切り削ぐような半月を抱いた空には薄く雲がかり、光と、そして闇との境界をかき消した。 風の無い夜には寄せては返す波音さえも微かで、ただ小さく耳を擽るだけだ。

瀬戸内の海に揺られる船の中で、磨かれた切っ先を静かに見つめる。 淡い燭の光に鈍く輝くそこには茫と自分の顔が映りこんでいて、弾くように光る己の目が見えた。

暫くじっとその揺れる波紋を見つめ、おもむろに振りかぶる。勢いをつけて振り下ろせば どこか固い、手応えがあった。





「…直義?」

船室から甲板へと続く戸を開けて出れば、戸の横に壁にもたれるようにして立つ姿があった。 決まり悪げに顔を逸らされるが、そこに立つのは間違いなく弟だ。

「まだ夜は寒い、こんなところで…」

何を、とは到底問えはしないことに気付く。 そっと忍ばされる視線が恐らく開かれた室の中…、その床に突き立つ懐刀を見ているのだと分かった。

「……直義」
「…はい」

ずいと左手を突き出せば、直義は面食らったようにこちらを見返したが恐々と自分の右手をこちらに差し出す。 重なったそれを半ば無理やり握り込むと、手を引いたままゆっくりと甲板に歩む。 為されるままになっていた直義が小さく手を握りかえしたのが、分かった。 ー…馬鹿みたいに冷たいてのひらに、じわりと熱が染み込んでいった。

黒くさざめく波はどこか底知れないものを抱える。 舳先に立って見つめる夜の海は昼のそれと同じものとは思えない。

「…直義、悪かった……そんな顔をするな」
「…兄上」



足利軍は筑紫に落ちた。 今つき従う兵は僅かに五百を数えるばかり。上洛はおろか、筑紫で己を守りきるのにも余りに少なかった。

どこかこのままここで散るのかとも思った。 何故だろう、刀の下に倒れ伏す己の姿は想像に難くない。そんなことになるのならいっそここで朽ちようとも 構わない。振りかぶった刀に迷いが無かったと言えば嘘になる。

でも砕け散る木片に掠る指先が、突き立つ刀に痺れる掌は。

負ける気はしない。勝てないかもしれないな、などと遠く思いながらも負ける気はしなかった。 急ぐ必要は無い、ただ確かに進めば掴めるだろうというその予感にも似た。

腹を切ろうとしたことは初めてではない。そのたびに最早怒りなのだか悲しみなのだかわからぬ表情で 止められていたことを思い出す。それらが綯い交ぜになった瞳を、見つめかえす余裕などその時には無かったが。

直義は聡い。まして自分のことを一番知るのは間違いなくこの弟なのだから、 夜空の下、この弟を戸の外に立たせたのはきっと己が罪なのだ。



「…本当にもう、しない」
「…本当ですか?」

拗ねる様に俯いた頭を見つめる。握りかえすその冷えた指先に責める様に力が篭もる。

馬鹿みたいに冷たいてのひら。

「直義、お前あの誓いを覚えているか」

ゆっくりとなぶるように吹き抜ける夜風は垂れた髪を書き上げて帆を揺らす。 ただ半月のみが輝くその場に、不誠実なものなどは無かった。 もう、無理なのだ。最早離せない。 こんなにも大きなものを、背負っていたのだと今更気付いてしまったのだから。

砕け散る木片に掠る指先が、突き立つ刀に痺れる掌が。 強く強く、燃え盛るその炎を照らした。



「ーーお前がその命を他の者などにやらぬと誓うならー…俺も、お前にこの命をやろう」

「あ、」

ゆっくりと見開かれた目をますぐに見つめ返し、手をひく。 つられたように舳先に向き直った直義の前に、繋いでいない右手で示す。


「二人で、帰るのだろう直義。ならば二人で行く。…ついてこれるな」
「……はい、兄上。ならば直義は暫く目を瞑っています…」

握りしめた手をゆっくりと下ろす。
はためく二本の旗が翻り、月の光を弾いた。



二引両に対になるようにはためく錦旗。
赤地に金銀で刺繍された日月すらもが等しく照らし出されていた。



寒い甲板から船室に戻りそっと息をつく。薪を火にくべる直義を呼んで床机に広げた書簡を見せた。 差し込む月のひかりに紙の白さがなお白く
ー…光厳の綸旨である。

「…皆が喜んでおりましたね」

昼間日野資明がこの綸旨を寄越した時に、その声で読み上げたは他ならぬ直義である。

…ー義貞一党を誅伐し天下平穏の来たらん日を一日も早かれと汝の忠誠に待つー…

翻る錦旗に、そしてその綸旨に。
何処か不安を隠しきれなかった一同はどっと湧いた。

新田を討つという大義名分。そして翻るそれは正しく足利を導くだろう。

「…あぁ…勝てる、かな」

そっと押し出せば、直義が振り仰ぐようにしてこちらを見て笑う。

「違いますよ兄上。勝てる、のではなくて勝つ、のです」
「…勝つ、か?」
「憲顕どのが…言ってました。此度の足利には「運」があるから…兄上がおられるから、大丈夫だと」

思わず見返せば本当に綺麗に直義は笑う。 月に翻る錦旗などより余程頼りになるそのしらべが、すとんと胸に収まった。


「…そうか」



力の無い、自分。
それに耐えられぬ、弟に。

傍にいられる理由が何処にあるだろう。

繋いだ手をはなさない。

馬鹿みたいに冷たいてのひらが、己の罪というのならば。 ただ勝つことに意味を求めたりしない。それで全てが得られるならばどうでも構いはしないから。




波を蹴たてて船は進む。長門の岬の見える頃には、空は白く明るんでいた。




next