真っ直ぐに伸びた廊下をゆっくりと歩む。ひとけの無い其処は酷く静かで思わず小さく溜め息を吐いた。 片側を縁側に開いたその廊下では、そんな些細な音は直ぐに掻き消える。見上げた空は重たい雲が日を覆い隠して、 昼間だというのにうっすらと暗かった。

「お天気まで、悪い…」

自分はそう外に出るのが特別好きというわけでもなかったが、それが誰かと一緒となれば勿論話は別だ。 連れて行ってもらえるから、そしてそれがいつだって楽しげだったから、そんな一時は大好きだ。 ――そう、ちちうえが私を連れて行ってくれる、その時なら。

時折吹く風が頭の飾り紐をさらりと揺らし、そっと首を傾けると落ちる髪に織り込むようにしてその赤が目に映る。 その鮮やかな赤が、元々あの父の美しい刀のものであったことを忘れるはずも無い。 思わず笑みが浮かぶが、それに伴い今し方出てきたばかりの室のことを思うと自然と気が重くもなった。

「……まだ、おわんないのかな」

訪ねた父の室には来客があって、そしてその相手は自分もよく知るひとだった。 そうして其れゆえに訪ねたその場で、室に入りもせずに踵を返してしまったのだけれども。

用が終わらないのか、なんて問が何の意味を持たないことは知っている。 どれだけ大事な用事があったって、そんな事より優先することが元々父にはあるのだから。

訪ねてきた、そのひと
父の大切な、大切なおとうと


わたしのたったひとりの、叔父上――


ぐるぐると回るような気持ちを抑えて軽く息を吐く。こんなことは別に今に始まったことなんかじゃない。そしてそれが考えてはいけないことだというのもとっくに知っている。

「……おへやに…かえりたくないな…」

今は余り大人しく自室に収まっていたい気分ではない。段々と進める足が重くなって、 伸びた廊下は、何処までも続くような空虚さであった。 少し悲しくもなって、目に映った障子にいきなり飛び込む。そこがどんな室かなんて知りはしないが、 今はどうだってよかった。

乱暴に障子を閉ざしてから、くるりと室内に向き直る。案の定誰も居ない室にはただ壇上に花が生けてあるだけの何も無い室だったが、むしろほっとしてその場にへたり込んだ。

「……、ちちう――」



「誰か、居るのですか?」


突如響いた声にびくりと体が跳ねる。咄嗟に反応を返せずに居れば、またも澄んだ声で確かに誰何の言葉が零れた。 慌てて見渡せば、隣の室に続く襖が薄く空いている。 犯したらしい過ちに居た堪れなくなりながら、小さい声で言葉を押し出した。

「あ…すいません…いきなり、勝手に入ったりして――、すぐに出て行きますから」
「……、」

何処か驚いたような空気が流れて、小さく衣擦れの音がした。 恐らく童の声で返答があったことに驚いたのだろう。ここは父上が普段執務を執る棟なのだから、 童がいるのは確かにおかしい。

だけれど、そんな反応に寧ろ自分が驚かされる。この館に居る人が、自分の存在を知らない訳も無い。 そういえば、先程聞こえた声にも自分は聞き覚えが無かった。

出て行く、と行ったのにそんな戸惑いに暫し躊躇していれば、また小さな音がして襖の向こうに居る人が 立ち上がったのが分かった。慌てて自分も立ち上がるが、ここで室を出るのも酷く失礼な気もする。 かといって其処に留まるその時間は僅かでも可也居たたまれず、思わず縋る様に襖を見つめてしまう。

するとそれに合わせたかのように、襖が綺麗に左右に開かれた。


「……君、」
「あ……、」

其処に立っていたのはまだ若い青年だった。恐らく二十にもならぬであろうその青年は 父の臣下と言うには矢張りどうみても若かった。


そして何故か、何故だか分からないのに。めが、あったそのとき、打たれたように走るものが、あった。…青年は酷く整った顔立ちをしていたから、其れゆえかとも思ったが、それだけにしては ざわざわと騒ぐ胸は暫く収まりそうも無かった。

この感情の理由を知りたくてそろそろと上目に窺えば、目の前の青年が某かの感情を閃かせたのが分かった。 しかし一瞬のそれは掴む前に隠される。その閃光に少し怖じ気づきながら再度ゆっくりと見上げれば、見つめた瞳は すこし複雑ないろで揺れた。

「……どなた、なんですか?」

遠慮がちに聞こえるよう声を落として尋ねる。少し困ったように黙りこんだ相手に慌てて言葉をついだ。

「…あの、あのっ…わたしは…義詮っていうんですけど、」
「――………義、詮……―?」

名を、
尋ねてもいいのだろうかと思ったのだけれど。少し高いところで、りんと響く声に先を取られる。 青年が驚いているのか、それとも何か違うことを考えているのか、それすら分からないまま、はたりと口を噤んだ

「……」

それでも静かに見つめる以上のことをしようとしない相手に、なぜだか少し焦って、突かれる様に言葉をついだ。 何故だろう、初めて会った相手なのに。表面的な繕いはなれているはずなのに、わざとでなくたどたどしく 紡ぎ出した言葉はどれもあまり意味を持たなかった。

「……ごめんなさい…僕すこし、…おかしいみたいで…あの、お兄…さんは」
「……直冬」
「え?」
「直冬、というんだ」



*****


「直冬」
「え?」
「直冬、というんだ」


自分が口を開いたことに驚いたのか、目の前の童は大きく二三度瞬きをした。
要するに…名を、私の名を既に誰かから聞いているかどうかだ。

「そうですか…っ」

表情の変化を際立てるようににこりと笑う。この様子では私のことは知らないのだろう。
あうさわに曝される幼少さが、必要以上に纏わる。


義詮のことを直接義父上から聞いたことはない。
ただ私が元服をして一度尊氏のところを訪ねたときにはもう生まれていたから、その名前を知っているだけだ。
だからそれ以上のものは何も、そう何も持っていない。


…ならば?

「あの、では何と、お呼びすればいいですか?」

ちょこんと傾いた小さな頭を見下ろしながら言ってやる。

「君の好きにすればいい」

微笑んだこの口元は、『義詮』にどう見えるだろう。



*****


「君の好きにすればいい」
そう言うと、直冬と名乗った青年は綺麗に笑んだ。 少し堅く、無表情めいていた先程までとは余りに違う、綺麗な、綺麗な笑顔。 目に映るそれに何故か無性に惹かれる。綺麗だった。そして根拠も無くその笑みは自分に酷く優しいものに 感じられた。穏やかに緩められた涼やかな目元に、出した声は自然と跳ねた。

「じゃあ、あの、…ごめいわくじゃなければ直冬さま、ってよんでもかまいませんか?」

少し驚いたように首を傾げてから、青年は小さく頷いた。

室にいるのは自分と、ただ今名を知ったばかりの青年だけ。 どきどきしていた。思いがけない出会いにか、それともこの青年自身にかは分からなかったけれども、何だか とてもいい予感がする。

いつものように取り繕うまでもなく浮かんでくる笑みを向けて、室の奥に立つ相手に一歩近づいた。

「直冬さまは、その…いまお暇ですか…?」

肩を竦めるようにして返された笑みは少し気安い。

例えほかの誰でもない父上にさえ、強請ることは余りしたことは無かったのだけれども。
無性に惹かれる。
きれい、だったから。

「よろしければ少しわたしに付き合っていただけませんか?」

祈りにも似た気分さえ感じながら、そっと前を見返した。



*****


「よろしければ少しわたしに付き合っていただけませんか?」

この輝いた瞳と向き合えば向き合うほど、形も色もわからない違和感の正体を掴みたくなっていた。
ひどく冷静に、だが確実に、私はこの糸を手繰り寄せることに興味があるのだ。


だがそう気付くより前に、言葉は勝手に滑り出る。

「どうしようか…」
「え?」

一瞬のうちに義詮の表情は曇る。
謂われの無い素直さを一度思考から除いておきたくて、反射的にゆっくりと目を伏せた。


「やっぱり、…ごめいわくでしたか?」

躊躇いがちに掛けられる声は小さく震えている。

「いや、私が…というより」

嘗試と戯心を裏返すのは容易だ。背中合わせのその位置は対照であり、対称でもある。
だからそれは罪にはならない。
ましてやあちらが勝手に、飛び込んできただけなのだ。


「…君が、困るかもしれないよ?」

突き付けたこれは忠告だ。 今選びとる権利があるのはあくまで私ではない。目の前の小さな童だ。
声と共に投げ掛けた視線を、義詮は拾いかねている。慌てて逸らされた瞳は拒否ではなく逡巡に違いない。
ゆっくり考えればいい。
その場にゆっくりと腰を下ろす。方膝を抱え込んで今度は見上げるように義詮を伺った。


「あの…どうして、わたしが、こま…るのですか?」
「さぁ?…私の口からは言いたくないな」

少しきつくなった口調に怯えたのか、義詮はこちらを見たまま一度びくりと震えた。
別に威嚇したいわけではない。だから慰めるように、また笑いかけてやる。


「心当たりがないなら、それはそれでいいよ」


―…君がこの視線を逸らせるかどうかなんて、私の知ったことじゃない。



*****


「心当たりがないなら、それはそれでいいよ」

あくまでも穏やかに継がれた言葉に、だがそろりと撫で上げられる心地がする。 …よく、分からない。疎まれているのだろうかとも思うが、向き合うそれが悪意でないことは明らかだ。 見上げてくる瞳の鋭利な輝きは確かに冷たい影があるのに、浮かべられた優しさに矢張り分からなくなる。

大体ひく、ことは慣れていた。いくら甘えるような素振りをしたって、度を超してしまえば意味がない。 私に第一に求められているのはあくまでも“父上の息子”であることなのだから、許容される範囲などは 既に決まっている事象なのだ。多少の我が儘にしたってむしろあからさまに出してやるべき時だってあった。 そんな線引きをするのは最早反射のようなもので、そしてそれが私の役目なのは疑い無いことだ。


気付いて、引く。考えたら入ればいい、あくまで深入りはしない。ただそれを遵守すれば、いいだけで。鋭利な瞳に、惹かれた。それに自分から声をかけたのは我が儘だ。突き放される感覚は珍しいものではない。例え悪意でなくとも分からないならひけばいい。そうすれば万が一、なんてことすら有り得ないのだから。

…いつだってそうしてきたではないか

「……」

それでも気になるとしたら心当たり、という言葉。 困るかもしれない、と言うのは予測などではないだろうからきっとこの手の内にあることだ。

困るかも、しれない?何に、何故?
傷つくのは嫌だ。傷つけるのは更に嫌だ。だって傷がつくのは私に、ではないのだから
…大切な、父上に

「あの……直冬さま…」
「なに?」

あやすように流された首をちらりと、見てからそっと尋ねる。

「……困る、のは、わたし、なんですよね?」
「そうかも、しれないってこと」

…いつだってそうしてきた。ひくべきだ、分かってる。
あぁでも、矢張り鋭利な視線は冷たいのに

その冷たさに自分は


「なら…いいです」


引いた線を踏み越えたのは、ただの衝動だったのだろうか?
身を委ねた危険はいつだって?



*****


「ははっ、そうなんだ。じゃあ少しの間、相手をしようか?」

少しの間、ほんの義父上の用事が終わるまでだ。童の相手をするのは、好きだし、慣れている。
見たところ義詮は姫とそこまで歳が変わらぬだろう。

覚悟だとか意志だとか、そんなつまらないことは考えたくない。
だからほのめかして言ったのに、却って煽ってしまったらしいのだ。
思いがけない結果が予想通りだなんて矛盾だ。だから内から込み上げるのは、本物の愉悦だった。


そんな私の様子にしばし驚いたのか、義詮は返事をした時のまま見えぬ壁につっかかったように固まっている。

それを解いてやる術、
…つまり自分自身の思い付きは、この場にひどく相応しいと思うのだ。


「よろしく。…義詮」

一つ一つの音を確かめるように、はっきりと名を呼んでやる。
何処かぼーっとした様子で、一歩一歩義詮が距離を縮める。
糸を、正しく糸を手繰り寄せるのに似ているから、やはり最初の印象は当てずっぽうではなかったのだ。
ぎこちなく腰を下ろした近くに、手をついて身を乗り出す。


「何してほしい?」
「…え?」
「何に付き合えばいいかな?」

困るのが『わたし、ならいい』だなんて、後ろにある尻尾をわざわざ見せてくれたようなものだ。

隙?
たぶんそこまではいかない。何も知らないなら、義詮はそう言うしかないのだろう。

でも私は、今の義詮より小さい時から知っていた。


このような甘さは、たぶん命取りになる、って。


*****


「……、ぁ」
「義詮?」

響く己の名が、何故だか酷く深いところまで入り込んでくるのを感じる。 穏やかだけれど矢張りまだ少し高いその声で呼ばれると、無性に何かが掻き立てられた。

…笑う顔が少し皮肉げだった
かけられた声だって少し優しげというよりは呆れ混じりだったようだ。

悲しくもなって自然眉が落ちる。いくら浮かれていたって、少しばかりの隔意を見て取るのは自分にとって 容易だ。こんな風に窺うことばかりうまくなって、それでも分からないことばかりで途方に暮れる。

きれいな、きれいなひと。
つられるようにして踏み越えた線を顧みるのは怖すぎて、でも秤にかけたのはたかが自分の ちっぽけなものなのだから、取り返しがつかないことなんて無いはずだ。 父上ではない。なら例え何があってもとるに足りないのだろう?

それならば惹かれるこれを抑えるのは、冷たさが絡み取る感覚を抑えるのは、自分にはできはしない。 隔意を知っても、向けられる笑顔はこんなにも優しい。
それに自分には分からない。踏み込むことを知らなかった自分が、その先の訳なんて知るはずも無く、知ったところで自分のとるべき態度が分からない。ひく、のは確かにその優しさなのに 差し伸べられた手をとったのは自分なのに

…どこかで分かっていることがあるのに、向けられる複雑さだけは兎に角明確なのに。


でも名を、名を呼ばれると


「義詮?どうしたの」
「いいえ…!なんでも、なんでもないんです、ご…ごめんなさい…」

全てを掻き乱すその響きに。目眩にも近い動揺を覚える。

「謝らなくても…いいんだけど」

くすりと漏らされた忍び笑いだって。

「…困らせちゃったかな?」

何がいい、と聞いたことを言っているのだろう。慌てて首を振って、少し困ったように笑う青年を見返した。

駄目なのだ
渦巻く何もかもを覆い隠して余りある、その絶対的な響き。何があっても。 そう、例え何か怖いことが待ってるのだとしても。この響きに、逆らえない。紡がれた名は、正に自分だけを縛る力を持っていて。



………そう?それならば、もう、いいんだ。

「…ええと、少し迷って、しまったんです…」

全てに蓋をしてしまえばいい。得意だろう?そんなのは簡単なことじゃないか。 もう何も考えなくていい。どうせ逆らう術を持たないなら、投げ出してしまえばいい。

いいんだ

「……直冬さまに、つき合わせるんだって考えたら、緊張しちゃって」
「ふふ、そんな固く考えることないのに」
「あはは…」


楽しいのだから、嬉しいのだから、笑えばいい。

蓋を閉めたのは、間違いなく自分の手だから


******


無邪気、でないことぐらいわかっているからね、 心の中で呟きながら身を引く。 元に戻った距離を不安そうに見つめて、それでも義詮はまた嬉しそうに笑った。
そこに屈折した渇望を見て、この子にも満たされていない穴があるのだと気付く。

望んでも与えられない渇きは、二度と消えない刻印のようなものだ。

それは紛れもない痛みだと知っているなら、この感情は慈愛とも呼べるだろうか。


…ほんの少しの間なら、義詮に寄り添ってやれるかもしれない、とも思った。

「…何処かに、連れていってあげられたら良かったかな」
「どこか、お外にですか?」
「うん」

巧く隠されたその穴を見つけた時、懐古と呼ぶには薄い霧がぼんやりと心にかかるのを感じた。
だけどその懐かしさは、つい最近の間に酷く遠いものになってしまった気がする。

削ぎ落とした、理由だけが愛しければそれでいい。

その感触の生々しさなんて、あの人の傍にいられれば忘れられる。

自分を通り越した視線に気付いたのか、義詮もつられたように後ろを振り返った。
その先にあるのは、僅かに開いた障子から覗く曇った空だけだ。


「今日はお天気が、よくありませんしね」

残念そうに肩を落として義詮がこちらを伺う。気遣いにも似たその視線は、何だか少し面倒だった。
曖昧に頷いたそのまま顔を伏せる。さらりと落ち懸かった前髪をくるりと人差し指で弄べば、ほんの僅かな動揺が空気に紛れ込んだ。

「…直冬さま…」
「うん?」
「どうか、…なさいましたか…?」

思いの外人の感情に聡い子だ。
俯いたままの私から表情は見えないが、案じているか慌てているかのどちらかだろう。
先程のわずらわしさが、すっと冷えていく。
踏み込んでみたらどうなるのか、そんな戯心を思い出した。


「ねえ、義詮」
「…はい」

いじっていた前髪を耳に掛けながら、視線を返す。

「義詮の一番大切なものって何?」 「え」

「自分より、大切なものがあるみたいだから」

結局はまた戯れに戻る。でも真剣だから、試すのだ。
何の収穫も期待せずに、種は蒔かない。

「…少し気になったんだ」

例えば私が真実の破片を、わざと前に落としてやったとしても、義詮がそれを拾い集めて作り上げたものは『真実』と別のものになるのだろう。


******


思わず目を瞬かせて青年を見返す。

「大切な、もの…ですか?」
「うん、」

細められた目は、じっと笑んだ形のままで光を弾く。


……いちばん、たいせつなもの?
そんなのは改めて自分に尋ねるまでもない。分かっている、けど、それを口にする事は自分に許されていただろうか?

「……」

例えばここでそれらしい嘘をついたところで、青年は何も言及しないだろう。 なにか、そうなにか酷く稚拙な感じに繕うことだって出来る筈だ。曖昧な問いに「私」が答えられないのは 別段不自然ではない。物知らぬ童らしく、取るに足らない何かに固執するよう振る舞ったところで問題は 無いはずだ。もし障り、があれば。問いが問いなのだから拗ねてみせたっていい。いくらでもやりようはある。

「…わたしは……」
「…?」
「わたしのっ、……」


なんでもいい。
何か、そう何かあげてしまえばいい。
全くの嘘を、つくのが嫌ならそれこそ父上に頂いた何か、なんでも。

「……の…、」

でも
そう、間違いなくいちばん大切なのは父上なのだけれど
でもいままでそれを口にする事が許されたことがあっただろうか?

「ぅ……」

甘えたって引き留めたって
縛ることだけは決して許されない

好意をひいたって向けたって、重荷になっては駄目なのだ
いちばん、だなんて求めてしまえばあの優しいひとはきっと私を

「…っ、」

言葉に詰まって、目を合わせないようにそっと視線を巡らせる。 静かに見るそこにはやはり少し複雑な色。 そして怜悧な。でも先程確かにどこかしら儚げに傾げられた首が。


このひとにきらわれたく、ない


唐突に浮かんでくる望みに、稚拙な嘘さえ封じられてしまう。

嘘をついたらこのどこか澄んだひとには嫌われてしまうかもしれない
そうだ、確かに大切なものが『あるみたい』だから、と言ったではないか。すぐに分かってしまうに違いない。 …でも、口に出してしまっていいのかも分からない。

自分には何も分からないから

「直冬さま…あ…の…あの」
「義詮」

ため息のように押し出された声にびくりと肩が跳ねる。誤魔化したい訳ではないのに、きらわれたくないのに。この人に。 この人に…その響きで拒絶を紡がれたら、その眼差しで切り捨てられたらそれはきっと酷く。

しかし青年は憤りというよりはどこか意外そうな表情でついと手を伸ばした。

「そんな、つもりでもなかったんだけど」
「え…?」
「ほら、もう泣かないで」
「泣いて、なんか」
「…義詮」

また小さく跳ねる肩に、今度こそ青年はため息を吐くと軽く髪を撫でた。 恐々触ってみた自分の頬は確かに少し濡れていて慌てて拭う。馬鹿みたいだ。泣きなんかしたら余計に困らせてしまうだけだ。

「……ぁの、わたし、わたしは」
「もういいよ?別に少し…気になっただけなんだから。無理することはない」
「ちが…違うんです、あの…嫌だったわけじゃなくて…」


言え、言ってしまえ。分からないんだから、きらわれたくないんだから。

「……大切なもの、って…その」

言え、…言うな。え?


「…大切なひとの、ことでも?」
「……勿論だよ?」

聞こえたのは制止?それでもにこりと浮かべられた鮮やかな笑みに。


全てを放り出して私は


******


「…父うえ、です。」
「………そっか」

何度も、何度もあやすように髪を撫でてやる。 やっとのことで『義詮』が絞りだした言葉に

「ごめんね?難しいことを聞いてしまった」

寄り添ってやれるわけなど、始めからないのだ。

「い、いいえっ」

おずおずと見上げてくる義詮は、何かしらほっとしたような色を浮かべる。

…褒美を、見返りを与えてほしい?
揺れすぎたその感情には、理由があるのだろう、と。

髪を撫でていた右手を滑り落として、目の前の瞳を塞ぐ。

「!…直冬、さま…?」

触れるか触れないかのその距離で、涙で濡れた睫毛が瞬く感触がする。

「そんな簡単に、…泣いたら駄目だよ」

近づいた耳元で小さく囁く。

「義詮…」
「…」

じっとおとなしく目蓋を閉じたのを確かめて、空いているもう一つの手でまた髪を撫でる。

躊躇いすぎたもどかしいまでの時間。
挙げ句の果てに流された涙に、…期待通りの言葉。

確かに一度どくりと沸き上がった熱を、義詮にはまだ見せられない。

憎しみじゃない。
まだ、憎しみじゃない。反射のようなものだからこそ、消すことができないだけだ。
だけど跳ね上がったそれは、確実に感情を焚き付ける。
音もなく息を吐いて、ゆっくりと瞬きをした。
掌の濡れた感触は、取り返しのつかぬものまで冷ましてくれる。

「少し、落ち着いたかな?」
「…はい」

右手を離した時には、巧く笑い返すことができた。





それは全ての始まりで