喩えるならば詩の一節の如くに。
杯を傾け花嵐の下、別れを見送り過ぎ行く時を味わえばいい。

波寄せる際にたてた城を後生大事にすることに何の意味がある。 激しくうつろう時の中で、ひとつの命など吹けば飛ぶ紙細工。 それを擲つ美学など端から無価値。奇麗事を並べたて身を切る理由を繋ぎとめるは、愚か
所詮頼みとなるのは己の身一つ頭一つ。それを切り売る代償を如何にして得るか。 払うものは最小限得るものは最大限に。分かりきった筈のことだ

無価値を求める美学など代償には値しない

たとえそれが如何に美しく、見えたとしても





降り出した雨はいつしか強くあばら屋を打つ。 濡れた衣が重くまとわりつき容赦なく冷えた体から熱を奪っている。 焚かれた火に薪をくべる為腕を伸ばせば、向かいに座るひとはびくりと身じろぎした。

「…そう怯えられるとこの道誉、些か困りますなぁ?」

過剰なまでの反応にわざとらしく肩を竦めてやれば、きりと目を吊り上げてこちらを睨めつけてくる 全身から青いそれに似たものを立ち上らせた姿はだが、生憎揶揄かい甲斐くらいしか感じさせない。 その程度の関係だ、自分と…この子供とは。

子供、といっても勿論文字通りのそれであろう筈もないが、如何せん周りの環境故か、本人の性格故か。 物知らぬ童のようなその相手はどうにも婉曲にしかならない。 …それでも本当の子供はこの様な殺気など飛ばせようもないのだが。

「御舎弟、まだ怒っておいでで?」

うっそりと笑えば益々眉を顰めて睨めつけられる。

「……いいえ?…済みませんでした」

子供…直義の突き返す様な反応に温かみなどあろう筈もなく。からかうまでもなく自然溜め息が洩れた。







足利軍は壊滅した。 北畠の奇襲は本陣に大打撃を与え、そして軍は雪崩をうつように崩れた。 炎の渦巻く中、兵は逃げ惑い敵味方すら判然としない混乱ぶりであった。

「申し上げます!上杉憲房様討死と」
「殿は」
「…それが」

尊氏の生死すら確かではないということだ。本陣は余程混乱しているらしい。

「…あれも、それ故か」
「は?」

目の前に翻る旗印。それを担ぐのは確かに見知った顔であるのに、その旗印に引かれたのは一引両。 足利の旗それよりも太くひかれたその印は紛うことのない新田の旗印だ。

「さっさと斬りなさい、検印する」
「はっ」

裏切りなど戦場では珍しいことではない。それにしても旗印を墨で塗りつぶすとは大した節操の無さだ。

「まぁ、人のことを言えた義理でもないが」

何せよ自らの馳せた名こそが裏切りを常とするものだ。 鵺、などという名は本意では無いにせよあながち偽りではない。

今の時勢で忠義などというものを貫く方が愚かなのだ。 代償すら確かでないそれを馬鹿の一つ覚えでもあるまいに後生大事に抱えている方が余程その 忠義とやらに報いることは出来まい。 その様な忠心など立ち回りすら出来ない愚かな不器用さの言い訳、捨てることに何の痛痒を感じることもない。 愚直さが賞賛に値するのはその行動が実る時のみだ。

実に可笑しい、大体この自分が朝廷と幕府両に通じながら今までこの様な立場を得たのは間違いなくその 裏切り故なのだから。結局は誰もが分かっているのだろう、ただそれを口には出さないだけだ。 だからこそ諦めという体裁に隠され自分の行動、そしてその実益は容認される。 仕方ないなどという言葉に込められた期待じみたそれを、はっきりと示すものが少ないだけだ。

それは例えば後醍醐帝であったり、北条高時であったり…尊氏であったりした。 蟄居した寺から届けられた親書。明け透けなまでのそれは酷く不義でそれでいて強い。

…この道誉を使いこなすとは大した器である。尊氏は確かに天下に相応しいのだろう。

この戦いで足利軍は壊滅した。しかし尊氏はおそらく死んではいないだろう。そうであればまだ何とでもなる。諦めるにはまだ早い、見限るには時期尚早だ。もう少し付いてみてもいいだろう。 何しろこの鵺を繋いだ初めての男だ。まだ捨てるには惜しい。

「…これを世は忠義とでも呼ぶのか」

くつくつと笑えば脇の近侍は慣れたように流した。



中軍に控えた筈のこの陣まで炎が近づいている。もう撤退しなければならないだろう

「佐々木様、これが旗印になります」
「ご苦労、そろそろ引き上げの支度にかかってくれ」

並べられた一引両の旗印は軽く五十を数える。これほどまでの寝返りが出ては残る足利軍はとても万は 満たないだろう。

「さっさと逃げるとするか、どうせ西だろう」
「……佐々木殿?」

聞き慣れない声に振り向く。夜にも明るい炎の中、此処にいる筈のない姿があった

「御舎弟?お一人ですかな」
「……」

仮にも副将である直義が単騎でこうしている。戦陣は完全に崩れたのだろう。向こうの方の剣戟の音といい、 ここに兵が至るのも遠くないことのようだ。益々引かねばならない。直義を死なせる訳にもいくまい。

「はは、負けましたな。御舎弟、さっさと逃げるとしますか」

常のように声をかけるが直義は答えない。ただじっとこちらを見る目には常には無い激情が宿っていて、 ゆらりと揺れた。

「…御舎弟?」
「逃げるとは、叡山に、ですか?」

凍らせた声は冷たく響く。見据えたそこに温度は、無い。


「足柄と同じく、今度は新田が追い落とすのですか?」


ようやく直義の激情の訳を知る。直義の目に映る五十余りの一引両。

「…殺すと申し上げた筈です」

二引両を塗りつぶし担ぎ上げられたこの旗印が、どうして佐々木のもの以外であるかと。

「…兄上に牙剥けば、その時は殺すと」

冷たく響くそこに、だが余裕は無い。 完璧な濡れ衣に些か呆気に取られて目の前の直義を見ていたが、その常ならぬ様子が起因するのが怒り だけではないことに気付く。張り詰めた糸にも似て直義の背負うそこにあるものは酷く余裕が無かった。

ふと暗い気が差す。残酷な気分になってもいた。

「…殺すと?」
「どうして兄上に牙剥く者を許せましょう?そんなことが許せる訳がない」
「…それがしを殺しても、手遅れ、ではありませぬかな?」
「!なっ…?!」

抜き放たれた刀は迷い無く振り抜かれる。予期していたとはいえ受け止めた重さは相当なものであった。

「兄上に何を…!まさか…」

やはり、と思う。先陣に居た直義だ。尊氏の行方を知る筈もない。なのにそれを素直に気に掛けられぬ訳 でもあったのだろうか。我慢にも似た押し込め方をされたそれは直義の空気を酷く不安定にしていた。 普段の直義がこの様なはったりなどに軽く乗るとも思えない。

「さぁて?尊氏どのが今どうしておられるか等、知りませぬな?生きておられるか、…それとももう?」
「…!」

高い音をたてて刀が響く。こんなことをしている暇などは無い筈なのだが、 どうにも勝手に口が動くのだから仕方がない。 …少し興味があった。常と違う直義。もし本当に尊氏を裏切ったならその時直義がどう動くのか。

「…言え!何をした!」
「…それがしの口からはとても」
「!兄上を…」
「殺した、とでも申し上げれば宜しいのか?」
「…っ!」

火の粉が舞う。ゆらりと揺れるその光の中、ぎりぎりと細い音をたてて刀は弾かれる。飛びずさり体勢を 整えれば、間髪いれずに直義が飛び込んで来た。





益々酷くなった雨風にあばら屋が揺れる。はぜる薪の熱もこの風には気休めのようなものだ。

「御舎弟、お休みになったら如何か。どうせ朝まで動けはしませぬ」
「…」

ちらりとこちらを見た直義は無表情で拒否を示す。どうせ眠れやしないだろうとは思って いたから別に食い下がることもなくひいた。

からかう、というには本気が過ぎたとは思うが、何せ気になったのだから仕方がない。



散々怒らせた挙げ句に真っ青になった部下に半ば飛びつくように止められ、 その上雪崩れこんできた「本当の」新田兵のせいで成り行きその相手と二人逃げる羽目になるとは 流石の自分でも思わなかった。

虚言だと知った直義も、ただ呆然とし、そうしてから愛想笑いの一つさえ浮かべようとはしない。 もとより親愛などかけらすら存在しない相手、一時は殺そうとしたのだから仕方ないとは思うが。

全く大した入れ込み方だと思う。直義にしても…尊氏にしても。





赤子の様に眠るのだ、と思った。体を丸め、だがだらりと投げ出された手足は何かを求めているかの如く。 横になったその体は常に無く小さく見えたものだ。

直義と重能に会ったあの朝、訪ねた幕内で尊氏は眠っていた。といっても少し横になっていただけらしいのだが、だらりと垂れた手足がまるで死人のようで柄にもなくどきりとしたのを覚えている。

「…御舎弟にお会いしましたよ」

並べられた酒瓶。昨夜から二人で飲んでいたのだろう。直義はここにいたに違いなかったが敢えて口に出した。

「あぁ、今ここから出た所だ。…それは災難」

横になったまま尊氏は楽しげに笑う。直義が自分を嫌っていることなど疾うに知っている。

「酷いですなあ?ただ少しお話しただけですよ」
「知っている」

声は聞こえていた、と悪びれる様子も無く尊氏は言い放つ。内容が内容だけに軽くもなかったが、 自分にそれを気にかける必要は無い

「陣中参りに来たのですが、元気そうですな」

ごろりと転がる体。遥か下に見下ろす光景が珍しく、ついまじまじと見た。鬱陶しげに手を払うと 尊氏はゆるりと体を起こす。

「…直義は何と言ったかな」

上半身だけを持ち上げてこちらを仰ぎ見る。ついた左手を薄く見てから答えてやった

「貴方を裏切ったら殺すと」

ゆるりと、笑う。

「…そうか」

自分からは今更言う必要も無い。尊氏の目はそう語る。最早最後の機会は過ぎた。 足柄で朝を迎えたその時に既に自分の退路は絶たれたのだから。第一尊氏が気にかける筈もない。 昔から、それこそ出会ったその時からそういったことには変に鷹揚だった。

「俺からも一つ言ってやろう」

だから

「直義を裏切るなどということが出来るならやってみるといい」

それは脅しや牽制などでは、無い。



尊氏が直義が。

自分には理解が出来ない。全てを懸けるようなその行動は愚かしく、代償は見込めない。 ただ真摯なまでのそれは恐怖に近い壮絶な美しさがあるけれども、それは魔性にも似て他者を受け入れない

肝に銘じると先程と同じ台詞を吐きながら、どこか遠くこの二人のことを見ていた。







吹き荒れる風に、巻き上げられるように強い音が響く。恐らく篠原だろうと直義は言った。 篠原ならば明日には着くだろう。そこに着いた時尊氏が生きて直義を迎えるとは限らない。 何せ尊氏の行方はようとして知れず足利兵も散り散りに散っている。

だがこの直義を置いて死ぬものかという気もした。 固く炎を見つめる直義に、悲しみとか迷いといった脆弱なものは微かも無い。 それなのに崩れる海辺の城にも似た危うさは最早この男の本質としてあるのだろうか。

「…御舎弟」
「…何ですか」

律儀に返された答えに苦笑しながらも言ってやる

「お休みになりませ。明日は着きたいのでしょう?」

軽く目を見開いてこちらを見た直義は黙って頷くと横になる。綺麗に延びた姿勢に変に納得しながらも、 似合わぬ真似をさせたあの横顔を見なくて済むことに軽く安堵した。

いらぬ世話をやかせる、と身勝手なことを考えながら振り抜かれた刀の重みを今更ながらに思い出した。




next