分からない
何故なのか

理由を問う意義すら失い、真を求める拠り所さえ失い。こうして何故などと考える思考すら愚かしく、そう感じる心さえも切り裂いて消えた。最早問い自体が瓦解するこの己の中で。それでもそれだけが崩れ落ちるに至らない、ただ一つのよすがなのだ。縋りつくその卑しさもしがみつくその見苦しさだって知っている。
それでも。



ぐしゃり、と鈍い音がして我にかえる。
染み込む冷たさに、足下に踏み潰した杯を知った。跳ねた白湯が裾を重く濡らす。なにとはなしに力を込めてみれば、それはぱきりぱきりと甲高い音をたてて粉々に割れた。砂辺のようになったそこをゆっくりと歩む。踏みしめる度にざくり、ざくりとたつ音が快い。畳の上に尾を引くように進んできた道、それを示す濁った白に混じる褐色は汚らしくもあったが、そのどこかわざとらしい軌跡自体は妙に美しかった。

室を出てそのままふらりと廊を歩く。後ろから吹く風が、髪を掬いあげて散らし、絡みつく花弁のひとひらをそっと指先でつまみ上げた。掠めるように吹き抜ける風を掴むことは許されぬのに、その軌跡だけが小さく手に落ちてくる。足裏にざらりと触るような感触は無闇にあつくて、その熱は立ち上るように足を突き動かす。熱に浮かされたように、何もかもがぼんやりと映る。あざやかで美しい無音の世界には軋む足音さえが大きく響いた。

振り向いてはいけない
追い縋る、冷たい何かを、見てはいけない

でも花はこんなにも美しく、さやりと火照った頬を撫でる風すらも穏やかだ
この場に許されぬそんなものなど、消えるだろう

きっと、たぶん、もうそろそろ。



「兄上」
「直義、」

薄紅色の吹雪の舞うそら
手を伸ばせばかえる笑顔

「どうした?」
「兄上が、執務を投げて遊びに行こうとなさってるんじゃないかと思って。偵察、です」

零れるように落とされる笑み。

直義は柔らかに笑う。

「はは、よく分かってるじゃないか」
「兄上、でも」
「当然お前も連れていく。さぁ行くぞ」

直義は柔らかに笑う。困ったように怒る。

差しのばした手の先にはあたたかなそれがあって。
そっと握ればちくりと刺さる爪だけが小さく声をあげた。



分からない
何故なのか

最早問うことに意義は無い。
ただもし。もしもっと早く答えを手に入れていたならば。
いつものようにすべてを手にいれることができたのだろうか

小高い丘の上に立って京の町を眺める。絢爛の春、花煙にけぶる都。吹き渉る風さえも華やかで、鮮やかに色付く新緑は目に優しい。

「…綺麗ですね」

直義は柔らかに笑う。困ったように怒る。背はすこしだけ、自分よりも小さい。

「あぁ。本当に、綺麗だ…」

至極美しい春。満ち足りたその季節
でもむかし、もっと壮絶なまでに美しい春を見た気がする。
満ち足りた筈のそれをも、塗潰すような

「いつだったか…」

首を傾げて先を促す直義を見やって、小さく笑いかえす。あの時も確かこうして隣にあってどこか高い所から桜の舞うのを見ていたと思う。

「直義は覚えてないか?前にもいつかこうやって桜を見ただろう。」
「さぁ…どうでしたっけ。兄上はいつもこういう季節になると外に飛び出してしまいますからね」

いつのことだったかは、流石に覚えてません。小さく笑って直義は少し前に駈ける。見晴らしの良いその高台が切り立った其処で立ち止まると、ゆっくりと振り返った。

「いいじゃないですか兄上。それよりほら見て下さいよ、館が。まるで、桜の中に立ってるみたいです」

満開の花弁、戯れるように吹く風になぶられて散る。
彩るように霞むようにまとわりつき、かき消して。

直義は柔らかに笑う。困ったように怒る。背はすこしだけ、自分よりも小さい。立つ背はいつだってますぐに伸びていた。

……かき消すように、吹いて。
握りこんだ掌に、食い込むように爪が沈んだ。



「尊氏さま…夕餉で御座います」

いつの間にか日も落ち、月もない夜の空は真摯なまでに黒く塗りつぶされた。新月の輝く空は、清涼なまでに静かだった。燭の火がちらりと命鶴丸の顔を照らして揺れる。

「…また粥か、」
「流感をお召しになられたばかりなのですから、養生なさいませ。」
「粥では精がつくわけも無かろう。」
「いきなりけものの肉などお取りになっても、体に悪う御座います」
「もう四日も前に治った。もう床払いして昨日から書だって読んでるだろう」

流感で倒れたのは何日か前のことだ。いつそんなものに罹ったのかすら記憶は定かでは無いが、数日間うとうとと、夢うつつのままで過ごした。

「そういえば…、尊氏さま。また室から抜け出されましたね?」

きつく睨め上げる視線に苦笑を返せば、不意に目を眇めるようにして命鶴丸は身を引く。…あぁ、また泣くのかとちらりと掠めるが命鶴丸は寧ろ困ったように笑った。

「……さぁお召し上がりになりませ」

…また、泣く?、いつ、泣いた?
…否、夢うつつで聞いただけのそれを勘違いでもしたのだろう

「あぁ。」

座り直して匙を取る。いつの間にか両の足に巻かれた白い巾が、擦れて弛んだ。


いつもは切なげに輝く星の光すらどこか強気だ。深とした夜気には心を掻き乱す何ひとつとして無く、かわりに酷く美しいなにかがある。
きっと、たぶん、もうそろそろ。

「兄上」

直義は柔らかに笑う。困ったように怒る。背はすこしだけ、自分よりも小さい。立つ背はいつだってますぐに伸びていた。伺うようにしゃがみ込む姿は少し幼い。

「直義、いい所に来たな。酒でも飲むか」
「駄目ですよ、止められてるんでしょう?」

中身の抜かれた酒瓶を振って肩を竦めればくすりと笑う。変わりに何か酷く苦い液体で満たされた杯をちらりと傾けながら、何とはなしに室の中を見回す。少し据わりの悪いような、何かを欠いたような後ろめたさがちらりと掠めた。

月の無い穏やかな春の夜、黙り込んでも張り詰めることの無いしめやかな静寂。畳には何か薄汚れた染みが浮かんではいたが、活けられた花のようにただその全てを濁すことは無く。ぼんやりとした安堵が浮かんで小さく息をついた。

何も無い、
何もがここに在るではないか

押し流されるように雲が早く駈けるのが不思議と暗闇に映えた。
夜でもただ静かに花は舞ってどこか涼やかな美しさを振りまく。涼やかな風が吹いて。耳奥に聞こえた音に思わず口元が緩んだ。こんな夜にはきっと似合いだろう

「あぁ…直義。お前笛でも吹かんか」
「え…でも室に置いてきてしまいましたし…」
「俺のを貸してやる」

床机の中から引きずり出した薄葵の袋。直義にやったそれとは違う、些かくすんだ色合いのそれはそれでも上等なものだから別段構いはしないだろう。前に突き出すようにすれば直義は困ったように笑んで小さく首を振った。

「…これでは嫌か?」
「そんなことはありませんけど、それは兄上のでしょう?…それならば兄上がお吹きになって、直義にお聞かせ下さい」
「俺がか?……下手なのは知ってるだろう」
「いえ、いいんです。私は兄上のが聞きたいんですから」

直義は柔らかに笑う。困ったように怒る。背はすこしだけ、自分よりも小さい。立つ背はいつだってますぐに伸びていた。伺うようにしゃがみ込む姿は少し幼い。見上げる眸は弾くように輝いた。

「…悔いても知らんぞ」
「はい」

くすくすと忍ばされる笑いに押されるように笛を手に取る。湿らすように唇を舐めて、静かに口に当てればそれは存外伸びやかな音を出して広がった。

響き渡る一音に目を閉じた直義を見やってからそっと指を踊らせる。

こんなに穏やかな夜だから、どこか明るいその京の楽は似つかわしくなくて、自然とどこか昔に聞いた鎌倉の調べを紡いだ。

遠く、昔に、聞いた

草原を駈け水面を弾き焚かれた火の傍らにと帰るような、音

春は美しかった
秋は艶やかで
夏は眩しく
冬には、


冬に、は。



次の、一音



気を抜いた瞬間、足の爪先からかけあがる感覚。
ざわりと悪寒のように背をなでるのに体はじわりと熱を孕む。びくりと手が指が、戦慄くように震え熱に疼いた体の奥で拍動がひとつだけ、どくりと鳴った。

奏で損なった一音は無秩序に流れて落ちる。からからと軽い音をたてて手のひらから零れる笛が、小さく畳を叩いた。

「…っぁ…」

吐息の様に漏れた呻きが喉を塞いで息を詰まらせる。せり上がる熱に体を折れば堰を切ったように咳が喉を突いた。

「げほげほっ…!が…」

忘れてしまった一音
響く様に自分の中にあった筈なのに。常に、それは在ったのに
ただひとつの、かえがたい音を

忘れてしまった
わすれて、しまった

「っぐ……っ…げほ…」

口の端を伝う色が、手に零れるその赤がとてつもなく汚らわしいものに映る。風を切るような耳障りな音をたてる喉も、滲み出る目尻のそれすらが酷く気持ちが悪い。跳ねるように打つ拍動を衣の上から押さえつけて、じっと時が過ぎ去るのを待った。

「ひゅ……は」

大きく息をついてから、のろのろと重い躯を起こす。

砕けた茶器の白湯、流れた血の染みた汚らしい畳の上に転がる。折れそうなまでに、細い笛。

開け放たれた空には変わらず月は無く。
見渡した室には何も無い。
何も…無い、
汚れた手のひらをぱたりと落とせば、ひりついたように熱い目尻に小さく痛みが走った。諦めにも似た哂いが込上げて喉をついても、掠れた声は笑いを為さない。酷く重たい目蓋を引き下ろして最早何も無い室を遮断した


……あぁ、

もう、
わかっているのに

わかって、いるのに。





「…お目覚めですか父上」
「…義詮?」

床の中から見上げる姿の向こうには酷く明るい白が透けて、高く昇った日が薄い陰を落としていた。

「…もう昼なのか」
「はい。正午を少しまわったところです」

支えてくる手に凭れながら上体を起こす。差し出された薬湯を喉に流し込めば、思いの他乾いた体に染み渡るように広がる。拭われ損なった赤は固まって掌からぱりと小さな破片となって落ちた。

「…、」

何も言わずに俯く義詮の横顔には酷く削がれた痛みが透けて、思わず手をのばした。

「義詮、」
「、父上…?」

力無く落とされた肩、傷ついた横顔。

そう……に、似た

見つめるには、
重すぎて

「ち…ちうえ?」

きっと知っている

この子を傷つけたのはこの手なのだろう
同じように傷ついたあの肩を突き放したこの手なのだ

それでも何故か、分からない
何故だろうか。
もしもっと早くわかっていれば全てを手に入れられたのか
全てを、失わずにすんだのか

こうして流れる頬の冷たさなど、知らずにすんだのだろうか


「…お泣きに、なっておられるのですか?」


あぁ何故
何故自分は生きている?


直義は柔らかに笑う。困ったように怒る。背はすこしだけ、自分よりも小さい。立つ背はいつだってますぐに伸びていた。伺うようにしゃがみ込む姿は少し幼い。見上げる眸は弾くように輝いた。傾いだ横顔はどこか痛ましかった。





何一つ動くものすら無い薄暗い室。白い半月は、未だ紅い空に掛かるように昇っていた。酷くゆっくりと流れる時は矢鱈と長いのに、引き止める術の無いそれは失われていく一方で。柱に寄りかかるようにしてぼんやりと座る。熱の下がりきらない体はどこかしら重くてゆらりと眠気を誘った。

もう七日程こうして漫然と日を過ごしている。気だるいその感覚もむしろ馴染んだものとなりつつあった。
もう七日、経った。
時が過ぎてしまう

あぁ、きっと、たぶん、もうそろそろ
…来るだろう

「兄上、」
「…直義」
「まだ…お具合が悪いんですか?ほら早く床に入って下さい。お休みになりませんと」
「……嫌だ」
「兄上?」

寝たら夜が明けてしまう
夜が明けて、そうして過ぎ行く時を留める術を持たず
もうすぐ時が過ぎて

「い…やだ」
「兄上…どうしたんです、そんな」

何を怯えるのか分からないのに、それは何よりも犯してはならぬ罪のような気がする。過ぎ去る時を、見過ごしてはならぬ

もう、七日経った
、いつから?
もう、わかっているのに
、わかって、いたのに?

直義は柔らかに笑う。困ったように怒る。背はすこしだけ、自分よりも小さい。立つ背はいつだってますぐに伸びていた。伺うようにしゃがみ込む姿は少し幼い。見上げる眸は弾くように輝いた。傾いだ横顔はどこか痛ましかった。伸ばされる手には躊躇う優しさがあった。

不意にふわりと暖かい手で目蓋を覆われてゆっくりと目を閉じる。閉じゆく闇に塗りこめられた焦りはどこか深くへとゆっくり沈んでいった

「……お眠り下さい兄上。夜はそう長くなどありませんから」

きっと半月は夜半に沈みゆくのだろう


時は経つ
全てが夢うつつのうちに過ぎ去る
夢か真か
繰り返されるこの夢が現ならば何をすればいいのだろう
手につかめるこの現が夢ならば何に縋ればいいのだろう



月が満ちてゆく



開かれた短い書面にはただ簡潔な訃報。
室に散らばる書簡の山は絡み縺れて崩れた。

「死んだ?親房が…」

顕家、正成、義貞、帝。
歩む道こそ違えども共に進んできた全ての者達。
誰も彼もが先立ってゆく。ただひとり、自分だけを残して。

「違う、」
自分にはまだ失うものが残っている。
室の隅に置かれた二振りの刀を抜く為の、それが。

舞い込む美しい赤。いつか見た壮絶なそれに似た
血潮のようなその

背を伝う感覚を打ち消すように首を振る
…あぁさあ望めばいい。そうすれば
きっと、たぶん、もうそろそろ、来るだろう

「…兄上」

降りかかる声がほんの少し細くて、思わず振り仰いだ。

直義は柔らかに笑う。困ったように怒る。背はすこしだけ、自分よりも小さい。立つ背はいつだってますぐに伸びていた。伺うようにしゃがみ込む姿は少し幼い。見上げる眸は弾くように輝いた。傾いだ横顔はどこか痛ましかった。伸ばされる手には躊躇う優しさがあった。顰められた眉根には避け切れぬ哀切が漂った。

「…みな、行ってしまう」
「、」

小さく上げかけた声を遮るようにその背にしがみつく。
何を恐れねばならないというのだ。
何も無い。
全てはここにあるというのに
でもきっとわかっているのだ。

…もうすぐ、月が満ちる

月が満ちる頃には、きっと知らずにいられないだろう
何を、と尋ねる声すら浅く、繰り返される夢のように薙ぐ。

「……夢を、見るんだ」
「夢ですか?」

もはや舞う桜はこれが最後だろう。
振り落とすように散りきる花弁が風に舞った。

「ずっと、何かを探している夢だ」
「兄上が、ですか?」
「手のひらで土を掻いたり…声を上げたり、だとか。」
「変わった夢ですね?…何か埋めたりでもしたんですか」

小さく笑う直義の声はどこか細い。
ふわりと桜がかき消すように、吹いて。

「直、義。」
しがみつく手に力を込めても、伝うような冷たさは熱を帯びた。


直義は柔らかに笑う。困ったように怒る。背はすこしだけ、自分よりも小さい。立つ背はいつだってますぐに伸びていた。伺うようにしゃがみ込む姿は少し幼い。見上げる眸は弾くように輝いた。傾いだ横顔はどこか痛ましかった。伸ばされる手には躊躇う優しさがあった。顰められた眉根には避け切れぬ哀切が漂った。軽やかに上げられる声は涼やかだった。


新月の輝く夜空に
半月の懸かる朱に

追い詰められるように望月は昇る

まるでひのひかりの如くに照り輝く様はいっそどこか痛々しい
充ちていくものが輝くわけではないことを知っている

清廉な其のひかりを美しいと想いこそすれ、何ゆえ疎めようか
それでもその美しさは曝け出す痛みを帯びる

―――そんなひかりなど翳ってしまえばいい。
満ちなければ、欠けずにすむのだから


どこかしら騒がしい夜が来て、篝火のはぜる音がじりと響いた。昇る月は奇麗な弧を描いて完全なる円を象る。

「命鶴丸、…客か?」
「…義詮さまが佐々木どのとお話になっておられますが」

そういえば義詮が夕刻西方から書簡が届いたのだと言っていた。誰からのものとも知らぬが、義詮が道誉に相談したのだとすれば戦の話なのだろう。

「あとで二人とも室に呼べ、聞きたいことがある」
「……はい」

小さく頭を下げて命鶴丸は出ていく。ふと手を翳せば皓々としたそれを遮って、出来た影すらも皓かった。
不意に疼くそれに目を凝らせば爪の間に入り込んだ欠片がじりと響いた。まるで入り込んだ泥のように黒いそれに浮かんでくるものがある

―――祝寝のように繰り返し齎された夢

不意に立ち尽くす軒の並びは、よく知るようなそれでいて見覚えのない場所。通りを行きかう人々は己が記憶の中を掠めるようにして消えゆく残像のような希薄さ。誰も自分に注意を払う様子はなかった。
かえらなくては、
湧き起こるように呟いた言の葉に背を押されて一歩足を踏み出す。段々と足を速めて仕舞には必死になって駆けていた。向かう先など分かっている。なのに、迷うはずもない道をどれほど駆けても、辿りつけぬ、
……迷うはずもない、途で。

ざぁと吹きぬける風に顔を叩かれて立ち止まれば、いつの間にか道を隔てて、視える家のかたち。
ここに、来たかったんだろう?
けれど。
道を隔てて、その場所に立ち、浮かびくる確信にも似た。
もはや、そこに帰ることは叶わぬのだと。

かえるべき意味を自分はなくしたのだと
  
崩れるように折れた膝が路を叩き、泥を撥ね飛ばす。
地についた手を握りこめば湿った感覚が背を走った。
気づけば掻き毟る様にして土を探る己の手。柔らかな泥は容易く掘り進むのに掘っても掘っても何に行き当たることも無いのだ。


なくした
埋めた
かえらなくては
さがさなくては

ゆいいつの

その




「兄上、どうかしましたか?」

音もなく、直義は前に立つ。月の目映い光を背負ったその姿は陽炎のようにゆらりと揺れた。

「、…っげほっ、ごほ…ごほっ…」


突き抜けるような吐き気が喉を突く。
震える手がいつの間にかしかと直義の袖を握り締めて離さない。
離せ、ない

「…直義、」
「兄上?」
「いやなんだ、直義」
「……、」



月は満ちた
書簡が届いた


差出人など、知らぬ訳も無く



あぁ


直義は柔らかに笑う。困ったように怒る。背はすこしだけ、自分よりも小さい。立つ背はいつだってますぐに伸びていた。伺うようにしゃがみ込む姿は少し幼い。見上げる眸は弾くように輝いた。傾いだ横顔はどこか痛ましかった。伸ばされる手には躊躇う優しさがあった。顰められた眉根には避け切れぬ哀切が漂った。軽やかに上げられる声は涼やかだった。


直義は
直義、は



もうわかっているだろう?



掻き消された軌跡
躊躇う様な優しさはほかの全てを傷つけ

転がる一音を拾う者が居なかったのは
投げ出した手に、赤がこびりついたままだったのは

「いやだ…っ、いやなんだ、直義っ、」

駄目だ

奏でられなかった一音
滑るように手から零れ落ちた響き

何故自分は生きている
確かにいのちを捧げた相手を自分は

「まだ、まだ俺は…!」

緩やかに、緩やかに崩れていく

静やかな新月の目は塞いだものを
朱らむ半月には隠し通せたものを

照り輝くこのひかりには暴かれる
どこか見慣れたこのひかりには


壮絶に美しい春
見た。そう確かに
あれは

「…っ」


直義は柔らかに笑う。困ったように怒る。背はすこしだけ、自分よりも小さい。立つ背はいつだってますぐに伸びていた。伺うようにしゃがみ込む姿は少し幼い。見上げる眸は弾くように輝いた。傾いだ横顔はどこか痛ましかった。伸ばされる手には躊躇う優しさがあった。顰められた眉根には避け切れぬ哀切が漂った。軽やかに上げられる声は涼やかだった。

でも


柔らかに笑う、
(その口の端は?)
困ったように怒る、
(その眸は?)
背は少しだけ自分より小さい、
(けれどもその見下ろした視線はどこへ向いていた?)
立つ背はいつだってますぐに伸びていた、
(ただ、伸びて?)
伺うようにしゃがみ込む姿は少し幼い、
(覗き込まれて、どう笑いかえしてやっただろうか)
見上げる眸は弾くように輝いた、
(その光は一つだけだったか)
傾いだ横顔はどこか痛ましかった、
(手を伸ばせる所に、あった?)
伸ばされる手には躊躇う優しさがあった、
(暖かなその温度を)
顰められた眉根には避け切れぬ哀切が漂った、
(悼む視線を)
軽やかに上げられる声は涼やかだった、
(乗せられる名の響きが)

(兄上)
(あにうえ)

もうひどく、遠いもののように 感じられるのだけれども


「直義っ!!」
「あぁ、兄上…だめです。私は」

…駄目だ  
忘れてしまった一音
掠れてゆくものの全て

時は過ぎて
刻みこまれるものはただ積み重なるばかりで

差出人など知らぬ訳も無く

刻まれた名しか、残らぬという恐怖

「…嫌だ嫌だ嫌だっ!!直義、直義、直義っ…!!俺はお前を…」

時が侵し浚ってゆく
すべて、
すべてすべてすべて!
過ぎ去る時を、見過ごしてはならぬ
…この手の先から失われてゆくものを、見過ごしては。


何故生きている
いのちを捧げた相手を

―…失っても、尚。

「お前を、」

わすれてしまうのか。
こうして時が過ぎて。





そう
直義が死んだことすら






いつかわすれてしまうのだ



「っあ、…あぁあぁあ!」


いない
いない、
もうどこにも居やしない

春は美しかった
秋は艶やかで
夏は眩しく
冬には


冬には直義は死んだ


もうどこにもいない
残るのは刻まれた名だけで

忘れたくなどない、忘れられはしないと思ったのに。
残酷に奪い取られてゆくものに慄かずにいられない


「っ…!!」
「…兄上、」

霞む影が月の光に揺れる。

「嫌だ、嫌だ!直義…直義っ…俺はまた…お前を」

一度目はただ堅く閉じられた瞳に、眠るように穏やかな顔に
そうして二度目は霞む月の光に

残酷に、
失うものなど、最早


「……あにうえ」



微笑むそこに伸ばした手は何に届くこともなく空をきった。



澄んだ一音が響けばいいと想ったのに
ただそれを奏でた手が、ここには無くて
かわりではけして、意味の無い細い笛は、悲しい程にあたらしく

何ひとつ残らない
て、も そのふえ、も ねいろ、すら
かき消すように、時が過ぎて

「あ…あっ…!」


傾いだ身体が甲高い音を立てて、机の上に置かれた書をばら撒いた。叩きつけた身体を引き摺り上げるようにして起こす。目の前に掴んだそれを床について縋ればがつり、と堅い音がして伸びた直刃が鈍く光った。

抜かれる為の、その輝きが

身を灼くその熱に引きちぎるように刀を抜いて、そのまま振り抜く。ずしりと手のひらにかかる手応えをそのままに引けば、肉の割れた左腕から吹き出す血飛沫の下に、白く骨が覗いた。

「…うぁ…」


なくした
埋めた
かえらなくては
さがさなくては

ゆいいつの


記憶すら時に浸食されていくというのに
この手には何一つ残らない
縋るべきその一欠片さえも

もうどこにもいない
いないのだ

「い…ぁ…っ」

柘榴のように割れたそこから、滴るように赤が落ちる。
頬を伝う冷たさが今更のようにその赤に落ちて混じった。
滴る赤は、舞うように、かき消すように、散りゆくあの色にも似て

美しい春
直義が、死した年に咲き誇った桜の壮絶な美しさ

うつくしい、はな
嘆きをも美しく彩り、流れる血を歓ぶような
それは葬列の、しろい魁に克ち
別れの為に手向けられる、花

高台から眺めた、己の隣には確かに鮮やかなまでに美しい別離が

「た、だよ…しっ」

刻まれた名しか残らぬということ
時に浸食されていくものに慄かずにはいられず

あぁでもいっそ
喪失に怯えるならば
全て、全て洗い流して

何故生きていられた
命を捧げた相手を、失っても尚。

伸ばされた手向けられた笑顔
叩き落したはずの、凍りつかせたはずの

償いでも求めるのか
直義に?
自分に?

伸ばされた手向けられた笑顔
叩き落したはずの、凍りつかせたはずの
もう二度と戻らないもの

いまさらこの手は、この嗚咽は
流れ落ちる涙などに救いをもとめようも無いのだから、

償うのでもなく救いなどでも無いのだとすれば
これはきっと罰なのだ

全てを洗い流す、
死すら許されぬ

直義は死んだ
殺したのだ、
この手が、殺めた。

そして何度でも自分は直義を失う。
失い続けるその痛みは何度でも、容易く死を抉り

「……あ、」

謝るべき相手すらを自分は持たないのだけれども
切り裂かれる痛みに耐えられぬのならば

直義は柔らかに笑う。困ったように怒る。背はすこしだけ、自分よりも小さい。立つ背はいつだってますぐに伸びていた。伺うようにしゃがみ込む姿は少し幼い。見上げる眸は弾くように輝いた。傾いだ横顔はどこか痛ましかった。伸ばされる手には躊躇う優しさがあった。顰められた眉根には避け切れぬ哀切が漂った。軽やかに上げられる声は涼やかだった。



そしてなによりたいせつにしてくれた。




直義が大切に守ってくれたのだから
この空の体を生かしていた理由
この身を捨てる理由など唯一つしか持っていなかったのだから

そして失ったものは戻ることがなく
この身は二度と死んでしまうことが出来ない

直義は確かにひかり、だった

それはきっと自分が消えたとしても
変わらず其処に在り続けて

許しを乞う
救いを乞う

許さないで
突き落としてくれ

失いたくない
最早痛み以外にそれを為す術は、無く。

傷つけるすべてのことから
何よりお前が遠くあったはずなのだけれども

死すら許されぬ。
罪などと呼ぶにも憚る。

お前は嫌がるかもしれない、哀しむのかもしれない。
お前は優しいから。
大切に、大切に。
その手を精一杯伸ばして、守ろうとしてくれたのだから。

それでも自らで切り捨てた自身が残したものは
あぁ最早この痛み以外に自分は、何も。


小さく笑ってみる。
いつだってかえされた笑みを愛しまねばならぬことなど考えたことは無かったのに 

暴くひかりはそれでも柔らかに降り注いで
ただ一人で花弁の様に赤の散った室で立ち尽くす自分を照らす

償いのような救いのような
罪のような罰のような
許しのような

失いゆく全てを切り刻んでいくひかりの中で



そのよはおおごえをあげて、ないた。













書簡に綴られた字はどこか几帳面なそれ。
燃え立つ激しさは確かにあるのに、流れる水のような質だけが継ぐべき意志を透かせた。

「直冬か」
「また一度京へ上ってくるのだと思いますが」

記憶にあるのは自分を追う黒い瞳と小柄な四肢に不釣り合いな程の憎悪を秘めた眼。その死を願ったのは一度ではない
それなのに

「…直冬、」

どこか幸福にも似た感情の中幾度も反芻する。

刻まれた名しか残らぬということ
時に浸食されていく記憶


「…」

身勝手な願いなどを託すことが
あの子に許される訳もないのだけれども

何ひとつ残らない
縋るべき其の一欠片も
埋めてしまった何もかも

だけれどあの子は其の手に其の体に握ったまま
姿見を見るよりも明らかに、渇望するものを同じくする相手

許さない
許されたくはない

もう二度と
手にはいらぬもの

「…直義」

それすらもお前の優しさだというのなら

「直義」

あぁただ、死に向かう為に、生きて。





さくらの花言葉は色々ありますが… 「私を忘れないで」、が一番なんというか。たそっぽいっていうか…