新しい家は、とても丁寧に俺たちを扱おうとしてくれた。だけどその遠慮は臆病にも見えて、俺はあんまり笑わなくなった。

はみだしたことができないと思えば思う程、真っ黒な衝動に乗っかってみたくなる。
殺気立った俺の態度に、周りは驚くほど敏感に反応した。

気にしているくせに何も聞こうとはしない。




「にいさま、ねえ!」

嬉しそうに話し掛けてくる弟が眩しい。なのになんてつまらないんだって、もう 一人の俺が舌打ちをする。

「今日ね、あにうえがね、おうまにのせてくれた」

弟の中の決まりでは、俺はにいさまでそれ意外はあにうえとあねうえだった。
もともと人懐っこい弟は、新しい兄弟達に可愛がられている。
ここの奴らは年が離れているから、半端な年頃の俺よりもっと小さい弟がとっつきやすかったんだろう。

「……おうま、…おっきいんだよ?」
「ん、」

俺が何も言わないと、弟は少し泣きそうになる。そして何かをまた、一生懸命に話し出した。
どうして俺に話すんだろう。
たまにぎゅっとしてやりたいくらい可愛かったけど、冷たい俺がまた顔を覗かせる。

そんなことどうでもいい。俺は楽しくない。

なんでだろう
全部が嬉しくて堪らない時が俺にだってあった。
でもいつだったかもう覚えちゃいない。


反応の薄い俺を見て、弟は目元を曇らせる。
この時こいつが後ろ手に隠していたそれを差し出さなければ、もう少しましな『にいさま』でいられた。




「みて!」


強い色彩が突き破る。
記憶の形が刺し抜いた。


「かってもらった」

誇らしげに笑う弟を余所に、引きちぎれる音が頭と心臓から聞こえる。
ただ反射で、その赤を叩き落とした。
自分の腕が鞭のように撓って、小さな弟の腕を打ち付けた。


「……ぁ…!」


「馬鹿だなお前」


気が付けばびっくりするくらい冷たい目で、俺は弟を見下ろしている。
踏み付けても何も感じない。


「皆すぐ壊れちまうんだよ」

踵に力を入れる。ぐりぐりと更に踏み付けると、それはただのぺちゃんこの紙になった。


「…に…い、」

「捨てちまえ」


びくりと肩を跳ねあげてから、怯えた瞳が涙を貯める。
ちっ、と俺は舌打ちをした。見える全てに苛立っていた。


「あのなぁ、俺はさ」


わざと見せ付けるようにゆっくりと踵を上げて、手前に戻す。


「弱い奴が大嫌いなんだよ」


弟は糸が切れたように、声を上げて泣いた。高い音と低い音を行ったり来たりし て泣き喚く声が、こめかみを突き刺して抜けていく。
廊から誰かが走ってくる音がした。
そのままでいようと思ったけど、勝手に俺の 体が動く。縁側から掛けおりた。


「重兼さまっ!?」

よじ登った屋敷の塀から飛び降りるとき、慌てた侍女の声を背に聞いた。



――…ああもう駄目だ
ただ笑えてくる。

行き先もなく駆けながら、自分の手足が風を切る感触だけに神経を研ぎ澄ませて いる。
袖が捲れて肘が見え、袴は脛に張り付いた。
存在を主張するみたいに、胸 元から赤い守り袋がはみ出している。


――…逆らって走るんだ


誰かがそう教えてくれる。

破裂しそうな心臓は熱を押し出し続けて、胸の中で重くなっていく。
立ち止まれ ばすぐにでも、倒れそうだ。見える景色は頭に入らない。


どっかで転がっているうちに朝は来ていた。
どこにいても何をしていても、時は同じように進んでいく。

屋敷に帰らなかったのはこれが初めてで、始まりだった。





ひねくれた餓鬼は手に負えない。
そうやって一年が過ぎた。

やがて二人目の父も突然死んで、俺を庇ってくれる奴は消えた。
主人の消えたこの家は、俺を置いておくことを疎んだ。

実父の葬式で頷いてくれたあの声だけが、惜しむように胸を滑り落ちたけれど。




また違う家に移ることが決まって、俺は久しぶりに弟と顔を合わせた。
あの時以来怯えきってしまったのか、もう冗舌に喋る事もなく唇を引き結んでい る。


「吹っ切れたのはお互い様だろ?」


満足していた。
涙を浮かべなくなったのは、やっと俺を嫌いになれたからだろう。
純粋に誉めて やりたかった。
俺がいなくなってももう弟は悲しまない。穴が空くこともない。
慕う相手を失う痛みを知らないで済む。


「俺はもう兄様じゃない。兄様なんていなかったと思え。むかついてるなら心から消せばいい」

元もと俺の荷物なんてほとんどなかった。
だからいなくなる俺も送り出す人も、みんなえらく身軽だ。
見慣れても馴染めなかった室は最後まで、そ知らぬ顔で入る光を鈍くさせている。


「簡単だろ?」

「いやだ」


「…あ?」

耳を疑う。まだちっちゃな拳はぷるぷる震えている。


「あんま俺を怒らせるな」

容赦なく言い落とす。弟は俺を心の底から睨み付けた。

「にいさまじゃないならいうこともきかない」

「………お前」

「わすれられても、わすれない」

「勝手にしろ。…まあ恨まれるのは、仕方ねぇし」


堪え切れずに笑いながら、掌で押さえ付けるように頭をぐしゃぐしゃに撫でてやった。
強い強い視線。何も知らないと思っていたこいつが、初めて俺に並んでくれた。

俺は素直に、嬉しかった。

「……じゃあな」

最後に一度だけぎゅっとしてやる。

重兼は、顔を埋めながら呟いた。


「もうよわくないよ」
「…ああ」


「だから…今はきらいじゃないよね?」

「………うん」


そうだ。とっくに気付いてた。嫌いなのは、お前なんかじゃない。

傷つけて、逃げて、壊して笑う。立ち止まることすらできない。
本当に弱いのは俺だから。


強がりには慣れっこだから、にやりと笑ってから背を向けた。


強くなろう
俺は決めた。


振り返らない。
今度は本当に。


迎えの馬が、遠くに待っていた。

足を早める。
走りだせば、風だけはいつも付いてくる。