その日は本当に久し振りに晴れた。
突き抜けるような青空には雲一つ無く、穏やかな風が優しく木々を揺らす様な。それが本当にきれいな青空だったから、風に誘われるままゆっくりと歩く。さやりと吹く風には早咲きの桜の薄い桃色が混じっていて、甘い匂いが微かに鼻腔を掠める。足取りも軽やかに細道を進めば小さなせせらぎの流れる緑陰に出た。
流れに戯れるようにして立つ人影。
光を弾く水滴を散らして弄ぶその背に声をかければ花も綻ぶような笑顔で振り向いてその涼やかな声で自分の名を、呼んだ。
その日は本当に久し振りに晴れだった。
「…うえ、兄上」
「…ぅん…?」
「こんなところで寝ていては、風邪をひきますよ」
ぼんやりと瞼を引き上げれば寝そべる縁側から仰ぎ見る空の色は青。少し困ったように笑んで覗き込む直義に、背負われるように立つ木々の青々とした葉が風に揺れていた。軽く体を起こそうとすると鋭い痛みが走り思わず眉をしかめる。
「っ」
「兄上?」
灼くような痛みは、だが一瞬で消え去る。無理な体勢で寝ていたからかもしれない。堅い板張りの感触が未だに肩に残っていた
「いや…」
なんでもない、と言おうとして直義の手にしているものに気付く。
「文か?」
「あ、はい憲顕どのから」
笑う直義の声には紛れもない喜色が籠もり思わず苦笑する。直義はあの従兄と相当に仲がいい。それこそ何をするにも
「兄上?お読みにならないのですか?」
身を乗り出すようにして言われた言葉に暫し驚く。憲顕からの文、といえば直義宛のものであろうに、珍しいこともあったものだ。欠伸をかみ殺して直義の差し出す文を見る。憲顕が自分に文を寄越す理由?
「関東に、何事か?」
…憲顕はそう、確か関東に行っている、関東を任せた筈だ。抜け切らぬ眠気の底から引き出してきたそれを口でなぞる。すると直義は今度こそきょとんとした顔をしてからくすくすと笑った。
「兄上…ただの挨拶状ですよ?」
何事か、だなんて。擽る様な笑い声にようやく目が覚めた。
そういえば憲顕が関東に赴いてからもうすぐ二年の時が経つ。それへの挨拶状だろう。大体最近は関東辺りは大事もなく過ごしている筈だ。的外れにも程があるそれに恥ずかしくなり誤魔化す様に首の後ろを掻いた。
「悪い、寝ぼけていたようだ」
「あぁ…最近、兄上眠りが浅いようですし…お疲れですか?」
顰められた眉の間に漂う本気に軽く背を叩いてやる
「いや…そういう訳ではないんだが…どうかな、春が近いから、かもな」
確かに最近は眠りが浅い日が続いた。というよりも、昼間から何かしら夢心地であることが多く変に気疲れしている感がある。うん、と頷くとまた鋭い痛みが走ったのが分かった。やはり一瞬で消えたそれは別に何事もなかったが、肩からでは無い痛みに軽く首を傾げた。
目の前の茶の澄んだ色にゆっくりと息を吐く。今一ぼんやりとしている自分に、直義が眠気覚ましにと淹れさせた熱い茶だ。直義自身もまだ手をつけずに置かれた椀からは、湯気がふわりと漂い冬の去り際を思わせる暫しの冷たさを和らげる。未だに堅い顔をした直義は、少し躊躇うようにしてそっとこちらを伺う。生真面目で優しいその弟に、困ったものだと思いながらも自然笑みが浮かんだ。
「…本当にお疲れではないと?」
「夢見は悪いかもしれんが…はは、なにしろ覚えてない。まぁ気に揉むな、どうせ大したことではないさ」
母上にでも叱られてる夢かもしれん、と言ってやれば直義はようやく笑った。
「懐かしいですね、昔はよく母上に叱られました」
「…俺のせいでな」
はは、と頬を掻けば直義はゆるりと笑みを深める。無理やり連れ出した挙げ句に二人して夕餉に遅れたせいで叱られたことなどは一度きりではない。
ふとそういえば今日は綺麗な快晴だった事を思い出す。最近、急に暖かくなったかと思えば未だ冷たい空気の中、空は重く曇っていることのほうが多かった。久し振りの快晴、幼き頃の淡いそれに無性に外に行きたくなった。
「直義、遠駈けに行かないか」
熱い茶をぐいと飲み干して直義を見つめる。一瞬呆れたように何かを言いかけた直義は、ふと柔らかく笑うとそういえば久し振りの晴れですからね、と首を傾げた。見抜かれたようで恥ずかしくもあったが、跳ねる気持ちが先行して止まらない。室の隅に置かれた文からも意図的に意識を逸らして直義を見た。…なんだかんだ自分はあの従兄が苦手である。後回しにとしている自分の行動は何とも幼いがそれすらどうでもよく感じられた。
「ふふ…そうですね、でも兄上はお疲れのようですし、馬ではなくお散歩ならばいくらでもお付き合いします」
綺麗に笑って立ち上がった直義は用意してきます、と言って開かれた障子から出ていく。残された椀から未だにほこりと湯気がたって、その軌跡を淡くぼかす様をぼんやりと目が追う。またどこか小さく痛む気もしたが、今度こそ一瞬だけのそれは気に止まるものではなかった。
結局連れ立ってかなり遠くまで歩き、風に誘われるまま川に入り遊んだせいでまた屋敷が見える場所まで帰った時には完璧に日が暮れていた。門には煌々と篝火が焚かれていて門に続くこの路をもゆるく照らす。
「遅くなったか、」
くすりと直義は笑ってこちらを見上げる
「母上に、怒られてしまうかも」
「今日はお前も同罪だぞ?」
先に川に入ったのはお前だ、と言えば、そうでしたか?とけらけらと笑った。
門を入り、衣を替えてくると自分の室へ向かった直義と別れて庭に足を向けようとすれば、高い声で呼びとめられた
「尊氏さま!こんな時間までどこに行っておいでだったのですか!」
飛び出してきた人影に溜息をついて苦笑してやる。肩をいからせてこちらに向かう姿は段々、見慣れた別の姿に似てきている。
「師直の次はお前が母上役という訳か、命鶴丸」
「…は?」
「いや、師直に似てきたなお前」
童だ童だと長年思っていたのに、いつの間にか青年と呼べる年になっている。最近は特に心配症のあの執事に似て細々としたことばかりを気にかける。それが自らそうたろうとしているのが分かるだけに尚更おかしかった。
「…そう、そうですか」
急に押し黙るようにした命鶴丸を不審に思いながらも笑いが漏れるのを止められない。一つ首を振って何かを言い募ろうとした命鶴丸は、近くでこちらを見ると再度眉を吊り上げた。
「まだ寒いのに水浴びでもなさったのですかっ!早く衣をお替え下さい!」
「分かった分かった、分かったから室に行かせぬか」
お前がそこに居ては行けん、と笑えば深々と息を吐いてすぐに支度します、と絞り出すように呟いた。
何を怒ったのか…といっても理由など一つしかなかろうが、命鶴丸はむっつりと口を噤んだまま淡々と衣を整える。未だに濡れた髪を巾で拭きながら欠伸を噛み殺した。やはり遊びすぎたようだ。また少し眠い。
「……尊氏さま、お疲れのところでしょうが」
低い声で出されたそれに振り向けば、今し方脱ぎ捨てた衣をたたみながら命鶴丸がゆっくりと言葉を紡いだ
「佐々木さまがお見えになってますが」
ちなみに二刻ほど前からです、と言いながらも決して顔を上げようとはしない。客を放って抜け出した羽目になったらしい。しかもそれが道誉とくれば自然悪いことをしたという気になった
「悪かったな、そうか道誉か。通せ」
「…はい」
ふと見れば怒っていると思っていた命鶴丸はどうやら落ち込んでいるらしい。眉根を下げてじっと畳を見つめるそこには哀愁めいたものが漂っていた。
「…命鶴丸?お前、どうした。平気か?」
覗き込めば弾かれたように命鶴丸は顔を上げてこちらを見つめる。みるみるうちに涙を溜めたその顔に驚いて息を止めれば、ぱしりと音をたて障子を開いて出ていってしまった。
何があったのかさっぱり分からない。
自分が何かしたか思い出そうとしても叩きつけられた障子の音が耳に響くだけだった。
「尊氏どの」
廊から響く声に視線を上げれば見慣れた赤がちらつく。そういえば来ているのだと言っていた。衣を替えたらまた来ると言っていた直義が鉢合わせないかとずれた心配が浮かぶ
「道誉、待たせたらしいな。すまなかった」
いいえ、と首を振りながらゆっくりと室に入って障子を閉めた。
「どうしたのですか?侍従どのが泣いてらっしゃいましたよ?あまり苛めになられますな」
それがしが苛めるならともかく、と意地の悪い笑みを浮かべる。あまりにこの男らしい台詞に苦笑を漏らしながらも首を振るしかない。
「俺が聞きたいくらいだ、いきなり泣かれた」
「それは罪作りな方だ?…何ですかな、水でも掛けたのですか」
そういえば拭いた格好のまま髪を整えてすらいない。
「抜かせ、これはまた別だ」
乱暴に袖を捲り上げて拭く。ばさりと垂れた髪を無理やり括り上げた。
「おや…些かお痩せになりましたかな。」
疑問というよりは気付いたそれに対する心配でもしてるらしい。意外なその言葉に思わず見返した
「そんなに疲れてる様に見えるか?直義もそんなことを言っていた」
自分では別に何も疲れた感はしないだけに尚更意外だ。直義が心配するのはまだ分かるとしてもこの男まで言うということは相当なのだろう。
道誉は何故だか酷く驚いた様に目を見張る。それからあぁ、と一度首を巡らせてから小さく笑った。
「…御舎弟がですか。そうでしたら尚更、お気を付けなられよ」
はぁと息を吐くとまた小さく痛みが走る。いい加減頻繁なそれに軽く苛立ちながらも、そういえばいつからこんな痛みなど感じるようになったのかとぼんやりと思った。
「…それで道誉?用向きは何だ」
「……いえ、大したことでもなし、尊氏どのはお疲れのようですし、また明日お伺いしますかな」
「は?」
二刻も待ったらしいのに、何も言わずに道誉は席を立つ。本当に今日はこれで帰るつもりらしい。
「何だ、茶の一つでも淹れさせるぞ?どうせすぐに直義も来る」
「…いえ……そうですね…ほらそれがし、御舎弟にはあまり覚えめでたくないご様子ですしな」
するりと相変わらず似合わず綺麗な礼をして、どこかしら断じるように言を繋ぐ。
「きっとそれがしが居ては御舎弟はいらっしゃらないでしょうよ」
「…そうか?」
珍しいこともあったものだ。そんなことは今に始まったことではないのに道誉がこんなことを言ったのは初めてだった。
「…まぁ、そうですな。明日。明日はまた伺いますから、今度こそ館にいて下さればと。」
「あぁ…分かった」
「では」
そのままさっさと室を出ていく。またしても開け放されたままの障子は尚更常ならぬ物だった。
命鶴丸といい道誉といい。今日はよく分からないことが多い。
そういえば今日は久し振りに晴れだった。
よく、分からない。
「兄上」
「あぁ直義」
開かれたそこから直義が入ってくる。自分が居ては直義は来ないだろう、という道誉の言葉が何故だか遠く響いた。
結局何だか釈然としないまま眠りについた。
それ故にか、眠りはやはり酷く浅く短くて、度々目が覚めた。
その眠りの狭間に、何か嫌な夢が紛れ込み
朝日に飛び起きた時には背にじっとりと汗が伝っていた。
すらすらと筆を走らせて書簡を積んでいく。昨日怠けた分もあって、そこには山積になった束があった。
うんざりと投げ出そうとすると横にいる命鶴丸がきつく睨みつけてくる。昨日泣いた訳を訊ねたくもあったが、ぎらぎらとどこか張りつめた様子に声をかけることすら躊躇われた。それにどうせ投げ出すといっても流石に二日続けて道誉を放っておくわけにもいかない。ご丁寧に昨日帰り際に命鶴丸と話でもしたらしい。足止めというにも自業自得ではあった。
一つ伸びをするとふと目の端に文が写る。そういえば憲顕からの文は結局開いていない。
「命鶴丸その…」
「はい」
文を、と言おうとしてまた鋭く痛みが走る。いつも一瞬の筈のその痛みはだが何故だかいつまでも去らず、こめかみから嫌な汗が伝った。
「…尊氏さま?」
「…い…や、何でもない」
どくりと高く鳴る。何か寒いものが背を伝い、覚えていない夢の存在を否応なしに思い出させた。
何かがおかしい。別に何があった訳でもない、疲れてはいない、何もない。ただ少し夢見でも悪かっただけだ
昨日はおかしな日だった。命鶴丸にしても道誉にしても。
珍しく晴れて、久し振りに直義と川に行って。別段何もおかしくはなかったのに。
その文を何故だか見ていられなくて、無理やりに視線を手元にもどす。ただの、挨拶状。しかも差出人は知らぬ相手でもないあの従兄、直義の親しい……――
「…尊氏さま?あの、本当に大丈夫ですか」
「いや…大事無い…」
ふうと息をついて汗を拭う。その痛みは収まっていたが、どこかざわりと波立つものがあった。
すっかりやる気も無くなって書簡をただなぞるように読む。本当に面倒くさくなって師直にでも押しつけようとしたがそういえば昨日から姿を見ていない、と思う。
「…あ」
当たり前だ。師直は今、軍を組んで京を出ている。昨日といい今日といい変なことばかり忘れている自分に、初めてもしかしたら疲れているのかもしれないと思った。
「父上」
「え?」
廊から入ってくる人影。
「義詮さま」
「…義詮?」
命鶴丸が上げた名をゆっくりとなぞる。目の前に立つ姿。確かに見慣れた筈の、自分の息子、義詮。そこに何一つおかしなことなどないのに、有る筈のないことが起こっている、と何かが強く警鐘を鳴らした。
「父上、お聞きになりましたか」
「…何をだ?」
首を傾げれば義詮は意外そうに眉をしかめる。
「…道誉から、お聞きにならなかったのですか?軍の編成についてのご相談です」
今度こそ間違いなく鋭い痛みが走る。警鐘はもはや気のせいなどではない
おかしい、
おかしい?
何が
「…軍?」
「…父上?どうなさったのです」
「何故?東北には師直が行った、別段他に」
目を見開いて義詮はこちらを見つめる。
…そういえば命鶴丸も道誉も昨日似たような反応をした気がする
おかしい
おかしくなどはない
憲顕から文が来た
師直が討伐に行った
どこにも不思議なことなどない
でも?
今目の前には
すっと冷たいものがまた伝う。考えるより前に何かが足を震わせた
「…あ?…義詮、お前?関東に…行った筈」
「父上!何を…何をおっしゃっているのですか!」
「義詮さま!」
がしゃりと書簡の山を突き崩して義詮が向かってくる。
憲顕は関東に
師直は東北に
義詮は、
「父上しっかりして下さい!そんな…昔の事」
「義詮どの!いけませぬ!」
誰かが廊から入ってくる。障子を開けて、覗いたその色は赤。
道誉が、義詮が?
軍の…、軍?
憲顕は京にいない
師直は京にいない
義詮は、今ここに
「父上!」
軍?何のために?
決まっているそれは
障子は開かれている。それでも直義は入ってこない。
それはそうだ。道誉がいる、命鶴丸も義詮もいる。
でも
憲顕はいない
師直はいない。
いない?
「義詮どの!」
「道誉!でも」
「、兄上」
「…あ?直義?」
何故?何が、何故
何故・・・ここには、皆
「ふふ…おかしな兄上、もう誰もいませんのに」
誰も、いない
憲顕は京にいない
師直は京にいない
誰も、
直義?
冷めた茶
手の付けられていないそれ
…欠けた一つ
鮮やかな上杉の印
開かれることのない文
…血塗れた殺意の花押
見開かれた目
浮かべられた笑み
…諦めにも似た憐れみ
開いたままの障子
音立てて開かれたそれが、何故閉じられることがなかったか?
痛みなど、夢など。押し込めたそれは
あぁその日は久し振りに晴れだったのに
「…!あき…義詮っやめ…!」
「尊氏どの!」
そして
朝は二度と来ない
「…うえ、兄上?またこんなところで寝て…」
「…直義?」
覗き込む笑顔、広がる空の色はやはり青。体を起こすときりと鋭く胸が痛む。
"肩が"痛むのはきっとこんなところで寝ていたせいだろう。首を傾げて此方を見る直義と目があって差し伸ばされたその手を取る。何だか嫌な夢を見た気がした。
「兄上?…ふふ、何です?まるで童の頃みたいに」
それでもけして離されることのないそれに縋ったまま起き上がらない。仕方ないですね、と一つ首を振ると直義はすぐ傍に横になった
「直義」
「兄上、」
くすくすとさざめく笑い声にふわりと浮く。自然綻ぶ笑顔と共に、ゆっくりとまた眠りに落ちた。
「…義詮どの」
「道誉……お休みになったみたいだ」
声がする
誰の?
「…微笑って、らっしゃいますな」
「……」
あぁでもそんな事はどうでもいい事だ
「……何をすれば、よかったのか…」
「義詮どの」
「私は間違ったのか…」
「…きっと義詮どのだけでは、…ないでしょうが」
だってそうだろう
「誰しもが気付くのが遅かったのでしょう…せめて直義どのが亡くなる、前に」
もう二度と朝なんて来ない
この手のひらはきっと投げ出されたままで
蛇足(反転)
兄上の妄想時期は大体1342年ごろのこと。
実際の時期としては1354年あたりです。(多分
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