自分とあまり変わらないような広い板の間を与えているというのに直義は、屏風や衝立で区切った、こじんまりとした場所にしか自分のものを置かなかった。
そのこじんまりとした空間に、畳を敷いて寝床を作っている。積み上げた書と、机、そして衝立の間に身体を埋めるようにして眠る。
ただ兄である自分が「ここで眠る」と言えば、やっとそれらしく室の真ん中に寝床を並べる。
今となっては童の頃のように、毎晩のように弟の室で眠ることはなくなったけれども。
「ごめんなさい。兄上より先に湯を頂いてしまって」
「いい。明日は出発も早いだろうから、ゆっくり休め」
「はい」
湯から上がってきた直義は、夜着の白い長襦袢に、白い袴をつけていた。 きちん
としてはいるが、それでもいつもより幾分ゆったりと着付けたそれは、ひたひた
と音を立てる裸足の足と合わせて、歩んでくる彼の表情も穏やかに見せるようで
あった。
「兄上はまだよろしいのですか?」
「ああ」
直義は、明日初めて、使者としての任を果たす事になった。 つまりはこの鎌倉を
離れるということだ。出仕を始めてまだ2年程。 勿論、高氏の下で働いているの
だから、高氏名義の命ではある。この弟なら心配などいらぬ、と心から信じなが
らも、高氏は不安を拭えない。 足利一門、石塔氏への使者だ。危険は無い。
しかし遠い北陸への用事である。しばらくは帰らぬ。 自分が弟を残して行くなら
いざ知らず、弟が自分を残していくなどありえないはずなのだ。
直義がひょいと衝立の後ろへ入ろうとしたのを、高氏は見咎めた。
「もう寝るのか」
「いえ。あの、爪を削ろうと」
「ここでやればいい」
兄のあっけらかんとした答えに、直義は首を傾げた。
「見苦しいではないですか」
「かまわん。暗いところでやると手を誤るぞ」
兄は無邪気に、ぽんぽんと自分の隣を掌で叩いた。
それでは、と直義は衝立の向こうに身体を屈め、葛篭から小刀を取り出した。 そ
してこちらへ向かい、行灯の近くに腰を下ろす。 まだ遠慮しているのか、高氏か
らは二歩程距離を置いていた。 ・・・全く、弟は時々、本当にくだらない他人行儀のよ
うな真似をする。
直義は、一度髪を両手でゆるくまとめ、それを右肩の方に持ってきて流した。 そ
してそのまま心持ち頭を倒しながら、左膝を立てる。床に懐紙を敷いて丁寧に伸
ばし、そこにかかとを置いた。小刀が動き始めた。
下ろした髪はまだ湿っている。真剣な眼差しとは裏原に、その仕草は珍しく、
女のような気だるさを伴っていた。 伸ばした左足の袴がめくれ上がり、細い足首
と少しの臑が覗いている。 すると、首から後ろ頭へのなめらかな線も気になりは
じめて、高氏は無意識に唇を噛んだ。
「珍しいですか」
「え?」
声をかけられて、高氏はむしろきょとんとして直義の顔を見た。
「そんなに見ないでください。穴が空いてしまいます」
一通りくすくすと笑い終わると、直義はまた足先に視線を戻した。一人取り残さ
れたような気分になったのに、高氏の顔はさっと赤らんだ。どういうつもりで言
っているのか。照れ隠しで、毒づいた。
「足の爪を噛むわけにいかないからな」
「意地悪をおっしゃいますね」
結局、すぐ傍までにじり寄った。 火の近くでほかほかと頬を上気させている弟の
茶色い瞳は、自分を見なかったが、酷く柔らかい、笑みを浮かべていた。
出仕をするようになり、弟の心は幾分かしなやかになったと高氏は思う。 他人か
ら見ても、また自分から見ても相変わらず融通の利かない堅物ではあったけれど
、それでも、だ。 幼い頃は、触れれば触れたまま傷跡になって残ってしまうよう
だった脆さが、上手く消えてきた。 最近は、そっと避けるか跳ね返すような弾力
性を持ってきた気がして、高氏は何故かそれが嬉しかった。 もう自分の思い通り
になる弟ではないのだ。時たまあやされているような、あしらわれているような
場面さえある気がする。今のような笑みを浮かべて。
生意気だ、と思う。はがゆくもあった。でも、それ以上に、変わり始めた彼に高
氏は何かの可能性を期待していた。
そう、まさか自分と直義が、兄と弟以外の「何か」になれるような可能性に歓喜
をさざめかせていたとしても、わかるはずもなかった。
「しかし直義は律儀だな」
「はい?」
「いくら泊まると言っても、誰も足の爪なんて見ないのに」
「気にしませんか」
「しない」
言い張る兄をちらと一瞬盗み見てから、指先で髪を耳にかけ直す。 直義は、兄と
のたわいもないこのようなやりとりを、好ましいと思った。
「私が気にするんです」
ふうん、と気のない返事を聞いて、益々おかしくなり、つい噴き出してしまう。
つまらないところで意地を張るのは自分も同じかもしれない。笑うと、小刀を持
つ手が震えた。
危なっかしい手つきになった途端、小さな小指の先端が刃先にふれそうになって
、高氏はもう見ていられなくなる。急にやきもきとしてきた。
嗚呼どうして人に頼まないのだ。例えば目の前にいる俺にさえ。
つい声を荒らげる。
「危ないから置け」
兄の声が急に熱っぽくなり、直義は目を見張った。しかしそんな直義の戸惑いす
ら、高氏にはもう見えなかった。
この刀が小指の皮膚を切り裂き、赤い血を滴らせる。それは今、目の前の頬を薄
紅に変えているのと同じ赤色をしている。 高氏の中で急速に思考がしぼみ、その
赤色が明滅した。 感情がねじれていく感覚を、生々しく味わった。見たい、わけ
がない。見てしまえば、見たら、先ほどの柔らかい「弟の」笑みが、全く別の意
味を持って首をもたげる予感がした。
全て内側に溜め込もうとして、高氏は荒く息をついた。
「どうしたのですか」
直義は、我侭な兄の望む通り、刀を置いた。すると反射のように、高氏がそれをすぐ撥ね退け
た。
刀は滑りながら壁にぶつかり、キン、と音を立てる。高氏は、己の指先が傷つい
ているのを黙視した。
「兄上」
呼ばれた瞬間、はりつめていたものに穴が空いた。 おそるおそる前を見ると、膝
立ちになった直義が自分の両肩を掴んでいた。高氏はまるで叱られたかのように
、肩を竦めた。 しゅるしゅると、激情が、逃げていくのがわかった。
「…大丈夫ですか?」
「ああ」
「怪我をして」
「掠っただけ」
ごまかすように笑って、高氏は人差し指を舐めた。それは自分のものではないよ
うな、味がした。
直義は、兄と自分が、火の傍に寄りすぎていることに気付き、兄の手を優しく引
いた。そうやって少し灯りから離れ、しばらく互いに黙っていた。
何度も兄の自傷を見ている。直義は怒りすら覚えた。近付いては勝手にはるか遠
くまで離れていく兄に、憤った。
やっと落ち着きを取り戻した高氏は、握る手を辿るように顔へと視線を上げてい
く。 弟の目は潤み、呆然としたように薄く開いた唇と歯の奥に、濡れて光る舌が
見えた。 直義がきっとこちらを睨んだ。
「直義を怖がらせないでください」
「ごめん」
弟の細い身体はまだ荒く上下していた。 やはり首から肩への線は滑らかで美しいと思
った。 そして今までよりもっと赤くみえる頬と同じ皮が、その背にも足先にも続
いているのだと気付いた。
手を伸ばして触れたい。
なんてことはない。
そう、なんてことはない。
だからその身体がなだれこむようにすがり付いてきても、高氏は微動だにしなか
った。否、出来なかった。
「何処にも行かないでください」
耳にかかる吐息に震えた。その振動が、あっという間に身体中に拡がっていく。
早鐘のように心臓が鳴った。
もう一度言われたらどうなるかわからないと思い、高氏はぎゅっと目を閉じる。
怯えるように時が過ぎるのを待った。
しかし、直義はもう黙っていた。
そして互いの温度が冷めるまで、動かなかった。
梅
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