逍遥に相応しき庭園。見飽きたそれを横目に、淡々と進む。
だがその静けさの中に、紛れ込む「歌」が聞こえ、彼は耳をそばだてた。
―――君が愛せし…
よく伸びた女の高い声、知らぬ声。
――綾藺笠…
いつもは曲がらない角へと、足が向かう。一つだけ明かりの灯る室が見えて来た
。普段は空っぽ父の室だ。
――落ちにけり落ちにけり…
歌は近づく。今様の調べに彩られて、漏れた燭台の光が幻想的に見えた。
息を潜め立ち止まる。
続きが聞きたかった。
――さらさらさやけの…
しかし、
男が何事か囁いた。
歌は途切れ、戯れ合う小さな笑い声になり、
光が吹き消される。
調べは熱っぽい吐息に変わる。
―彼の父の室で、
女は父の、
俯きに揺られた前髪が垂れ、目元に覆いかぶさってくる。横顔に、彼の目の前に
、落ちた暗がりの中でじっと耐えるように動きを止めていた。
呼吸だけが萎んだ
り膨らんだりして身体に振動を与え、強張った総てに抗う。
『―――声が、これ以上耳に届く前に』
二三歩後退り、摺り足で引き返す。踏む廊の木目を見つめ、やがて睨み据えるよ
うに顔を上げてみたが、芯はまだ茫然としたままだった。
いつもの飄々とした余裕を剥ぎ取られ彼に残ったものは、酷く呆気なく、そして
純なものだけだ。
一人前に人を見据えてみせる筈の双眸に大胆さは伺えず、引き
結んだ口元は弱さを堪える為だけにあった。
自分の室に戻り、やっと頭を抱える。声も出ない。
『―――知らなかった。…でも何もおかしいことではない』
妻の他に女がいるなんて当たり前のことだと言うのは、頭でも、まだ幼い己の感
覚でも憲顕は理解していた。別に母だけを、一人の女だけを愛し、縛られる必要
は無い。
父、憲房の気質を考えると尚更。
小さく息を付けば、もう大丈夫だと思った。両手を頭から剥がして、胴の両脇に
落とす。
在るべき元の場所に。
だがぴくぴくと憐れにひくついていた指先に気付き、彼はその場に崩れるように
座り込んだ。またしばらくして、身体ごとを床に横たえた。
悔しさとはまた違う。落胆したわけでもない。それでも、俯く程に信じていられ
たのが愚かしい。
そのまま眠ろうとする。
もう考えることは無かった。
仰向けだった身体を横に傾けて丸め、己を抱え込むようにする。
いつしかすんなりと、眠りに落ちた。
繰り返し、背中に何か触れる。
見ると重能の足先が小突いているのだった。仰向けになって目を向ければ、少年
の声が降ってくる。
「もう昼だって。」
「…………で?」
「あの爺の習字じゃん」
「…ああ、」
重能はわざわざ座り込んで、さも珍しそうに朝飯を食いっぱぐれた義兄の顔を、
しげしげと観察し始めた。
「どしたの、お前」
重能の無神経な声に妙に安堵し、だが煩わしさも拭い去れず、冷めた息をつき言
葉を零す。
「…別に」
「ふうん?」
唇を尖らせ首を傾げる。拗ねたようにも見える仕草で、義弟は茫とした憲顕の様
子を、己の興味で感心しただけだった。そしてそんな様子は、憲顕にとってもま
た他人事であった。
「来ないと俺が怒られるんだからさ」
「煩い。急かすな」
憲顕がわざとゆっくりもう一度目を閉じてみせると、義弟はぱっと飛び出すよう
に、廊に駆け去っていく。
騒々しい足音が遠ざかり、消え入る瞬間だけ少しもどかしい。
そして、こんなにも静かに、ただ閉じ込めてやり過ごそうとしている手段を選ぶ
自分を、憲顕は他人事として嘲笑った。
『―きっと金輪際、信じて期待することはやめる』
例え、無意識の中でさえ。
「憲顕」
「何ですか」
憲顕が父と顔を合わせたのは、あの晩から二回目の朝だった。
母はまだ戻らないが、屋敷にはもう女の影も形も消え失せている。
「面倒事は程程にしろ。わかるな?」
しがない仲間とばかりつるんで、時には喧嘩もしているらしい息子を、憲房は滔
々窘めた。 前々から感づいてはいたことだ。ある意味もう手遅れの時期であった
し、憲房自身それを感じてはいた。しかし、この緩い束縛こそが彼の息子への譲
歩である。家名に触らなければ、彼にたいていの事は許すつもりだ。
しかし、町に出た下女が気になる事を告げた。
みちのべにある薬屋の子供が、上杉の紋の入った手拭いを身につけていたと言う
。
「お前が、何を背負うのかを忘れるな」
「わかっております」
もっと早く叱ればいい。
ちゃんと叱ればいい。
こんなになってしまってからでは、何もかもが遅いのだ。そしてもう、自分を変
えることは出来ない。
微塵もそんな心を見せることはせず、飄々と笑んでみせる。
「父上のお耳に入っていたとは失態です。では今度からはもっと、上手くやりま
すよ」
おどけたように肩を竦めた息子を、憲房はじっと見据える。そして自分が彼に何
をしているか等は露も考えず、彼が自分の知っているいつもの彼であることにだ
け、一通りの安堵をしたがるのだった。
信じて、期待することはもう無い。
だからこそいつもと変わらずにいられるのだと、毒づいた。
きちんと頭を下げてみせれば、もうこれ以上咎められることはない。
一つ頷いてから、踵を返し室を出ていく大きな背中を、今だからじっと見つめて
いる。
それでも、父を嫌いたくはなかった。
補足(反転)今更三人称
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