脳裏に思い浮かぶ馬鹿げた約定。形式を慕った自分、茶番に乗り合わせたあのひとの気分 のさざめき、そうして戯れに交わした言葉。


今日の空には雲一つなく。





「……たっ…直冬さ…ま…」

凍り付いたように動かない足が、絡まるようにたたらを踏む。乾いた音をたてて倒れか かった廊の壁は、打ちつけた肩にひやりとした温度を無感動に伝えた。

いるわけがない、このひとが此処に。なの、に

「……」

振り向いて此方をその瞳に映すまでの動作。そして酷く緩慢に、この己が眼を引き裂くそ の彩られた所作。
一瞬にも満たない支配は、確かにその場の全てをねじ伏せて 足元から伝い上るその痺れが、弾けるようにして首筋の後ろで広がった。 ああ、と確認するような響きを篭めて目の前の相手は喉を鳴らす。


「よしあきら」


限り無く優しげな声色で紡がれた名。 囁く程度のあえやかさを以てして動かされた唇が、しかしそれでも弾劾する激しさを篭 め、命じるかたちを造るのを食い入るように見詰めた。 眦に熱い痛みが走り、見開いた目が灼く種の乾きを訴えるのがわかる。


みてはいけない。惹かれると、魅せられると知りながら。
そうだもう知った筈なのだから

(めをとじて、くちをつぐみ、みみをおおって)
ただひとつの、焦がれる思慕

切り裂くまでの優しさすら与えずに、ただ笑顔で自分を切り捨てた、このひと


叔父を父とよぶ、わたしのたったひとりの兄

わたしの



「……んでっ!」

無理やり引き剥がした視線を、勢いのまま足元におとす。喚き散らす衝動を抑えきれず、 ただ噛み締める苦みにぎゅっと眉を寄せた。

「なんでっ…こんな処にいらっしゃるんですか…」
「なんで?」

虚勢を張るだけの威勢もありはせずに、怯えるような様だって彼の目にはさぞ無様に映る だろうと知りつつも、壁を斜めに背にした体を動かすことさえ叶わない。 怒り(その矛先が自分なのか相手なのか分からないのに)、それに似た激情に飲み込まれ るように高鳴る鼓動が耳朶へ響く。

見慣れた自分の室には、ほんの数歩を歩むだけで辿りつけるというのに。足を縫い取める その瞳。かかる漆黒は、慕わしいあの父のものと確かに宿す彩が異なるのに、重なるよう に貫くちからそれだけが酷く似通う。己の半端な色合いをした榛の入り混じる黒、が眇め たその内に取り込まれゆくのを感じる。

みてはいけないなんて、なんど、なんど言い聞かせたって

吸い込まれる視線、そうしてまた食い入るように、弾かれた言葉を見つめ

「……義詮に会いにきた」

嘲る笑みが至極美しいのは

「……とでも、言って欲しい?」

きっとこのひとが抱く甘く薫る本質がそういった類の行為に、そぐわしいのだろうから


「やめてください…っ!!わ…たしは…!」
「…余り五月蝿く喚くんじゃないよ」

唐突に削ぎ落とした表情が閃き、否応なしに口を閉ざされる。不機嫌という程の起伏があ る訳ではない、単に遊技の趣としての興が削がれたのだろう。侮蔑というには無関心な瞳 で、小さく首を巡らせた。

「下らない用が、あったからね。そのついで。というより…別に私はそういうつもりはな かったんだけど…すこし運が悪かったか」

浮かべる笑みは片頬を釣り上げただけで、緩んだ某もありはしない。思いがけぬ邂逅に寧 ろ憤りに近いものを感じているのだと、その視線は告げ、牽制よりは軽侮に近い見下すそ のままでその整った顔を歪めてみせた。

どくりとひとつ胸の中で音がする。

怒り、怯え?そうだ自分は懼れている、自分のこの



戦慄くように震えた口元で名を、呼ぶ。許された行為かどうか、もう留意しておく間もな い。

静まり返った廊に、佇んだ兄、に。
駆け上った痺れのまま

「……直冬さま、」

小さく噛み締めた唇が腫れる痛みを訴える。 五月蝿いまでに響く鼓動は沸き起こるものを抑え、巡らせた視線の先の冷たい笑顔をくっ きりと映す。よろめく足をそっと動かして、上目に見上げる姿勢のまま一歩そちらに踏み 出した。

「……おへやに、」

はいりたいにげだしたい目の前のひとから

自分のこの衝動から

「………」

部屋へ行きたいなどと許しを乞うのは酷く可笑しなことだ。別に広い廊を塞がれているわ けではなく、佇むその謙虚さで寄り添った柱は室の入り口とは向かい側なのだから、開け 放ってくれているとも見えなくもないのだ。 自分がこのひとの前を素通りできるなら、の話ではあるが。

「……入りませんか」

莫迦な真似だ。知った全てに何一つ変わることができていない。 形式ばかりの拒絶を紡げばいい。そうすればさっさと終わる。 それでも、

にげだしたい

でも


にがしたくは、ない

お座なりにすら握られたことのない掌でも、こちらから離すことなど出来はしないのだか ら。ましてや去り行くそれを見送るなんて

「……いいよ」
「…」

通る声が頭の上を撫でる様に響く。

薄暗い何かをわらう。閉ざした筈の枷が外れる音がする。 晴れ渡った空から差し込む日が斜めに廊に降り注ぎ、玲瓏なその貌を鮮やかに焼き付け た。





見慣れた自分の室。その中にあって兄はどこまでもくっきりとそのままであった。 違和感、と呼べばいいのかもしれないが作為的なものではない。霞ませるなにかが、正し く自分のものなのではないかという危惧だけが小さく痛みを与えた。
無造作に足を投げ出す姿勢で座り込んだ兄は、寧ろ愉悦すら滲ませて戯れのように言葉を 紡ぐ。たわいのないそれらを受け流すだけの余裕もないまま、半ば打ちひしがれてぼんや りと立ち尽くした。

なにをしているのだろう。拒めない、抗えない、自分のこの、感情。 侮蔑も露わな相手、自分は目前のひとが最早自分にとって優しいものでありえないこと を、あんなにも鮮烈に知った筈なのに。

足を縫い取める衝撃、怯え。それでも目を離すその行為の方がし難いなんてことが。 感情、衝動。慕わしい、美しい、惹かれる、その

振り払われた腕、握られたことすらない掌
いかないではなれないで

…なら?

「……直冬さま、………っあ、」
「?…」

呟いた喉の響きに、はっと我にかえる。無意識に呼んだそれに、当然のように兄は視線を 此方へやった。

美しい瞳、澄んだその

唐突にかちあったそれに、ぐらりと熱が頭までかけのぼる。慌てて頬へ両手をやれば、恐 らく真っ赤になっているだろうそこからじんわりと熱が伝った。

かけのぼる熱、いかないではなれないで
強いその瞳、とらわれる



「ぁ、…あ…っ」
「…義詮?…どうしたの」

力の入らぬ足を折り、へたりとその場に座り込む。じわりと目尻に滲むものすら感じて、 益々駆け巡る熱は程度を増した。

抗えない拒めない、この自分の、衝動に

いつから?いつからー…そんなこと知らない知りたくないでも知らずにはいられない

「……よしあき」

立ち上がり此方へ向かってきた兄が、すっと手をのべる。 いきなり崩れ落ちた自分を不審に思ったのだろう、その行為は酷く無防備に為され、そし て目に映る白い手がすんなりと自分へと到る。


「……ぁ…!」

ばしん、と乾いた音で払った手が揺れる。驚きのままに表情を抜け落とした兄は、寧ろ無 垢なそのまま体勢を固まらせた。

みてはいけないのだ全て全て。自分を、かきたてるものを見ては、一度とらわれれてしまえば、抗えない拒めない

みるな


でも視線を外せばこのひとはきっと自分のまえからいなくなってしまう。 いやだいかないではなれないで



…いかないで?そんなこと、何度言ったか分からない。一度だってかないはしなかったじゃないか
父の傍にはいつだって叔父がいて。振り払われた目の前の人の慕わしい腕は酷く冷淡にそれを為したじゃないか



ならば簡単
きめてしまえ



…いかせない





震えがおさまった
熱が静かに引いた

美しい瞳、自分を映す透明な。白い手、自分の拒絶に赤らんだ。


わたしの、兄だ
わたしだけの



見返した相手は未だ驚きから抜けきらぬ様子でこちらを見下ろしている。……丁度、い い。



弾くその速度で、ずいと腕を伸ばした。

「……ね、直冬さま」
「な、」

翻る袖を潜るようにして、その左手首をしっかりと掴む。さらりと流れた布の軌跡の背後 でその切れ長の目が見張る形で見開いたのをじっと見つめ返した。

ききなれた、その呼称
自分を支配する衝動

手の中に握られた
わたしだけの


「…―あにうえ」



どくり、と鳴るおとが、掌から確かにきこえた