「何してるんですか?」
「……」
一瞬唖然と表情を抜け落とした直冬は、だが直ぐに闖入者をじろりと睨めつけた。
「何を」
「あ、こんにちは」
過剰に幼い動作で、義詮は深々と腰を折る。丁寧に戸をぴったり閉めてから、至極当然のように兄の室の奥へと進み入った。
「何にもないんですね」
「…義詮、」
「あやめ殿の室みたいに、何か…、いろいろと…飾ってあるのかと」
「義詮」
冷えた声に、義詮はするりと視線を逃がす。聞かぬ振りというよりは、本当に呼ぶ声が聞こえぬようにゆらゆらと歩いた。
「入って良いと言った覚えはないけど」
「…お聞きしてませんから」
童は唇を釣り上げかけたような半端な表情と、無感動な目で書を手に座ったままの兄の足下の辺りを眺めた。いっそせせら笑うようなその顔には、型通りの遠慮すら浮かんでいなかった。
「こんにちは、直冬さま」
繰り返された挨拶にだって、何時もなら溢れるほどに浮かべられた媚びの一つも乗せていない。縋るように熱っぽく、憐れみをひくように水っぽいのが、この童の常だ。だからこそ矢鱈と乾いた様子のそれは、罅割れた土塊よりも、吹き荒れる木枯らしのような無性に荒んだ印象を彼に与えた。
鬱陶しさより先に、何か酷く面倒な気配がする。直冬は小さく溜め息を転がすと、至極事務的に問いを重ねた。
「……用は済んだ?」
「いえ」
「早く帰れば?」
「いいえ」
「………」
「何しに来たのかって聞かないんですか?」
「…下らない」
「そうでもないですよ」
とうとう直冬の眼前まで歩み寄って、義詮は少しだけ怖じ気づいたように爪先を揺らす。だが立ち尽くしたまま、じっと動きを止めた。
「どうしても、お会いしたくなって、来ました」
戯けた台詞は、何故か酷く愉快げにも響く。だが言葉面に反して、甘さだとか憧憬だとかそうした類の感情は微塵も浮かんでいなかった。
「……」
「さっきまで、父上のとこに、居たんですけど」
「…へぇ、」
脈絡の無い言葉の並びに、直冬は半ば無視を決め込んで、読み進めていた書を纏めるほうに思考を向けた。内容が何だろうと不愉快にしかならない気もしたし、恐らくはそれは正しかった。
「直冬さま、」
「…」
「動かないで下さいね」
「…は?」
つい、と自然に伸びた白く小さな手が、青年の頬へ伸びる。反射的に避けようとした直冬は、だが軽く走った痛みに動きを止めた。
「な」
「動かないで下さいってば」
鷲掴むように軽く爪を立てて、義詮は直冬の顔に両手を伸ばしていた。初めに伸ばしていた右手を素早く薙いで、青年の左頬にべたりと掌を押し付けた。
「、!」
軽く突き飛ばされて、中腰だった義詮はへろへろと座り込む。直冬は妙に濡れたそこに指を這わせて、ぎょっと目を見開いた。
「綺麗ですよ」
「…お前、」
「きっと良い紅ですから、気触れたりしませんよ」
指先に乗った朱は、練られたあとの女の紅の彩だった。
「少し悪戯が過ぎるんじゃないの?」
剣呑というよりは、殺意にも似た眼差しに、義詮はゆっくりとかぶりを振った。
「だってそれで父上と、お揃いですよ」
「………、何だって?」
「ちちうえにも、先刻こう、」
空を薙ぐ様に指を踊らせ、それから細い己の首に伝わせる。
「つけて差し上げましたから。…ちょっとだけ、ですけどね?」
「……」
「あぁ良かった、」
またゆっくりと伸びてくる童の腕を乱暴に払いのける。弾かれた手のひらの内側が鮮やかなまでに赤いのも、妙に白けた顔も、何もが直冬に底抜けに嫌悪を齎した。
妙に夢心地の顔つきのまま、幼い弟は歌い上げるように言葉をついでいく。
「直冬さまにも、よくお似合いですけど」
「さっさと」
「父上も凄く…凄く、綺麗でしたよ」
「出て、」
「…鮮やかな色です、」
するりと腕を剥き出しにして、己の眼前に掌を掲げるようにして義詮はその紅色に目を向ける。
「きっと、戦場にたつ父上は、綺麗だと思うんです」
直冬は不意に記憶の奥深くで蠢くものに、くらりと眩暈を覚える。
何もはっきりとしたことは覚えていない、だが何か、刺さるような鮮やかな印象、その強さだけが刻まれている。その、傷を負うのにも似た息を呑む感覚に、暫し彼は反駁の言葉を失った。
「…ね、あにうえ」
薄く刻んだ笑みを崩さない弟に、直冬は最早悪寒すら感じながら、つよく頬を擦った。だが粘度の高いそれは、べたりと拳にも移るだけで、綺麗に拭えた気配は欠片もなかった。
「私は父上が大好きです」 「……黙れ、」
「父上は将軍ですし」
「義詮」
「直冬さまも、父上の、息子なんですから」
「義詮っ、」
はねのける勢いのまま、薄気味悪い笑みを浮かべた童を突き飛ばす。綺麗に横に倒れた小さな体躯は、派手な音を立てて床に突っ伏した。
直冬の目には伏せたままの頼りなく小さな体躯に、何か得体の知れない異物のように、激しい違和感を覚えた。
脆弱で幼く傲慢な、考えの足りない、童。そんなことは知っていたのに、初めて見るものに身構えるように、ただ身を硬くした。
「…父上はね、私がお仕事の室に入りこんでも許してくれます」
「っ、」 「直冬さまも、やってみたらどうです?」 「何を戯けたことを…」
ふらふらと蹌踉けつつ、半身を起こした義詮は、じっと怒りに身を染める兄の瞳を見つめた。その黒は、自分とは何も通わぬ固い夜の拒絶を思わせたが、確かに見慣れた眼差しと似ている。
「ねぇ直冬さま、私もう十一になるんです」
直冬さまと、十も違う、と付け加える口調はただ稚い。
「……十も、」
恐らくは痛みゆえに細かく震えた手をついて、そっと義詮は立ち上がる。
「直冬さま、…直冬さまっ…直冬さまは…私のあにうえですよね!……私と、直冬さまだけが、!」
震えた掌を口元にあてがい、義詮は荒く息をつく。突然の金切り声に、直冬は軽い恐慌すら覚えながらただ目の前の童を見返した。
「私が父上の室に入っても怒られないのは、私が父上の息子だからなんです、…私が…」
息を整えながら、義詮はぶらりと腕を投げ出す。口元には、汚れたように擦れた赤が付いていた。
「………―嬰児は血の海より生まれ出るそうですよ」
直冬は不意に、義詮の言わんとするところに思い当たり、息を飲む。
「…―悍ましいと、思いませんか?」
尊氏の正室…登子の月が満ちるのは、もう、あと一月もたたぬ内だったはずだ。大きく膨らんだ胎には、赤子が生まれ落ちる日を今かと待ちかまえている。生まれれば自分と養父より余程年の離れた、きょうだいとなる。義詮よりも、さらに十も、小さな。
女かもしれぬ、だが不思議と義詮は既に弟だと思い込んでいるようであり、直冬も何故かそうだろうと強く感じた。
「…直冬さま、」
危なっかしい足取りのまま、もう一度直冬に近付いていく。だが直冬は一種の混乱に足を絡みとられ、ただそれをその場で迎えた。
赤く汚れた手が、渾身の力で青年の身を突き飛ばす。そのまま乗り上げるように、彼は兄の腹の上に跨った。
「っ、」
「綺麗です」
自然な動きで、もう一度頬へ手を伸ばすと、そのまま舌でその赤を削いだ。苦い毒の味は、血の其れよりも遥かに舌を痛めたが、義詮は満足げにゆっくりと笑った。
「直冬さま、私が父上みたいに抱きしめてあげます。父上が頭を撫でてくれたら、私も直冬さまを撫でてあげます、ね、だから、あにうえ、」
直冬さまは私だけのあにうえですよね?
彼の耳元で囁く声は、何時もの甘ったれた、幼く傲慢な、童のものだった。けれども泥に浸かったように重く、身動きが出来ない。総毛立った背を撫でて、ちいさな弟は日に見蕩れる様な整った笑みを浮かべる。そこに確かに己と通う血を感じて、目の前がすうっと怒りで暗くなった。
なのに何処か明滅し続ける記憶は、幼い体躯さえも跳ね除けられないまでに直冬に重くのしかかる。恐らくは血の海より生まれでた己と、その身を捧げた筈の母…そしてもしくは、―赤が似合うという、あの男の。
紅を擦り付けた小さな唇は、愛おしむように兄の名を呼ぶ。こぼれていく熱は乾き、赤に塗れた二人を痛めつけていく。
静まり返った廊には、誰も咎めだてする者も居ない。
閉ざされた室の中で、交わされた言葉は全ては、二人の身だけに沁み、砕けていった。
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