作り出された空間には静かに暗闇が落ちた。

…馬鹿みたいだ。自分は何よりそれを知っていたのに
落ち着いた、のは何。



ゆっくりと引かれた白い手に、つられるように二三度瞳を瞬かせる。無理やり裾で顔を強く拭って目線を戻した。

「あの、ごめんなさい。…泣いてしまって」
「いや…、それに、謝るようなことじゃないよ」
「じゃあ…、ありがとうございました」

ぺこりと頭を下げて礼をする。少し変な顔をされたけれど今は構いはしない。 これは必要なのだ、自分に。ひとつの決まりきった形。本当に馬鹿みたいだ。

「…?」
「いいえ、…ね、直冬さま」

笑う、何事も無かったかのように。そうすればいい。 そうしなければ、いけないから。

「今日はお外には行けないですけれど」

閉めた蓋の上から錠を掛けて蹴り飛ばす。笑って、そして全てを受け入れて。 何でそんな必死にならなくてはならない?そんな必要なんてどこにもありはしないじゃないか

少し俯いて首を傾けて、そのまま見上げる。いつも見ている世界の形。

「晴れたらいつか、連れてって下さいますか?」

尋ねる形で口に出した言葉。でもそれは別に返事が欲しかったからじゃない。

「……うん、いいよ」

だって分かっていた。例え目の前の青年じゃあなくたって返ってくる言葉なんて分かっていることじゃないか。 ましてやこのひとは優しい、んだから。

「うれしいです」

そうして繕って補完された景色さえ、あれば自分は笑うことができる。

何事も無かったかのように。そう何もありはしなかったんだ。
大切な大切な父上。でもだからこそ大丈夫だろう?
関係ない、馬鹿みたい。私はいま、楽しいし嬉しい。今。



それでいいじゃないか。このひとは優しいし綺麗だし、何を傷つく必要なんかない。例え自分が誂えた問いかけだとしても笑んでくれるならそれでいい。

だって

「直冬さまはお優しいんですね」
「…そう…?」
「はい、」


だっていいんだ。それが嘘なのだとしても、嘘をついていてくれるなら。
別に本当のものが欲しいなんて言わない

昔からいつだって本当に欲しいものは手に入らなかったんだから


******


「…優しい…かな」
「はい、直冬さまはお優しいです」

勢い付いた表情と声に内心溜息をつく。
簡単に人を誉めたり笑いかけたりできる人間程、自分のことしか考えていないものだ。

仕方がない。まだ童なのだ。わかっている。 それ以外の理由があるとすれば、後は周囲の事物ぐらいしかあげようがないのだから彼に尖はないのだろう。


「ふふっ、君が優しいと思う、拠がよくわからないな」
「…より、どころ?」

また同じように首を傾げて義詮は拙く繰り返す。今度は本当に、わからないという顔だ。

「…君がどんなことを『優しい』と思っているか、ってこと。」

解せぬという顔で曖昧に頷く。少し遅れた反応は見方によっては痛々しくもあった。
でも義詮に一種の、笑い掛けられる『強さ』があるのなら、案外上手く拾うかもしれない。


「…折角義詮が大切な人を教えてくれたから…私も一つ教えてあげるね」
「?何ですか?」

急な話題の転換に困惑しながらも、それに乗じるように義詮は表情を切り換える。
その変化に気付かぬふりをして、柔らかく笑い返した。


「…大切なひとは、ちゃんと捕まえておかなければ駄目だよ?」
「…つかまえ…る?」
「そう。君を捨ててしまうかもしれないし、誰かに連れていかれてしまうかもしれないから」

自分で言いながら可笑しくなる。思わず零れた本当の笑いを、見開かれたままの瞳が漠然と追う。
特に一つ目のほうは気を付けた方がいいよ、とまでは言わないけれど。


「…ど…うし、て」
「何?」
「どうして、…急に、直冬さまは、そんなこと…」
「私なりの『優しさ』だよ?だって義詮には、そんなことになってほしくないから」

訝しいというよりは唖然としたまま、途切れ途切れに紡がれた言葉。…だから私は微笑んだまま告げる。

「それにね、」

落とした、
真実の、
破片は、

「…これは、私が一番恐いと思っていること。」

君のものじゃなくて、
私のもの。


******


聞いたことがある。あわれみの、意味を。

「直冬さ…まが、」
「……」

何を、言われているのだろうか。

「義詮には、分からないかな」

頷くことさえ躊躇われて、そのまま見返す。

「…恐い…」
「、とは思わない?」

まるで衣の裏表のように鮮やかに翻される面。笑んだそれは至極綺麗だけれどもどこか、
どこか?

反射的に問われた意図を考えてしまう。気遣いなんかではない、そうして守ってきたものが為に。 まとわりつく閉ざした向こう側を無理やりに引き剥がして、一度ぎゅっと目を瞑る。

目を開いて見つめなおした姿どうしても惹かれてやまぬその姿に、 またそのまま

「わたしは…恐い…のとはすこしだけ違います…」
「……ふうん?」
「直冬さまは、」

“義詮には、そんなことには?”

「…」

言い澱んでも同じことだ。こんなあからさまな遠慮なんかではそのまま意図は伝わってしまうだろう。 案の定、するりと目を眇めた青年は少し低い声で問った。

「聞きたいの」
「いいえ!、……全然と言ったら…嘘かもしれませんけど」

知らないことを、遠い他人のことを、恐れることなど出来はしないのだから。

捨てられてしまうかも、連れて行かれてしまうかも?
そんなことが、あった、あるとでも


「わたしは恐いより…悲しいです」
「捨てられることが?」

ほんの。ほんの少しだけ、険を帯びた声に視線を逸らす。

「違います」
「じゃあ、何かな」

ちらりと流される視線は別段きついものではないし、怖いような類のものではない。ただどうしようもない、 色の無さが走るけれど

「しっかり捕まえておく手はきっと痛いでしょう?きつく握り締めた手は…冷たいですから」
「…」
「…だから…悲しいです」

言葉が足りない気もするがどうしようもない。
返事をすればどうしたって…きっとこのひとは嫌がるのだろうと思った。

「…」

そしてやはり、

「……義詮、余計な、ことを考えてないよね」

笑顔に纏う冷たさは別に先程から変わってはないとしても。いま、瞳の色を見返すことは

だってこのひとは綺麗なひとだから。優しいひとだから。
それでもどこか、いや寧ろそれ故に怜悧で儚げで切り削ぐ切っ先にも似たところがあるから。

分かっていたことだ。このひとは哀れまれたりしたら、きっと怒るだろうと。
…そう自分なんかに。



小さく足を踏み出す。恐々と距離を縮めて見上げる。青年は離れもしなかったが、そのままそこに静かに立っていた。

「…」

何でそんなことを言ったのかなんて自分には分からない
…分からせては、くれないだろう

だから、だけれど。全てを知りたいなんて言わない、欺くだけの優しさで十分に嬉しい。 だから。…少しくらいの我が儘は許されますか。


「直冬さま…そんな悲しいこと仰らないで下さい」
「…どういう意味で言ってるのかな」

余計な侵害をする気は無い、大体出来はしないだろう。そっと手を伸ばす。振り払われないのをいいことにそのまま青年の袖を握った。

「わたしにはきっと…直冬さまの仰ってることがぜんぶわかりません…けど」

昔聞いたことがあった

「そんなことを言わせてしまうのは嫌です」

あわれみの、意味。 父上が言っていたのだろうか。でも少なくとも自分に向かって吐かれた言葉ではなかったから違うのかもしれない。

哀れみ、憐れみとは愛するに足る、という意味だと。


握り締めた袖口から目を上げる。 見上げる時には首が大きく後ろに傾いた。 こんな小さな自分から、見上げた姿。

「…だから」

それは

「…そんなことを言ってしまっては嫌です…」

二つばかりの我が儘で
振り払われない手はどこまでも自分勝手なのだ

そうして考えてはいけないからと見逃した、見なかった中に。何があるかなんて。


*****


これは失望、?
それとも希望?



「『優しい』ね、義詮は。ありがとう」
「…直冬さま、っ」

はにかんだ笑顔のまま、義詮は思わずといった様子で、ぎゅっと更に身を寄せた。
甘えるように衣に顔をうずめる。
また頭を撫でてやったら喜ぶだろうかと思いながらも、体は指先一本動かなかった。

ああ、また、だ。
痺れていく心の中に、影の帷が下りてくる。覆い隠すには不確かな暗闇が、当然のように思考を奪っていた。
鮮やかな結い紐が視界に栄える。
・・・それは必要以上に、鮮やかだった。


「…君と私は違う」
「え?」

義詮が弾かれたように顔を上げる。袖口を握った手はまだ離れなかった。
呟いた声は自分にしか聞き取れぬ程に小さく、そして弱々しい。

意志とは別に零れ出たのは

「…ううん、何でもない」
「?」
「何でも、ない」

改めて言い直してやっと取り戻す。義詮にではなく私自身が確かめるために。

手繰り寄せた糸の先
その先に見えた答

知っていた癖に。知っていたから引いたんだろう?私は。 嘗試も戯心も見え透いた答がある故だと。だから試して、遊んだのだ。 示して、おきたくて。

譲れないものがあることを

「でもね、義詮」

あいつの、息子には、

「痛くても冷たくても、そんなことはどうだっていい」
「…あ、の…?」

痛いことが何だ?冷たいことが何だ?そんなことは苦痛でもなんでもない。痛くて冷たいのは、何も無いことだ。

「何があったって放さない。大切だ、っていうのはそういうことだよ。」
「……」
「わからなくていいから、君は知っておいて。」

小さな手を取ってそっと袖口から放す。思えばその仕草が、今までの中で一番優しかったかもしれない。
なされるがままに放れた腕が悲しげに揺れる。濡れた瞳だけが、まだ健気に私を映していた。


*****


軽率に、近寄ったのは

離れていった熱を見送る。どうしようもないくらいそっと外された手をそのまま差し出しているわけにもいかなくて、そろそろと下ろした。縋りついた我が儘は振り払われはしなかった。 寧ろ過多に報われた言葉は何故だか優しさが重くて
軽率に、近寄ったのは自分だったからその咎は否応なしにずきりと刺さる。

「……わかり、ました」

何も、わかってなどいはしないのだけれど。 このひとがあんな風に言ったのだから私は覚えていなきゃいけない 分かりもしない、ちっぽけな自分の器を上回った真実みたいなものを せめて目だけは逸らさないまま、そっと返せば青年はやはり小さく微笑んだ。


だってわからない

私はこのひとと違っていて痛みや冷たさを、切り捨ててしまえるような思いに焦がれたことはなかった。たいせつだという気持ちはいつだって暖かさとか愛しさなんかと共にあるようなものだったから、そんな痛みを想像したことはなかったのだ。…縋りついたまま見上げた瞳に、宿っていた熱は
いたみ、ねつ、くるしみ。そんな、そんなものを凍り付かせた瞳を私は持っていないのだ。

「…義詮」
「、」

動揺を押し殺して、見返す。息を吸ったら喉がすこし変な音をたてた。

「……もうすぐ、日暮れだね」
「は、い…!?」

継がれる言葉に身構えた自分に、囁くように落とされたのは少し平坦な声だった。

…線をひくのが私の役目だった。我が儘で越えてしまったのは今日が初めてだった。 でもそう、くっきりとした線を、ひかれてしまったのもきっとやはり私で。 やさしい冷笑にかける言葉を知らなくて、それは私の責なのだ。

「そうですね……こんなに長く引き止めてしまって…」

別れを告げるべきなのだと分かっていた。 大体なにもなくてもここまで言わせてしまったのは私だ。どこまでも優しく逃げ道を示したのはこのひと。逃げを打った自分にいたたまれなくなりながら見上げた細い空はそれでもただ少し黒くなっただけでやはりどんよりと曇っていた。

内にあの焼けるような赤を抱いたままあの雲は夜に入り込む。

そうどこまでも私は愚かしくて、
馬鹿みたいだと詰ることすら慰めなのだけれど

「また、またお会いして頂けますか」

それでも滑り出た言葉は望みと言えるものだった


*****


「知らない」
「え…?」
「私から会いには行かないし、…義詮が私に会いにも来れないだろうし」

わざと軽い口調で言いながら障子の方へと歩む。擦れ違った瞳を、そのまま置いていく。

「…そ…んな、っ」

それ以上の言葉、勢い込んだ声を遮るように振り向く。
突き刺した視線に、義詮はひるんでびくりと身を震わせた。

「それでももし…会いたいっていうなら…君次第」
「わた…し?」
「例えば君の母上とか、勿論父上にも…、誰かに私と会ったことを話せば、ほんの僅かな可能性すら消えるよ?」
「…ち、ちうえ、にも?」
「さよなら。義詮」

にこりと笑いかけた後、前を向いて障子に手をかける。開け放した戸の向こうに広がる灰色の空。
もう用事は済んだだろうか。雨が降る前に戻れたらいい。

「今度はっ」
「…」

「お外に連れていってくれる、って…っ」
「…会えたら、ね」

縋るような幼い声を振り払う。顔を見たくないから、後ろ手に障子を閉じた。

どうしてそんなに必死になるの?
今更の問いを鼻で笑う。

そう、もう終わりだ。
私はまたあの人の息子に戻ればいい。付き合ったのなんてほんの気紛れ。
それはあの子も結局同じことだろうから。


*****


明らかだった、閉ざされたものなんて。でもなんでこんなにも手を伸ばす? 惹かれてしまう訳を、聞いて、誰かに。
あぁでも、絡めとられた細い細い糸にしか縋れないというのなら。それを断ち切れるわけがないのだ。

秘匿の罪咎が、焦熱の代償になるのならば。
めをとじて、くちをつぐみ、みみをおおって。
そうしてただ待っているだけ?決してない訪れを、待っているしかないのだろうか。


何故こんなに惹かれてしまう。何故あんなにも冷たかったのに、そんな思いが湧き出でる。 何故どんなに突き放されても、わたしは。


でも全てを覆い隠して、例え得られても、そのとき自分には、
(めをとじて?、くちをつぐみ、みみをおおって?)

その暖かさだけでもわかるのだろうか

「……ちちうえ…」

裂かれる思慕は二つに、それとも



それは一つの?


*****


足早に廊を進む。門の近くで待っていると言ったのに、もしかしたら遅れてしまったかもしれない。
目と鼻の先の義父上の屋敷。
…本当は繋がっているようなものなのに、私がついていくと行ったから義父上はわざわざ屋敷の門を潜った。


「…義父上!」

見えた姿に駆け寄る。隣には頭一つ違う背丈の、重能殿が控えていた。

「ごめんなさい、お待たせてしまって」
「珍しいですね!直冬の若様が遅れるなんて」

大袈裟なこの呼び方で、重能殿はたまに私をからかう。
ちらりと笑い返せば、今は見慣れたその戯れ笑いが光った。

「じゃ、帰りますか、直義様」
「そうですね」

頷いて歩きだした義父上に並ぶ。そっと横から見やれば、調度こちらを見た義父上と目が合った。

「義父上、」
「…ん?」
「今日はごめんなさい。…ついて行くなんて我儘を言ってしまって」
「そんなことは我儘じゃないよ」
「…そうですか?」

この人はいつも私の欲しかった言葉をくれる。
嬉しくて顔を綻ばせながら、見上げた自分と義父上との高さを はかる。あと少しで、もう少しで追い付くのだ。

「…ねえ、直冬」
「はい」

急に落ちた声音、そして壊れ物を扱うかのように慎重に、私の名を呼ぶ。

「やっぱり一度、…兄上に挨拶に行こう?」
「……」
「私の息子として、…ね?」

どうして、なんて聞く必要もなく。俯いた自分の近くで、重能殿の気配も気遣わしげに動いた。
わかっていた。いつかは、こうなるって。

「……」

少し悲しそうに瞳を揺らして、義父上は私を見ている。 義父上だって、避けてきた。 だけど、望んでいた。 ずっとはっきりさせたかったんだろう。そういう人なのは知ってる。

知ってる。…ならば私の答なんて、もう決まっているじゃないか。


「義父上の、息子としてならいいです」
「直冬…」
「だから、そんなに気をお使いにならないでください。私は平気ですから」

本当だと示したくて、小さく笑い返す。平気だ。何とも無い。むしろ良い機会じゃないか。
私だって、はっきりさせたい。今し方みたいに、子供相手でなく。


「…じゃあ、…今度、一緒に行こう」
「はい」

義父上はいつもみたいに、私の頭を一度だけふわりと撫でた。



痛みなんて
冷たさなんて、

そんなものは





それは全ての始まりで