男の肩にしがみついた童の手が、舞い立った雨でできた霧の奥にぼやけて遠ざかる。
埋めた頭に、身を委ねる子のしたたかさと幸福さを見た。 歪んだ感情が滲みだし、だがこんなものかと呆気なさも覚えながら、私は寄り掛かる柱に首を倒した。

向かいの廊であるこの場所から、門へと歩むあの親子を眺めている。通り過ぎる尊氏の顔も遠くに見た。驚きは無い。 私はこの顔を、確かに知っていたからだ。
強張ったその表情より、今見ている顔の部分を記憶の中と冷静に重ね合わせていく。 いつのもの、誰のものとも知らぬまま、しかし思いの外深く沈みこんでいた形に、静かに嫌悪を募らせた。

濡れぼそったその背中が、確かに私を満足させる。

「さよなら、愚かなお二人さん」


『お前』と私は違う。

雨は、まだ止まない。






「何処にいたの?」

かたん、と小さな音がする。義父上は手にしていた書簡を丁寧に机に置いてから、ゆっくり振り向いた。

嘘を、ついてはいけない。それはわかっている。だがありのままを話したら、どのように思われるか。 試してみれる程、私はこの人の前で強気になれなかった。他の誰でも平気な筈、平気になった筈なのだが。 何も声にすらならず、口をつぐんだ私と入れ代わるように、見つめる先の唇は動く。

「水が」

首に、と言い添えられ指の腹を己に這わせてみる。拭いそびれたものか、むしろ今この時に流れた冷や汗か。何にしろ見つけられてしまえば意味が無い。つまらぬ穴を空けた、と素直に思った時、ふと感情が上手く回り始めた気がした。

「庭の井戸を使ったんです。」

今の小さい頷きは、あのことを見透かしたものだろうか。瞬時に気付いたにも関わらず、私は敢えて愚かな言い訳を付け足してみる。

「でも、夕立がくる前に中に入りましたから」
「…前に?」
「はい」
低められた声。やはり感付かれていた。何があったかは知れないまでも、何かがあったことは。

だが義父は一向に罪を咎めない。それどころか緊張を解いたように、気怠るく瞬いた。

「義父上、私は、」
「よかった。雨で濡れたのでないのなら」
「え?」
「心配したよ。それだけを」

雨が止んだのは、あの二人が調度屋敷に着いた頃だろう。

真っ直ぐに立つ細い上背の後ろには、砂を敷き詰めた真っさらな庭がある。砂が照り返す朱いひかりを、義父上は目を細めて閉じ込めていた。内から染み出す明かるさが、その瞳をよく出来た鼈甲の飴細工のように見せ、私は刹那この光景を酷く恐れた。物珍しさや美しさなどよりももっと、生々しく背筋を這い伝う怯えは決して『綺麗なもの』などではなく。

だが、この恐れにこそ苦い酔いがあるのだと恍惚として、私は間違いなく何かを期待しながら、義父上を見つめていた。

踏みにじりさけずむよりももっと、絶対的に絡み付く拒否。
義父は私にそれを示し、私は真似て利用する。義父が閉ざし私が振り払った光景を、私達はきっとそれぞれの形で共有したに違いない。


私は微笑んだ。義父上は少し驚き、釣られるように口の端を引き上げる。それでも消えないほの暗さがある程、目の前の人が愛しかった。



「考えていることがある」

兄上に会う前に、という虚ろな呟きが耳を通り過ぎる。

雨の後の雲から洩れる光は、刺すように鋭く。