「師直、また駄目なの?」
「義詮様…我が儘を仰有らないで下さい」
「父上にお会いしたいだけなのに…」

肩を落とした幼子を見やり、師直は視線を揺らす。彼はこの若君には強く出れないところがある。主君とは異なる意味で、余り父に似ぬこの童は無性に手を伸べなくてはならぬ気にさせた。

「お仕事が終われば、すぐにお会いになって…」
「昨日もそんなこと言ったじゃない、師直」
「…昨日はその、急に客人がですね」

狼狽えたような執事の科白をしらりと聞き流して、童は縋るように眉を落とした。

「ね、お仕事のお邪魔をしたりしないから」
「何でそう何時もこの室に居るときにお会いになりたがるのです…」
「…えぇ?んー…何でだろうね」


小首を傾げてから、にこりと微笑んで返事を促した義詮に、師直は軽く溜め息を吐いた。

「仕方ないですね」
「ほんとうに?ありがとう!」
「但し…―、」










そろそろと室の奥へ足を進めれば、微かに吐息の音が漏れた。卓に覆い被さるような無理な体勢で、乱雑な括り髪のまま無様に眠りこけている男は、それでも義詮の目にはひどく完璧なものに見えた。

「父上」

囁きにも満たぬ音は、口先を離れずに掻き消える。ぺたりと卓の前に座り込んで、凝っと目の下の疲労の色を見つめた。最近父が忙しく立ち働いている理由を、当然知っていた。珍しく母がそれを咎めぬ訳も、だ。

「…父上は…」

指先でくるくると自分の肩を落ちる髪を弄っていた義詮は、だがふと手を止めた。磨かれた漆の黒に、うすらと映りこむ父の頬の線が、妙に気になった。まだ白く矢鱈と小さいばかりの手を伸ばし、そっと卓に触れる。ひんやりとした感触が、指先の熱を感じさせて彼はうっそりと微笑んだ。

逡巡の後に、固く閉ざされたままの瞳に落ち掛かる前髪へ指先を走らせる。軽く払うと絹のように滑り、音も立てずに落ちた。二度目はもうすこし慎重に掬い上げて、そっと耳に伝わせる。指先を潜り込ませるように、そのまま耳裏から筋張った首に手を流す。少し乾いていて、それでも不意に不安になるほどの熱に、童はぱちりと一度瞬いた。

「っん…、」

ひくりと神経質に強張った肩に、幼い掌をかけたまま、そっと重い瞼が持ち上がるのを待つ。ぼんやりと濡れた黒は、彼には継がれなかった、磨かれ砕かれた黒曜の彩だ。

「よし、あきら?」
「父上、私です」
「…?、どうした?」
「……ごめんなさい、お疲れですよね」

呆っとしたまま、ゆるゆると身を起こしかけた尊氏は、肩に乗せられた幼い甘えに、ふと困ったように口の端を緩めた。優しさだとか、そうした類の前に、どこか我が儘を聞きいれるのを当然とした仕草で、彼はそのまま動きを止めた。

「どうした?」


幾分か明瞭になった声色に、義詮は一度視線を逃がしてから、ぐっと父を見上げる。

「父上、私は父上が好きです」
「義詮?」

いつの日かの雨中での激発を透かせる言葉の並びは、だが別段暗い響きを帯びては居なかった。寧ろとろけるような甘さ、普段の其れを煮詰めたような、陶然とした響きがあった。


「えと…私の父上は、…将軍さまですからね」

誤魔化すように冗談めかして笑いながら、だが義詮はもう一度同じ台詞を繰り返した。―…ちちうえが、すきなんです。

「…おいで?」
「はい、」


素直に返事を返して、だが義詮は尊氏の肩においていた掌を、そのまま上へ伸ばした。恐らくはそう尊氏が為そうとしたそのように、小さな体躯に父の頭を抱えこむ。そうしてしまえば驚きに尊氏が目を瞬かせるのも、彼には見えなかった。



「…何だか今日の若御料は駄々っ子だな」
「…ごめんなさい」
「いいさ、任せきりで済まないな」
「……ごめんなさい」

謝罪を紡ぎながらも緩まぬ童の腕に、尊氏は軽く笑う。息子のどこか癇癪にも似た緊張の訳を彼は知っていた。幼く高い熱にまたゆるゆると水位を増してきた睡魔に、少しずつ瞳を潤ませて、小さく欠伸を噛み殺した。多少の苦笑を交えながらも、尊氏はその儘、ちらちらと彼の髪を弄っている義詮の好きにさせていた。



「…父上、」

「ん?」

するりと小さな、尊氏の半分も無さそうな小さな掌が項を撫でて、肩まで引かれる。
無邪気で無作為な甘えに、 ちりりと何かが引っかかるような僅かな痛みと、濡れたような冷たさがその軌跡を追う。 反射的に軽く首を竦めた尊氏はだが、一種従順なまでに、離れていく手のひらに漸く起こすことを許された身をゆっくりと持ち上げただけだった。



「…―…と、思いませんか?」


「え?」
「え?…あ、何でもありません…」

ぺたりと座り込んだ童は、少しばつの悪そうな顔で己の袖の先に視線を落とす。尊氏は問いを重ねず、無造作に手を伸ばして頭を撫でた。

「父上、……ちゃんと、寝て下さいね」
「はは、分かった分かった…」

喉を鳴らす猫のように、すうっと薄く笑んだ後、義詮は殊更にこりと父に笑いかけた。

「邪魔して、ごめんなさい」

もう一度ぐしゃりと童の頭を撫で、尊氏の手が離れた。












「…義詮様」
「あれ?師直…」

後ろ手に引いた障子は、だがほぼ音も立てずに廊から室の中を遮断した。



「お疲れなのでお起こししないで下さいと、申し上げたじゃないですか……何か喋ってらしたでしょう?」
「うん…ごめんなさい、父上、やっぱりお側で見てたら起きちゃって」

仕方ない、というように軽い調子で溜め息を吐いた師直は、だがすぐに訝しげに表情を曇らせた。



「義詮様?何か気掛かりでも?」
「えぇ?なんで?」
「お顔の色が優れませんよ」

「…そうかなぁ…あ、でも父上本当にお疲れみたいだから、心配です」
「あぁ…今日は絶対寝所に戻っていただきます」
「師直は父上にお願いされたら聞いちゃうじゃない」
「…いや、まぁ…」

言を濁して、話を流そうとする執事に笑いかけて、義詮はくるりと半身を返した。

「ふふ、ごめんなさい、でも今日は会わせてくれてありがとう」
「…はぁ」
「絶対、父上お休みさせてあげてね」
「仰せの通りに致しますよ、」

義詮はけらけらと笑いながら、室の前から離れる。彼を見送り、いつものように固い表情で主の室に入っていく師直を横目で見届けてから、今度こそ完全に踵を返した。







「……何でそう何時も、この室に居るときにお会いになりたがるのです…だって」

男の口真似をしながら、義詮は幼げな足取りで磨かれた木床を歩いていく。殊更に拙い口真似で、繰り返した言葉には確かに嘲弄の色があった。


「あそこに居るから……」



ふとまたとろけるような笑みで、彼は繰り返す。

「父上は将軍さまですからね」

照れたようにふわふわと視線を浮かせ、指先でやにさがる口元を押さえる。 ふと袖に隠れる己の指先に視線を止め、じいっとその形をなぞるように目を流す。 ゆるゆるとまた、小さな掌を豪奢で長い袖に隠し、 そして彼は廊の突き当たりで、行くべき場所とは逆の方向へ、迷い無く足を向けた。