水差しの中身を変えたりだとか、燭台に火を燈したりだとか。
食事の運搬も勿論のこと普通は下女にやらせるような役目を、私は率先して行っ
た。それは直義との距離を詰めたいというよりも、彼の執事という私の肩書に対
する後ろめたさだ。
結果的にそれは他人との接触を嫌う直義には良いことであったのたが、彼の為、
という意識は持っていなかった。
膳を持って室に入る。
衣と袴を着終えた直義は縁側にいた。ぶらぶらと交互に揺れる足の先からは、跳
ねる水音がする。
不思議に思い後ろからそっと身を乗り出して伺うと、桶に水を張り、その中に足
を浸けているのが見えた。
いつにない行動だった。
「…暑い、ですか?」
声を絞り出して問い掛けてみると、「暑くない」と小さく答え首を振った。拗ね
るようなその動作と裏腹に、行儀よく膝の上に置かれたままの小さな手。 では何
故、と続ける前に、立ち上るような妙に冷たい鬼気と、それと背中合わせであろう儚さに鳥肌が立ってしまった。
直義のこういうところが苦手だ。それはきっと、私に限ったことではない。
何も言わず礼をして、
この小さな童の側を離れた。
下がれ、のたった一言でも。
この小さな主が私に何かを命じたことは、まだ一度も無かったのだから。
翌朝、なんと彼は熱の塊のようになって伏せっていた。喉を枯らしたのでは無く
、嘔吐きかけるな咳を繰り返しては苦しげに寝返りをうつ。流れ解れた髪は、容
赦無く日の光に透かされた焦げ茶色だ。
触れるのを躊躇い、頬にかかる数本を除けてやる事もしなかった。指を伸ばせば
、避けてそっぽを向かれる光景がありありと脳裏に浮かんだ。
苦しみを堪えるようにきつく閉めた瞼と、熱で上気した顔色は皮肉にも、いつも
より余程彼を生き生きと見せている。
溜息が漏れた。
何故こんなことに、と憤りかけたが、どうしようもないのだとすぐに思い返した
。彼が私の手に余っているという事実はむしろ気を軽くしてくれる。 しかし目の
前の小さな身体を心底案ぜずにはいられず、額の上の布をまた桶の水に浸した。
「入りますよ」
「あ、お願い致します」
昨日より少し早い刻に駆け付けてきた薬師は、袖を捲りあげながら直義の傍らに
座った。
額、はだけさせた胸元に手を当てる。そして深い溜息をついて私の方へ振り返っ
た。
「昨日、何か為されたのですか」
「え、…」
「お体を冷やされないよう、貴方はしっかり見ておられましたか」
「………」
向けられた叱るような視線に戸惑い、思わず身を引きかける。見ていたかと言わ
れれば何も答えられない。
だがいつも、私を遠ざけたがっているのは直義だ。近
寄らせないのは彼自身なのだ。
「…何時もとお変わりありませんでした」
「ならば致し方ない」
さっさと直義に向き直った薬師の後ろ頭には、うっすらと白髪が混じりこんでい
る。後ろからただ静かに目の前の光景を見つめているうちに、傍らの桶でふと昨
日のことに気付いたのだが今更何も言えなかった。
ならばそれこそ、私ではどうしようもないことだ
「…おや、直義様」
名を呼んだ薬師の声に、直義の傍へともう一度近付き、立ったまま見下ろす。 直
義は文字通り熱に浮かされた瞳をくるりと泳がせて、薬を煎じ始めた男とその手
元をじっと見た。
視線に気付いた薬師は、手を止めず優しく笑い返す。
「大丈夫ですよ。お任せください。これがわたくしの領分ですから」
その言葉に、直義は幸せそうに笑った。満足したよう、でもあるその笑顔を見た
とき、稲妻のようにあの言葉が巡った。
『患ってもいない』
嗚呼、
まさか
『辛いでしょうに』
……そのために?
「朱は、…夏。」
「ああ、成る程。そうなるとこの白は、秋に見立てられたのですか?」
枕元に並べられた一組の折り鶴の片方を示し、薬師が問い掛ける。
治療、の甲斐あって翌日小康を取り戻した直義は、前より幾分か気を許した様子
で彼と言葉を交わしだした。
「…それは秋ではなく、雪です」
「夏に雪、か。…これまた厳しい題ですね」
支度を纏め、出ていく男を今日は追い掛ける。一言礼を言わねば、というのは素
直な想いだった。
「昨日は」
「いやいや、そのための御用立てなれば」
礼を述べようとするのを男は笑って遮った。その言葉に内心ちくりと痛みが走っ
たが、ただ真剣に頭を下げた。
「あのような歳で…。お一人でいらっしゃるというのは不憫ですな」
「そう、かもしれません。………ですが本領に帰れば、兄君がいらっしゃいます
」
心から直義を案じてくれている様子にいたたまれなくなり、その場の流れでふと
高氏のことを出してしまった。
薬師は合点したように頷き、そういえば父の貞氏からもそのような話を聞いたか
もしれないと返す。
「……まさか。ですがあの詩は・・・・・、直義様に適ではないでしょう」
何故か照れたように笑って踵を返しかけた彼に、私は妙に慌てて声をかける。
何かを、知ることが出来る気がする。
「どのような詩なのですか」
男は振り返り、そしてはっきりとした声で告げた。
「『上邪』、を引いてみなさい」
『辛い』のは直義自身を含めたことだ。
そんな当たり前のことに、彼相手では中々気付けない。
彼が齢十を数えてからやっと、執事という「他人」の存在を許したということは
、足利からも高からも予め知らされていたことだった。
許されたのはそれこそ存在、だけであり私自身ではない。
彼が様々な形でその事実を示してくることに、頭を抱えることは数え切れない。
…なのに、
いや、だからこそ、直義の中には推し量ることが出来ない程の痛みと、そして優
しさが積み上げられていること。
それもまた示される事実だ。
埃塗れになって書庫に潜り込み、やっとのことで引っ張り出してきた巻を拡げる
。
手元の燭で紙面を照らせば、かび臭い香と共に闇に文字が浮かび上がった。
『夏へ雪を雨らせ天地合せば、乃ち敢えて君と絶えん』
繋ぎ止めている想い、
誓い。
堅者の答に、彼は頷くだろうか。
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