大きな手がまだ俺を、繋ぎ止めてくれていた時のこと。



視界を曇らせている砂煙が晴れても、たぶん人の足元しか見えない。
舞い立つそれが欝陶しいから、繋いでいた手を藻掻くように振った。

「賑やかだろう?」

降りてくる声は妙に落ち着いている。少し悔しい。


「…なんにもみえないぞ!」
「はは、そうか」

屈んだそのまま、延ばされた腕にひょいと抱き上げられる。
ぎゅっと掴まった肩ごしに、離れていく後ろの景色を見ていた。

「かたぐるまがいい!」
「んー…ここでは無理だ」
聞いたそばから肩によじ登り始めると、仕方がないなと笑う声がした。
頭の天辺に手を置いて、誇らしい気分で辺りを見回す。

「これ以上大きくなったらしてやらないぞ」
「いやだ」

ぽかぽかと軽く頭を叩くと、苦笑しながら俺の足を掴み直した。



「みて!」
「ん?」

鮮やかな色が、何個も何個も紐に引っ掛けてある。
促すように屈んだから、俺はぽんと肩から降りた。

「風車だ」
「かざぐるま?」
「かたぐるま」は知っていたけど「かざぐるま」は知らない。
首が痛くなるくらいに見上げても、並んでいる全部は見れなかった。

「風で回るんだよ」

長い指が差し示した先、
そう言ったすぐに、綺麗な赤は言った通りくるくると回り始める。


「わ!!」

ゆっくりと、中にはちぎれそうなくらい勢いが良いものもあってどきどきする。
だけど嬉しくて一度仰ぎ見た顔は、風車よりももっと高いところにあってよく見えなかった。

からからとした軽い音と風の音が幾つも重なって聞こえる。
それは不思議な感覚で、触れてみようと飛び跳ねた。

届かない。
もどかしくてまた地面を蹴る。

「重能は本当に元気だな」

空を切りつづけた手には、抜き取られた一本が渡される。
暴れて吹き上げられる髪を片手で押さえながら、その人は笑った。

「ほら見て御覧、重能。風が吹いているだろう」

握った風車をはしゃぎながら見つめる。ほんとうだ、と頷き返すとまた笑った。

「ほしいか」
「うん!」

紐の横に立っていた誰かに勘定を払う後ろ姿を、何故か食い入るように見つめる。
すぐ忘れてしまいそうな気がして、不思議なくらい必死だった。

手を延ばしたい。
その理由なんて、まだ俺にはわからない。

だけれどあの大きな背中は、いつも手の届かないところにあった。


「帰ろう」
「うん!」

左手には大きな手が、右手には鮮やかな風車があって、俺は上機嫌で歩く。
横のその人は歩幅をあわせるように、ゆっくりと歩いている。

「…とまっちゃった」

右手のそれを掲げて口を尖らせる。
思いっきり吸い込んだ息を吹き掛けてみても、うまく回らなかった。

「ずっとは動かない」

喉を詰まらせたような咳が聞こえる。
聞きたくない。その音は嫌なんだ。俺まで苦しくなっちまう。
だけど両の手は今、大好きなものでいっぱいだから耳なんて塞げない。

そのことは嬉しい?・・・苦しい?

黙って考えている俺を、濡れた眸が見ている。

「重、能は、・・きっと、大きくなる」

咳が止まらないから、声は途切れ途切れだった。
苦しいときはしゃべったらいけない。
なのに無理して、この人は『重能』と呼ぶんだ。

「父うえより?」
「ああ、」

俺は怖くなって、左手を握りなおす。

「・・・私はそれが、楽しみだ」




背の高い俺の父上は、静かに遠くをみる人だった。









「だめ、おまえにはあげない」

自分よりももっと小さな手が、少し乱暴に風車を触ろうとする。
まだ危なっかしく歩く、小さな弟だ。
俺のことを見つけると、よたよたと後をついてきた。
普段はそれに付き合ってやるのも悪くなかったけど、今はそんな気分になれない。
出掛けたら駄目だと言われていた。
そして室には、俺と弟しかいなかった。


「…あげない」

自分の声がか細くなって消えた。弟は屈託なく笑っている。
なのにその場は、空っぽな静けさに満たされていた。

「なあ…」

弟はくりくりとした目で、寝転がったままの俺を覗き込んだ。

「…死んじゃうのかな…」

真ん前で一つされた瞬きが、返事のように思えた。

気付いていたくせに、と自分に毒づく。
あの嫌な咳はいつしか、止まらなくなっていた。

弟から目を逸らした先、握っている風車の方に首を倒す。
軽やかに回るはずの風車は、張りついた空気の中で本当に息苦しそうだ。


俺が欲しかったのは、

こんなものじゃなかった


もっともっと嬉しそうに、綺麗に回る。

だから、欲しかった。

「…ち、」

いてもたってもいられず室を飛び出す。
握っていたそれを落としたり、びくりと驚いた弟をそのままにしたことすら置きざりにして全速力で廊を走った。

父うえ

早く、早く…はやく

早く行かなければ、・・・会わなければ駄目だ。

泣いた顔を見せるのは嫌だったから、
ただ歯を食い縛って走った。

がら、…と、場違いな音を立てて障子を開ける。
上がりきった息で胸が上下していた。
次から次へと喉から競り上がってくる息を、無理矢理ごくりと飲み込む。

室の中から当てられた幾つもの視線は、鋭いようでどれも虚ろだった。


「…重能」

口を開いたのは母上だ。
他には知らない人達が何人か、寝ている父上を囲んで座っていた。

「室にいるように言ったでしょう…」

弱々しい声だ。

知らない男の人が、静かに立ち上がって場所を空ける。
ぺたんとそこに座れば、母上はとうとう嗚咽を洩らした。

「父うえ」

呼んでみる。
眠ったままのその姿からは、だけど返事は無いだろうと思った。


「もううごかない?」

「…ああ、」

泣いていて喋れない母上の代わりに、隣の知らない男の人が返事をした。

頬を触ってみる。
父上の顔は知らない人のように痩せていた。

お腹の上にゆるく重ねられた大きな手も、たぶん二度と俺を抱え上げてはくれないのだろう。
握ってみても、あまり暖かくはなかった。
す、と手を引っ込める。


「悲しいな」

さっきの男の人は俺の目を見て言った。
父上が死んだことを俺が理解しているのか、心配しているのかもしれなかった。

黙って頷く。母上の嗚咽だけが響いていた。

「泣かないのか」
「…うん」

「君は強い子だ」

そう言って肩を叩いたその人が、俺の次の父になった。







「いい子にするのよ」

母上は悲しそうに笑った。頭には白い頭巾を被っている。
つい先日母上は、父上が別当を務めていた観修寺で出家してしまった。

「……」

俺は返事をしなかった。何を言っていいかよくわからない。
母上を困らせたくはないけれど、たぶん俺はもう「いい子」にはなれないと思う。

「兄様の言うことをよく聞いてね」

「…にいさま?」

弟が片言で繰り返す。
母上は裾を気にしながら屈んで、いとおしげに首を傾げた。

「重兼にとっては…重能のことね」

俺にとっては母上の兄様ということだろう。
俺と弟は、叔父に引き取られるのだ。

母上はもう一度向き直って、俺の背中に腕を回して抱き締めた。

「重能、ごめんね」

ゆるゆると首を横に振ってみせる。

「俺、強いから、平気」
「…そう」

一層悲しげに微笑んで母上は涙を零した。

「母上は弱かったの。ごめんね」

髪を撫でたその手で、俺の首に掛かっている赤い紐をゆっくり手繰り寄せる。
襟元から顔を出した守り袋に、母上は縋るように額をつけた。

「どうか重能をお守りください」

この中には父上が書いた小さな紙が入っている。
難しい字ばかりで読めないから、意味はよく知らない。
だけど父上は、とても綺麗な字を書く人だった。


「母うえ…」

俺が呼んだ声に母上は頭を上げる。そしてごまかすように、泣き顔のまま微笑んだ。

「あの人は重能が大好きだったもの。…ずっと傍にいてくれるでしょう」
「うん」


「…では、そろそろ」

声を掛けられて母上ははっとしたように頷く。
潤んだ視線が名残惜しく後を追ったが、それきり母上は喋らなかった。

叔父だった人が弟を抱え上げる。あ、と思ったけれど黙っていた。
弟はそれでも嬉しそうだったから、ぎゅうと胸が痛くなる。

「君もおいで」

まだ名前を呼ばれなかったことに、安心して頷く。

「俺、一人であるける」
「…ああ」

大きな声で言ってみる。あの時と全く同じ声で、新しい父は返事をした。

嫌な奴ではないことは、直感としてもうわかっている。
俺と弟を本気で哀れんでくれているのだろう。

だけど何でだろう?
後ろを歩きながら見た背中は、父上とは全く似ていないんだ。




あの風車は捨ててしまった。
壊れていなくたって、風が吹いてももう回らないだろうから。


もういらない。
あんなに大事にしていたのに、俺はこんなに冷たい奴だったんだ。

『ずっとは動かない』のは父上のことだ。そうして父上は死んでしまった。

だから俺は家を出ていく。
優しい母上を置いていくのに、新しい暮らしになることに戸惑いなんてなかった。



弟がいつかの俺みたいに、背中越しにこちらを見た。身を乗り出して笑っている。
両腕でしっかりと新しい父に掴まっていて、それは何となく嬉しく思った。
弟は何も知らないから、この人を本当に好きになれるだろう。

父上との思い出なんて、本当は俺だって少ない。

そしてまた明日が来ると、逃げていってしまうのだ。


…だから俺は捨ててしまう。
回らない風車も、
弱い母上も、
動かない父上も。



襟の中から出したままだった守り袋を、手探りで仕舞う。
前を歩く人といつのまにか空いていた少しの距離は、淋しさよりも呆気ない。


通り過ぎていってしまう。
父上が言っていた、風みたいに。



捕まえてくれないの?

・・・俺、どこかに行っちゃうんだぞ、


誰が決めたんだよ

もう、

さよならだなんて。



誰も見てはいないのに、目が痒い振りをして手の甲でごしごしと目元を擦った。
鼻を啜る音と泣いている俺を閉じ込めるみたいに、びゅう、と恐い音を立てて強い風が吹いている。


もっと、もっと強く吹けばいい。
どうせ戻ってこないのなら、せめて押しつぶすぐらいに


何にも教えないまま
だけど父上はずっと、俺の手を離す準備をしてた。

俯いた額で風が裂けていく。
暴れる髪の毛の先から逃げていこうとするものが、呆気ないまでに俺の何かを変えた。


悲しさなんてつまらない。
寂しさなんてからっぽだ。
ほんの少しの間通り過ぎただけだとしても、俺は父上が好きだったのに。



大好き、だった。
たった、
それだけ


それだけしか、
のこらない




ほんの七つの時の出来事
俺が泣いたのは、たぶんそれが最後だ。