数え歌を覚えている
ひとつふたつと数える度、自分から遠ざかる足音
ひとつ、ふたつ、
そうして誰の姿も見えなくなる
それが数え歌の終わる時だと
「…お疲れか、執事ど、の」
「っはい?!」
降りかかる声に勢い顔を上げれば、目の前に座した主が此方を見て笑う。とろりととろけるような
目つきには確かに揶揄かう色が浮かんでいて、思わず面が朱に染まるのが分かった。
「申し訳ございません…些か気を散じておりました」
「良い。どうせ明日から二日はかかる。今宵はもう休んでもいいんだぞ?」
「い、いえ。私より尊氏さまは…」
尊氏は何も言わずに苦笑まじりに首を振ってから顎で辺りを示す。はたと今度こそ我にかえってみれば
その室に集まった数人は程度の差こそあれ、みな半分船を漕いでいる様な体である。
自分の事を棚に上げ思わず呆れると尊氏は静かに笑った。
北畠の急襲を受けて落ちてきた篠原。乱戦の最中、はぐれた時には背筋の凍る思いをしたものだが。
敵味方無く入り乱れた戦場で僥倖か、憲顕と出会った。色々と顔を合わせ辛い相手ではあるが、頼りになる
ことは尋常ではない。篠原であろうと見当だててからは迷う事すらなく途を進んだ。
道すがら気にはかけたものの尊氏の消息はちらりとも聞こえてこない。落胆の気を隠せずにいれば
憲顕が気遣うような視線を寄越したのが分かった。
憲房が死んだのだ。逆ならばいざ知らず憲顕に気遣われている自分が情けなくもあったが、どうにも
止められそうもなかった。血塗れた刀だけがちらつき、憲房の死に慟哭するあの尊氏から離れたことだけが
悔やまれた。
暗惨たる気持ちのまま辿った先でようやく篠原に着く。
篠原。初めてではないその地には少なからず因縁がある。幕府に反旗を翻すと決めたのは、確かにこの地だ。
既に着いていると聞き、ひたすら安堵しながらも尊氏の元に急いだ訳は何であったか。
「…尊氏さ…」
踏み入った室で、だが尊氏は眠っていた。ぴくりとも動くことのない瞼の下には強い疲労が漂ってはいる
ものの確かに大した怪我一つ無く静かに眠っている。思わずその場にへたり込めば肩が急に痛んで
今更ながらに手傷を負っていたことを思い出した。
そろそろと足を運び、横たわる尊氏の側に腰を下ろす。
既に外した鎧の生々しい跡を撫でながらただその静けさに浸った。
昨夜は夜更けに酷い雨が降った。
極、短いものではあったがささくれ立ったそれを逆撫でるには十二分であったらしい。
ただ静かに眠る尊氏を前にして、ゆっくりと何かが凪ぐのが分かった。
思えばあっという間にひと月が過ぎた。
京へ、と兵を駆り立て、そうしてそこで待っていたのもひたすらな戦の嵐。
そう、思えばあっという間の出来事。ただひと月にも満たぬ夏から続くそれに比べればほんの僅かな。
――だけれども。
薄々自分でも気付いてはいた。
<
戦い、殺し殺され。血に膿む気が何かを侵して染めた。
あの赤い闇に望月が昇った夜から、何に駆り立てられてここまで走って来たのか。
「ー…それでも私は貴方の臣たるしかないのだ…」
口をつく言葉に押される様にして前を見据える。
目を閉じていると大分幼くすら見える顔にあの圧は無い。
ただ強く輝くばかりではないあの眸に、その押し切る眼差しに駆り立てられてきた。
何を恐れていたのだろう
急なその変化に。拠を失うかのようなその差を繋ぎ止めようとしたのは何故だったのか。
ー…置いていかれた、という気がしていたのかもしれない。自ら置き去りにしたものを、顧みることすらせずに。
だって尊氏はやはり此処にあるではないか。
ゆっくり、本当にゆっくりと力が抜けていくのが分かる。
自分は急ぎすぎ、そうして尊氏は急がされすぎた。
あの時炎を見つめる背に漂った主の弱さと呼べるものを、自分は生涯忘れることはないだろう。
眼前の尊氏の瞼に落ちかかる影をそうしてしばらく眺めていた。
「…師直?」
「あ」
気付けば障子越しに差し込む日は既に中天を過ぎていた。いつの間にか眠ってしまっていたらしい。
けだるいその感覚は暫く抜けそうになかった。
「!…尊氏さま、よくご無事で」
この場では何とも今更でそぐわない科白だが、間違い無くそれだけを言いたくて無事を祈ったのだ。
此方も目覚めた所らしい尊氏が苦笑まじりにひとつ頷いた。
「あぁ…お前もな。誰かと一緒か?」
「…憲顕どのと、二人で参りました」
「…そうか。それは、良かった」
静かに視線を落とす尊氏はだが、あの取り乱し様が嘘の様に穏やかだ。
あの時上杉軍を頼ることに尊氏が引け目を感じていたことを知っている。
だが、思っていたような起伏もなく、ただ尊氏は目を伏せただけだった。
…そういえば重能と来たといっていた。今一どのような道程であったのか、はかりかねるところなのだが。
「…くく、聞いたのか師直」
「いえ…えぇ…はい」
見透かすように笑われ、反射的に手を振るが何とも意味のない行為だ。
何だかんだとやはり自分も疲れていたのか、情けなくなって手を降ろせば、尊氏が軽く息を吐いた。
「…よっぽど、その方がいいのだと思ってな」
「はい?」
「…伯父上は…」
少しの間だけ押し黙り、そうしてから小さく、しかし通る声で言う。
「…そうだな、少し。少しだけ張り詰めすぎてたのかもしれぬ。伯父上は…前を見ろとは仰ったが
前だけを見ろとはけして仰らなかった」
どこか遠い目は相変わらず自分には直視しかねたが、その色は常のそれより遥かに優しげなものだった。
何とはなしに握っていた手をゆっくりと開けば、そっと呟く声が耳に入った
「…急ぐ、のは別に俺だけでないのにな」
すとんと落ち込んだ言葉に思わず見返せば、困ったような視線はしかし逸らされることはなかった。
置いていかれたというあの感覚。
そして血濡れた尊氏が重能から感じとったらしいその重石はきっと
「…尊氏さま。これからで、ございましょう」
足利軍は壊滅した
しかし負けたという気は不思議とそう強くはなかった。尊氏は此処にいるのだからきっと大丈夫であろう。
素直にそう思えた自分が、少し嬉しかった。
「…あぁ」
笑う尊氏はどこか薄い。その頼りなさが疲れだけではないことは分かっていた。でもそれすら何処か安堵を誘う。似つかわしいそれが間違い無く尊氏の本質なのだと知れれば尚嬉しかった。
…やはり少し急ぎ過ぎていたのだと
血に、力に。膿みそして酔っていたのは自らだけではあるまい。
じわりと沁みるそれに久々に噛みしめる程の幸せを感じた。
「…」
尊氏がふと探るように首を巡らす。何かと耳をすませば廊を蹴たてて進んでくる音。
誰かなど誰何するまでもない。気のせいではないだろう。
尊氏は多少の気安さを滲ませて外から声が掛かる前に先に入れ、とだけ告げた。
「失礼します」
偉丈夫なその姿が取る礼はそれ故に整う。障子が開かれ入って来た彼は相変わらず意外に折り目正しいが、
どこか浮かれたようにその足取りは軽い。
「重能、」
つられたように軽い声にも某かの…といってもわかりきってはいるが…の期待が籠もる。
「尊氏様、その、直義様がお着きになりました」
「そうか」
当然の様にすっくと立ち上がった尊氏の先に、自然に重能が立つ。
半ば駈けるように室を出るその姿を何処か眩しく見ながら、ゆっくりと立ち上がった。
既に姿も見えなくなった廊をゆっくりと歩く。
それでいい。それがいい。
もうこの手はきっと届かないとどこかで知りながらも、それを認めず置き去りにしたのは間違い無く自らの責。
ひとつふたつと数えるたび、消え行く不安に捕らわれる必要は無い。
軽率に近づくことが許されないのなら、きっと簡単に遠ざかることも無いはずなのだから。
傾いた日に目を刺されながら外に出ればそこにはやはり尊氏と直義が居た。
宥めるようで縋るその必死さは、いつになく…否、逆に常からのものであるからこそ深いが、
その深さこそが何よりも尊氏に必要なものだった。
尊氏は変わった
だが自分だって変わったし、変わったといってもそのまま変わらざるものなど有り得はしない。
そしてしかし変わり得ぬものも確かにあるのだと。
ゆるりと縋るその手さえ離さなければきっと変わらずにあれるだろうと。
そう願っていいことを、自分は知っていた。
結局その日以来尊氏は直義と離れようとすらしない。あくまでお互いさり気なく振る舞いながらも
結果そうなっているらしいが、戦場でまで駒を並べた時は道誉などが呆れかえって見ていたものだ。
だがそれに必死であれば在るほど尊氏は静かに満ちる。その様は何か純粋なひたむきさがあって、
綺麗に塞がるであろう傷を思わせた。
しかし今更戦況の覆る筈も無い。
このままでは埒が明かない、一度体勢を立て直すべきだという意見が流れ、そうして筑紫落ちが決まった。
悲壮感に満ちてもいい筈のその場にはだが、妙に明るい空気がある。それは自分と同じ理由であろう。
ようやく地に足がついた、という気がした。
そして筑紫落ちの詳細を決めようという今、だが連戦続きの将の集う室は最早寝所と大差無かった。
「まぁ、明日もある。お前も寝ろ」
壁に寄りかかるようにして眠る弟に視線を遣りながら尊氏は笑う。
勝つ。その先など自分が案じる必要は、無いのかもしれない。
だからとにかく勝てばいい
信じきろうと委ねきろうと、変わらず在るならばと。
小さく震えた手が、間違い無く主のもので在る限り。きっと何を案ずる必要も無いのだろう。
筑紫へ行く。
夜が明けるのはそう遠くは無い。
ならば今は眠ればいいのだろう。短い夜を、眠れと言う主がいるのだから。
そうして夜は過ぎる
数え歌を歌う前に
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