――…すべてを他者に捧げきれば自己は消え、もう何に囚われることもない。
ましてやそこに、
『支配』があれば
「後ろ盾がなくなった私は、いつ、どうやって死ぬと思いますか?寝首を掻かれるか地で野垂れ死ぬか…
、…ああもしくは今貴方達に首を取られるのか」
含みのある視線が一人一人に流されて、冗談、とも本気とも取れない面々は痺れ
るように身を強張らせるのみ。
流人、罪人、もしくはそれ以上
数多の視線に追い詰められ曝されているべきは本来彼自身で、間違っても諸将を
、挑発で嘗め回せる立場にはない。
客人と呼べば少しは辻妻が合うのか。
彼は尊大に振る舞う。
どのように己を魅せるのか知り尽くしている。
奥の上座に悠然と座る様から、結
局誰も目を離せはしないことを知っている。
主、と思いきれない。否、思えるわけがない。
徳も、志も。地位さえも無く。
人を統べる資格を彼は何も持たぬ。
滅びを待つだけの筈のこの九州の地で、少弐頼尚ですら彼を見放す時は近かろう
。
それを察しているからこそ、多くの駒を欲しがっているのだ。
兵を集め備前に戻る。
そこには直義派の残党が、集う。
死んだ義父の後を追うことでのみ、彼は生きる。
何と惨めな、・・・・・そう、惨めなはずだ。
それなのに。
十分に引き付けてから。だが気まぐれとしか思えぬ頃合いに、直冬は声を低め髪
をかきあげた。
「でも、私は貴男方と対等に取引ができる」
「お言葉の意味を図り兼ねます」
一人の将が滔々口を挟んだ。
蓄えた髭も雄々しい。怒りの為か焦れた為か、顔色は真っ赤だった。
「うん、では端的に言う」
彼を横目で見遣り、酷く軽やかな口調で直冬は言う。
「兵が欲しい。私が京を落とす為に」
躊躇うような震える声を毅然と張り上げて、また違う一人が尋ねる。
「ならば佐殿は…我々に何を差しだしてくださる?」
「よく聞いてくれたね」
目を見開き、直冬は立ち上がった。大袈裟な身振りで両腕を拡げる。
「都だ。壊した後には、天下ごと皆にくれてやる」
ただ仰ぐことしか出来ぬ。いとも簡単に狂ってみせる彼に、誰もが逆らう術を失うしかないのだ。
狂人が何を与えられるというのか。しかし彼がその手から零し与えるものを、どうしても振り払えはしない。
「従属という名の元、真の自由を差し上げよう。この飾りばかりの血と名を担ぎ
上げて、各々の望みを果たす権利を与えよう。わかるでしょう?私を利用すればいいんだよ」
朗々と言い放ち、だが堪え切れぬように彼は喉を震わせた。
沈黙をただ一つ、笑い声が突き破る。
「ああ…おかしい」
涙がでるくらいに笑い尽くしてから、彼はその目元を拭いた。
唖然としたままの室の中を取り残して、見下ろす目はもう冷え切っている。
「返事はいつでも結構。長たらしいのは嫌いですし、今宵はこれで。」
何を受け取ればいいかもわからぬままに、私は初めから彼とその義父を畏れてい
たのか。
遠くから眺めるだけの時間は余りにも長く、平穏であった。
客に媚びる遊び女、ただ親の袖を離せぬ童
それが直冬が見せる、義父への執着の姿だ。
唯一無二の付き人、実の父の写し画
どれも直冬の真の姿だ。
直義もまたその全てを必要としていたと見える。
危うい親子であった。
ひっそりと静かに、断ち切れぬもので結ばれていた。互いに踏み込めぬようでい
て、互いに甘える術を知っていた。
人となりのせいかその縁のせいか。周りの目は彼等を忌んだ。命すら疎まれる程に。
忌まれていることを知りながら、そして苦しみながらも父たろうとする直義こそ
誠だと思った。
忌まれていることになど無関心で、ただ義父だけを見ていられる直冬を尊いと思
った。
陰のようなこの親子は美しい。
いやしい私はそう思う。
直義に幾年も仕え続けた。
側近というには遠かったに違いないが、彼が私を認めてくれていると感じられる
場面も増えてきていた。そしてその頃には、幕府はもう真っ二つにに割れていた
。
律という真を心に貫き、律という真に身体を貫かれたままの彼の義父は、端然と
座っている。
壊れた後のように、何かを突き抜けている。
薄い唇が動いた。
『直冬に仕えてほしい。…くれぐれも、』
向けられたものに内心愕然とする。信頼などかけらも感じさせてはくれない口調
だった。 痩せ窶れた姿の中にまだ宿っている険しさに驚きながら、ただ仰ぎ見る
。
『服従ではなく忠誠を以て、仕えなさい』
彼を敬う私は恭しく頭を垂れた。決して偽りなどではなく。
そうして初めて、直義は微笑んでくれたのだった。
…あの方は初めから全てを見透かしていたのか。
もう二度と逢うことは出来ないであろうに、あの楔だけが今の私に効を為してい
るのかもしれない。
私の真、彼の義父は死 んだ。
そして尊き彼は京を望む。
深く人を憎み世を惑わす彼。私はそこに己を尽くさねば
己、を
今その顔を見つめ返してていれば、あらん限りの侮蔑を以て罵られると知ってい
る。
しかし希代の縁が綴った悲劇の筋書きに、彼以上相応しい役者はいないのだ。
これは賛美ではなく評。
それに仕えるのは己。
「馬鹿だなお前は。見ていると虫酸が走るよ」
直冬は近付き、私の衿を掴んだ。目を合わせた刹那急に力の込もった腕が、身体
を床に押し付けてくる。 背と後ろ頭を床に打ちつけ仰向けに倒れると、乗り上げ
る彼の片膝が、重く脇腹を刺す。
「自分だけ堕ちぬつもりか?この私に抗って」
最大限の侮蔑
代えがたい支配
今己の腕をなげださずに、この衿を掴む手首にのばしたら、
垂れた彼の髪が己の頬に触れる。
眼の前が真っ赤になる程に、何かが暴れ出しそ
うになる。
課された戒めは二つ。
決して侵されてはならぬということ
そして
決してこの人を、侵してはならぬということ
「物欲しそうな眼だ」
赤い唇に艶を浮かべて、直冬が笑う。
知り得る中で最も気高く、美しい主君
「その方がいいよ、仁科」
嗚呼どうして
それが嘲笑ではなく慈愛である、と。
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