一見して威丈夫という訳でも無く、若さそれ故に別段威厳じみたものは感じられぬ。
それでもその言に従いさえすれば道は拓けるだろうと信じさせる、その力。安易な逃げを許さぬその眸が
ここまで全てを引きずり出して。器に過ぎぬ何かを叩き壊そうと、しているのだ
広がる湖面には白々しいまでに燦燦と日が降り注ぐ。まるで海原の如く遠い対岸までをも照らし出し輝かせた。
…どうせなら華やかな方が良い。どうせなら立派に仕立て上げれば良い。
我ながらやたらと豪奢な構えとなった近江の城には、だが今それに相応しき招き人が居る。
「佐々木殿か」
「如何にも、奥方様。尊氏どのより奥方様方の事を任せられておりまする。」
憂う顔は些か青く、しかしその美貌が損なわれることは無い。豊かな黒髪を、だがぞんざいに後ろで束ね、
瀟洒とは言い難い簡素な衣を纏っていても尚その匂い立つような色香。
足利登子、尊氏の正室であった。
「殿は何と」
「……」
筑紫に落ちる段になって、足利軍は兵を割いて中国各地に配置した。再びの上洛を含めたその配置で
自分は近江に戻った。実際近江は元々自らの領地、しかも京に至るに要地であることは疑いが無い。
それにこの手負いの身に尊氏がいらぬ気を回したのは知っていた…単なる厄介払いな感も否めないが。
何にせよ近江、だ。任されたからには仕方がない。
買い被られたものだとも思うが、確かに一度尊氏には告げてあるのだから気のせいではあるまい。
…曰く奥方とご子息は近江に、と。
何も言いはしなかったが、知っていて任せるのだからつまりはそういうことなのだろう。
「…いえ、何も。しかし尊氏どのが捲土重来を期されるのもそう長いことではありますまい」
現に足利軍は着々と上洛の体勢を整えている。
大体元々敗軍とはいえあの勢いはこれまでにないものだ。
足利軍の負けを疑わないのはただ京にいる貴族どもだけであった。
「…そうですか…殿らしい」
ふ、と小さく笑う顔は相も変わらずどこか冷たい美貌を湛えたままだ。
登子に会ったのはこれが初めてとは言え、何とはなしに軽く違和感を覚える。
北条に連なる赤橋守時の妹。所謂深窓の姫君である。
その肩書きと…何より尊氏自身の人為からもっと頼りなげな女を思い描いていた。
所謂庇護欲を掻き立てられるような相手が似合いだという気がうすらとしていたのかもしれない。
尊氏はそうして立つような所が確かにある。
それは将帥の器と言えるのだろうが、近くで見るには危ういことこの上ないとも思わせるものだ。
…要は傍迷惑な質だ。生憎その尊氏の「立場」にされている連中程自分は忠実な人間では無い。
「…佐々木殿、」
「何でございましょう?」
些か苛立ったまま声を返す。拍車がかかったあの様は思い出すだけで阿呆らしい。
さらりと黒髪が流れて肩を伝う。そっと掻きあげるその軌跡をどこか冷たく見た。迷うように巡らされた視線はどこかあざとい。睨めるその目端が、こちらをはかっているのだとはっきり分かった。
冷たい目がゆるりとこちらを見返す。どこか身の内に飼う蛇が垣間見えて、ちらりと興趣が増した。
…目の前に背を伸ばし座る女が、見かけのままの只の姫君では無いのだとようやく悟る。
傲慢さにも似たその冷たさに隠されたそこは酷く興味深い。
「…ふふ?」
流石とでも言うべきか。大体考えるまでもなく悋気めいたものを抱くならこの女が一番ではないか。
またぞろ悪い質が覗くが、ゆっくり抑える。
何しろこの前とは状況が違う。…それにこの前のそれにしても手酷くしっぺ返しが来たものだが。
相手がこの女では後ろから刺されかねない。
ー…この女にはどこか自分に似た狡さがある。
尊氏が騙されているのか知っていて騙されてやっているのかなど知ったことではないが、
それが尊氏のあの一種愚かしい質を容認するものでは無いのは確かだ。
どこか白けた目でこちらを見やった登子は一つ息を吐くとむしろ捌けた態でこちらを見やった。
毅然と在るその姿が同情を引き、またあらぬ疑いを紛らわすものだと登子は確かに知っていた。
どこかはすっぱなその態は北条家の姫君からは尚更遠いが、尊氏の奥方と言うのならようやく少し相応しい。
「ー…佐々木殿、お主は些か色々お分かりのご様子。ならば妾もはっきり言わせて貰いましょう」
「ー…奥方様」
この女馬鹿ではない。自尊心ばかり高いあの女に有りがちな視界の狭窄は見られないから、恐らく今見る
その態すらどこか演技がかったものなのだろう。
面白いことになったものだ。ただ待つばかりの身だと思っていたが、案外戦場よりも楽しいかもしれぬ。
久々に感じるその感覚に目を眇めて笑えば、登子は寧ろ蔑むように口の端を吊り上げた。
「…義詮、ここへおいで」
「はい、ははうえ」
軽い足音がして隣に控えていた子供が駆けてくる。収まりよく母の隣に腰掛けた義詮は、今更の様に
恐々と伺うようにこちらを見やった。
その内気さは到底両親のどちらにも似ようがないが(全くもって怖い女夫である)確かに足利の嫡男らしい
顔つきをしていた。尊氏よりはどちらかといえば直義に似ている。
そっと義詮の頭を撫でる登子の白い手が屈折した何かを透かせて、うそ寒くもあった。
「お父上がお戻りになるまでこの佐々木殿の世話になります。さ、ご挨拶なさい」
「はい。頼みます、佐々木殿。」
稚い笑いを浮かべて義詮はこちらを振り仰ぐ。思わず甘くなるといった種のものだ。
子供は苦手だがその達観した目は悪くないと思う。
「…ええよろしくお願いしまする、義詮どの。」
「あの佐々木殿、佐々木殿はついこの前まで軍においでだったんですよね」
「はい」
「ちちうえは…どうしておいででしたか?」
傾げられた小首に苦笑を禁じえないが、ゆっくりと答えてやる。
「…つつがなく、お過ごしでしたよ。一時はすわ一大事かというような事もありましたが、尊氏どのの
側には高殿や御舎弟がおいでですからな」
登子が苛立つように一瞬目を吊り上げるが、そのままするりと視線を流す。
急に張り詰めた空気に義詮は困ったように笑うと、そうですか、とだけ言った。
「…ほほ、良かったこと義詮。お父上が頑張っておいでなのだからお前も頑張らなくてはね」
「はい!」
するりと登子は義詮の手を取る。
大体聞かない振りなどということが出来る時点でこの餓鬼も徒者ではないが、仕方のない気もしていた。
目を指す赤に視線を流せば義詮の髪の組み紐がやたらと鮮やかに赤い。
尊氏の刀紐でも貰ったのだろう、豪奢な刺繍は武勲を願うその文様だ。
いつかこの子供が尊氏のあとを継ぐのだろうか。未だ継ぐべき何をも尊氏は持たないが、どちらにせよ
今一つその光景を描くのは難しい。
「…じゃあ義詮、そろそろ夕餉になります。行って小梅に伝えておくれ」
「はい、…佐々木殿も、また」
「ええ。」
入ってきた時と同じく軽く走って義詮は女中のもとへ駆け去っていった。
「…佐々木殿。義詮は殿の大切な御子でございまする」
義詮が長男では無いことは知るべき筋には知られていることだ。
この蛇すら飼い慣らす女も所詮母親かと思えばその必死さも可愛げあるものだとすら思える。
「…分かって、おりますよ奥方様」
そして例え長男だとしても、だ。今尊氏に何か変事あればその後を継ぐには義詮は幼い。
そしてそれを継ぐべき相手など誰一人悩むものはいないだろう。
暫しこちらを睨め付けた登子はふいと顔を逸らして呟く。
「…殿の、大切な、御子です。」
さらりと流れた髪を目で辿ればさされた簪の先にあの赤の文様を見る。
可笑しくなって笑いかければ、今までの淑やかなそれが嘘の様に登子は不敵に笑いかえす。
「どちらにせよ、佐々木…『高氏』殿。暫く頼みますよ」
「ええ。承りましょう?」
念の入ったことだとも思いながら、この国の半分が燃え立とうとしている今、何より立つ姿は眩しくもある
それが例え黒き炎であろうとも燃えるものは一慨に明るく映るだろうと。
近江の海に夕陽がその残照を投げかける。
捲土重来、正に今から立つ足利軍には相応しからぬその煌めきを一人背負って立つように
登子はゆるりと立ち上がる。
丹念に塗られた紅を流してゆるりと弧を描く唇に、毒を乗せて己の白い手に傷を付ける。
そしてそのまま翻る衣の海に紛れその赤は遠く去っていった。
滴る束縛が齎すものを思えば、夜の長さなど取るには足りないことだ。
「全く…尊氏どのめ…厄介なものを押し付けてくれた」
扇を広げてゆるりとあおぐ。
その上を吹き抜ける如月の風はその冷たさをどこかに置き忘れたかのように穏やかだった
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