、憲房は少し直義の方を窺ってから少し笑って首を振った。
「…大したことでは。この書簡は先日の戦の注文書ですが、私はただ彼が困っているようでしたので」
「彼?」
「お食事をとられてないようですね、廚のものが未だに支度していますから召し上がりなさいませ」
見ればちらりと命鶴丸がこちらを覗く。驚いた直義の顔を横目に苦りきった声で答えた。
「…分かりました」
「はい、そうしないと傷の」
「伯父上」
無理やり遮ってから直義に向かい直る。
「兄上」
「ははすまんなこの兄のうつけぶりも相当だったらしい、…じゃあそのようにやってくれ、夕刻には出陣する」
早口で捲したてて、開かれた書簡を纏めて直義に押し付ける。戸惑うようなその手を無理やり引き上げて
半ば押し出すように、室から追い出す。廊の命鶴丸に目線で示して書簡を半分持たせ、直義の室まで送らせる。あんまりといえばあんまりな態度に直義はようやく何か言い募ろうとしたが、頼む、とだけ言って障子を
閉めた。
「…殿、」
「…分かってます、命鶴丸が戻ったら…持ってこさせます故」
別に何を思うことがあってしたことではない。煩わしさにかまけて放っておいたことが最悪の形で晒されたことだけが気まずい。
「…伯父上…師直に何を言われたのです、どうせ世迷い事です。忘れて下さい」
「それは面妖な、殿が御気がかりのことならば世迷い事とはいえ憲房には見過ごせませぬな」
しらと言い放つ憲房は表情一つ変えることはない。深々と息を吐いてこの場にいない師直に小さく毒づいた。
親光のことがあって以来師直は始終苛立っていた。近侍の数をやたらと増やしたし、夜も篝火を絶やそうと
しなかった。それが自分の態度への師直の八つ当たりだとは分かっていたので、最初は苦笑していただけ
だったのだが、よりによって伯父に何か訴えたらしい。ここ数日頻繁に室に訪れる伯父は毎度有無を言わせず
何かと世話をやいた。恨みがましい目で見ても自分が伯父には逆らえぬことを知ってか、師直は涼しい顔で
尊氏さまがしないなら私がするだけですなどと言って取り合おうとしない。
…「口止め」された中での、苦肉の策なのだろうが。
「伯父上、師直は些か考え過ぎです」
「それを煽るのが殿の悪い癖ですな。朝餉すら取らねばその傷、塞がるのも遅れましょう」
切り捨てるように言われれば返す言葉もない。
黙り込めばふと憲房は眉根を下げた。
「全く…殿はいつまでも変わりませぬな。この憲房をあまり困らせないで下さい」
その声には先程までの厳しい様子は無い。
「師直どのとて無闇に殿に押し付けている訳ではありますまい、お分かり下さい」
勿論私もですが、と笑う伯父の目は限り無く優しい。童のような気にさせられ急に恥ずかしくなる。
取り繕うように顔を逸らせば憲房はまた音もなく笑った。
「…しかし殿」
「何です」
出た声は拗ねたように一本調子で、そんな所まで童のようだ。伯父の笑顔にどうしようもない気にさせられるが、不思議とそんな感覚も不快なものではなかった。
「…」
「伯父上?」
だが憲房はみるみるうちに冷たい表情を取り戻す。こちらを見据える目が左腕に動き、また目が合うまで、
室に動くものは何一つ無かった。
「直義どのに、お知らせしないのは何故です」
断ち切った会話、伯父がそれを見逃してくれる訳はなかった。固く告げられたそれに、だが今度は自分の中の
何かがすっと冷える。
「何故?伯父上。大した傷でもございませぬ。徒に心配などかけることもないでしょう?」
「…だから知らさねばいいと?」
「はい」
「殿がお知らせすることに意味がおありなのです」
「言えば直義のせねばならないことが増えるだけです。」
どこか冷えたそれはじんわりと足先に伝わる。伯父は尚も静かに言った。
「直義どのが、せねばならない?」
「…心配などかけて、直義は」
「それが何故直義どのの責務と?例え直義どのが殿の話を聞いて何をしようと、それは殿の責務では
ありませぬぞ」
「!直義にいらぬことなどさせたくはないのです!」
つい怒鳴りつけ、はっと引けばだが憲房は変わらぬ口調で更に募る
「…直義どのに、いらぬ心痛をかけたくはないと?」
「……」
「ならばもし、知ってしまったらどうするのですか。直義どのはその事自体や殿よりも言われなかった
自分自身をお責めになるのでは?」
「そんな事が赦せると、」
「…万が一の話です」
ぐっと黙り込む。最早伯父が言うのがこの度のことだけではないのは分かっていた。
「そうしてただ何も知らせずに守ってやることが本当に直義どのの為となるのですか」
「伯父上っ!!」
床机を蹴倒して立ち上がる。急な動作できれた息の音が五月蝿い。
不意に暗く染まる視界で、伯父はそれでも静かにこちらを見た。
「食事をお取りにならないからです、」
よろめく体をその手で支えながら言う。為されるまま、また座り込み、じっと憲房をみつめた。
「…伯父上、俺は直義の兄なのです」
「そうですな」
「…だから直義を守るのは当然のことです」
しんと静まった室には、すぐそばの庭木の音すら響かない。
「…直義どのを、守る、と」
「…」
「その為なら殿はその腕裂かれようと、構わぬと仰せですか」
「ああ」
今更すぎることだ。直義の為に天下すらとると決めた。そしてそこに迷いなどという脆弱なものが入る筈も無い。何も迷う必要などないともう自分は知っている。ただ溺れた魚が死んだように、隣にあるそれに縋りたくなる
それを遠く見れば自然自分の為すべきことは見えたのだから。
乾いた音がたち、次いで走る熱さに呆然とする。打たれた頬をそのままにただ流れる伯父の言葉を聞いた。
「殿は何のためにお強くなられたのです」
「…強くあれと。刃の中立つようにと…伯父上も教えて下さったではありませぬか」
高時に仕えながらも何も出来なかった自分、帝の過ちを正すことの出来なかった自分。
昔自分の意思で立てと、それが幕府を討つという形であれ、とにかくそれが大切なのだと言った伯父だ。
そんな事を今更自分がいうことでもない筈だ。
「確かにお強くなれば向けられた刃を恐れることはなくなりましょう。」
つかつかと歩み寄る憲房は厳しい調子で左腕をとる。
「っ」
「しかしその為に強くならねばならないのではないのです」
掴まれた腕は振り解けない。睨み付けるようにすれば憲房は一層強く見た。
「強くなれば確かに守れるものも増えましょう」
何を
「…しかしそれが恐れを抱かない故だと、思ってはなりませぬ。何の為にお強くなられたのか、
考えればきっとお分かりになる筈です」
決まっている。自分が守るものは一つだけだ。それが間違っている訳が無いのだから、
伯父の厳しさは正しくこのやり方ゆえなのだ。
「伯父上…この尊氏が、間違っていると…」
しかし伯父はゆるりと首を横に振る。
「殿これはそういう問題ではないのです。正しいことが全て通るものではないことなど疾うにご存知
でしょうに」
「…」
強くあれと言う、弱くあれと言う。伯父の言葉が分からなかった。
迷いを捨てた今尚更に生まれるのは混乱だけ。ひび入ることのないそれが一層自分にわからなく
させているとは薄々気付いた。
「おじう」
「尊氏さま」
はっと気付けば命鶴丸が膳を抱えて立っている。室の空気に怯んだようにしたが、
踵をかえす前に伯父が柔らかく笑って招き入れた。
煮え切らぬ気持ちを押さえて俯けば、伯父はでは夕刻、とだけ言って出ていってしまった。
差し出された粥には味が無く、その暖かさが舌を伝わる事もなかった。
冬の日は短い。
日が落ちきらぬ前にと慌てて出陣は為され、あっという間に本営は空館へと戻った。
先陣の直義は既に叡山の西で新田と矛を交えているという。顕家の軍は行方が知れなかったが、
中軍を進む上杉も既に小競り合い程度のことは始めている。
「尊氏さま、本陣を北側から動かせば叡山への牽制となりましょう」
「師直、よし二千を回せ」
「は」
未だに本陣に矛の気配は無い。何せよ敵との間には直義の先陣と上杉の中軍が控えているのだ。
前二軍に比べ数で劣るといえど、この状況下では十分だった。
馬を駆りひたすらに新田を目指す。三井を落とし調子に乗る新田を何としても止めねばならない。
夜も更け、だが戦火の中京は未だに明るい。
「…この分だと千種にあたるかもしれぬ、今幾ら残っている」
「二千…いえ千と五百です」
直義の軍と上杉の軍は完璧に戦中にあるらしい。小競り合い続く中、回せるところに全て回した人員の後に
本陣に残るのは高々千五百足らずだ。
「…そうか迂闊だったな、このままもし南回りに突破されれば千種あたりが三千は連れるだろう。
早く先陣に追いつかねば」
「はい、ですが…」
「…勿論蹴散らす」
先程から少勢で度々繰り返される攻勢は、損害は薄くとも足を止めるには十分だった。向こうとしても
本隊の合流は避けたいのだろう、執拗なまでの攻勢は止むことがなかった。
だが本当にそれだけの理由だろうか?
冷たく吹き抜けた夜風が足元を掬う。戦場の独特の空気の中、ひやりと冷めた感覚が背を伝った。
おかしい?合流を避ける、何の為に?決まっている、直義の軍を攻める新田の有利に働く為だ。
…それはおかしくないだろうか、と何かが囁く。
何がおかしい、(新田が目指すものが)
何故足を止める(合流を避けて?)
それとも足止めこそが目的だとすれば(足止め、されているのがこちらではなく直義のほうだとしたら)
そうしたら(…行方の知れぬ、)
「……!いかん!師直!」
「はい?」
「北畠が来る!すぐに退」
どん、と重い音が辺りに響き渡る。呆然と見渡せば、火を掛けられた館ががらがらと崩れ落ちるのが見えた。
漆黒の空に舞い上がった赤、その後ろから迫る…多くの喚声。そしてそこにはやはり北畠の旗印が翻っていた。
「敵襲!」
完璧に虚を突かれた軍は浮き足立つ。
本隊と先陣の隙を縫い回り込んだ軍、そしてそれこそが今一番恐ろしい北畠の軍だった。
「ちいっ!」
千五百ばかりの餓えた兵
「臆すな!活路を開け!撤退する!」
「!尊氏さま!囲まれましてございます!」
「!仕方あるまい、突破する」
火の手が回る陣の空気は既に熱く頬を焼く。ちりちりと舞う火の粉がぱちりと弾け、居並ぶ将を照らした。
「殿、では私がしんがりを務めましょう」
涼しげな声が響き、場の空気が一気にそこに向かう。
「…伯父上しかし」
「迷う暇などありませぬ、一刻も早くせねば血路すら開けなくなりましょう。
…私ならば殿がお退きになるまで耐えて見せまする」
この場でのしんがりが何を示すか分からぬものなどいない。
しかし憲房はそれでも常の様に静かで、そして折れる気配がない。最早伯父を止められはしないだろう。
「っ………はい、…師直」
「はっ」
慌てて師直が指示を飛ばし諸将を駆り立てるようにして陣を出させる。
攻撃を一点に集中して何としてもこの囲みを突破せねばなるまい。
はぜる熱の中ただ伯父と二人で立ち尽くす。黒と赤の狭間でとてつもない長い時間そうしていた様な
気がするのに乾いた瞳がただ二度ばかり瞬いた間のことに過ぎなかった。
「…どうかご無事で、殿」
あくまでも静かに乗せられた声、その響きはいつだって涼やかだった。
「お、じうえ」
伯父上こそご無事で…そう言えたらどんなにいいだろうか。どこか上滑りした感覚が認めることを拒否している。憲房はゆっくりと自分の手を握ると押し返した
「さあもうお行きになって下さい、…殿」
「伯父上!」
どうしようもない別離に身が震え、握った手を離せない。ふり仰げば憲房はすうと瞳を伏せた
「…殿、昼間お聞きしたこと、覚えてらっしゃいますか」
「…あ」
「…身を持ってお教えすることとなろうとは、思いませんでしたが」
「え」
強く押されて思わず後ろによろける。
「……尊氏」
強い風が吹きあれ、赤々と輝く篝火すら吹き上げた。
伯父は、小さな声で、呼ぶ。
「強くたるのは何故か知れ。真に守りたいものがあるならば、刃を向く先を恐れることが出来る筈だ」
「っ…!」
「さぁもう行かねばなりません…、殿。」
火が、高く燃えた
強くなれ強くあれ。刃を向けられた時恐れぬ為に。刃を自分に向ける為、に。
自分に向けられた刃。それを恐れることが無くなったとしても、どうして刃先を恐れずにいられよう。
弱さは容易く大切なものを壊す。だからこそ刃を、刃を自分に向けさせる強さを、
あぁでも貴方は何故あんなにも悲しげな目をしたのか、私にはまだ分からないのです
気付けば、血と煤にまみれ馬を駆っていた。隣を行くのは師直、伯父の姿は…無い。
「…!伯父上、」
「尊氏さま!」
強く手綱を引いて馬を止めさせる。そして後ろを振り向けば、ばらばらと逃げてくる兵。
そして後ろに広がる一面の赤。
炎に嘗め尽くされたそこに残るものは無かった
「っあ」
目を見開いてそれを見詰める。ただぱちぱちとはぜる音と、剣戟の音だけが響く。伯父の声はない。
舞い散る赤の中にも、あの笑顔はなかった。
「……尊氏さ…ま!」
反射的に上げた刀が澄んだ音をたてる。弾き返したそこには十人ばかりの北畠兵がいた
「足利の宰相だ!」
「手柄だぞ!」
「…!尊氏さまお逃げを!」
目の前に広がる赤の海、下卑た笑い声が弾ける。
何が、手柄?逃げる…逃げた?
そして殺した?
「…っあ…ああああああ!」
全てが赤く、染まった。
「…さま、尊氏さま!」
気付けば師直が必死に後ろから抑えつけている。滾る熱さが渦巻いて止まらない
「離せ師直!殺してやる!」
「もう皆死んでいます!もう…よろしいでしょう、早くお逃げにならねば」
ぱちりと爆ぜたその下に横たわる十の体は身じろぎすらしない。流れ出る赤は確かに見えているのに、
何を鎮めもしなかった
「伯父上、伯父上がっ」
「…憲房どのは…もう」
「…っ!五月蝿い!師直離せ!」
「離しませぬ!!尊氏さま!目をお覚ましになりませ!!ここで尊氏さまが死ねば何の為に憲房どのが
あの場に残られたのですか!」
「…!」
死んだ、死んだ。死んだのだ。
「っ…!!」
噛みしめた唇はとうに破れ鉄の味が鈍く染み渡る。
殿、お強くなりませ。守るものがあるならば、強く。 腕を裂かれても血を流しても自分の血だけを、流させるように強く。
「っく…!」
どこかに置き忘れたかのように涙は出ない。ただ痛みだけが染み渡り、何よりも雄弁に傷を抉る。
伯父は死んだ
死んだ
死んでしまったのだ
「高氏さま、」
小さく困ったように笑う。
「高氏さまは足利家を継いで、立派な当主とならねばならないのですよ」
刀さえあれば自分と直義くらいは平気だ、勉学なんかいらない、とか。
「…そうですか?でも刀で守れるのは精々その身ひとつなのですよ」
つよくなれば、平気だと。それこそ精一杯の強がりに。
「…高氏さま…いえ若殿、とお呼びしましょう。ひとつのことを為すのにひとつの犠牲で足りることは
少ないのです。…なればこその殿でございましょう」
「…尊氏さま」
「…あぁ…」
こびり付いた血の様に拭い去れない重みを引きずったまま、ゆっくりと力を抜く。
そっと師直が手を離したので、刀の血を払って鞘に収めた。
今は陥る時間はない、ただ今だけのことを考えねば。そうして浮き上がる、疑問。
どうなっている?軍は、顕家は…直義は?
「師直…状況は?」
「…それがとにかく新田と北畠が散り散りに散らして…皆目…とにかく早く本隊だけでも
纏めて合流せねばなりますまい」
急に疲れたように師直は姿勢を崩す。
「…、!手負ったか」
「…いえかすり傷です」
どこかで聞いた台詞だ。
師直はそれに軽く頬を歪めると、前を差した。
「いえ…とにかく上杉軍はすぐそこまでのところに居るようです。早く合流いたしましょう。」
「…ああ」
憲顕、重能。
憲房の、子だ。
いけないと思う。また封じ込めるようにして考えを止めた。今は何も考えては、いけない。
ただ早く合流しなければ。…そして無事だと、笑って欲しい。
今更のように痛み出す傷に眉をしかめながら、馬を走らせる。
早くあぁ早く
そして着いたその先に待っていたのは、夜闇をかき消す炎幕と、剣戟の音だけで。
また全てが赤に染まるのを、感じた
next
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