「嘉一、これでどうだ?」
「…は、…」

「お前も随分強くなったのにな、」
「…憲顕様、」

恨めしげにこちらを見た嘉一に、ひらひらと手を振ってみせる。
前のめりになってまた碁盤を睨み付けた相手の、頭のてっぺんが見えた。

「ゆっくり考えろ」

言いながらそのまま後ろに寝そべる。大きな欠伸が出た。

「憲顕様、」
「小言は聞かぬ」
「……は」

小姓との碁遊びもそろそろ飽きがきている。
ぐっと足を延ばすと、踵が碁盤を蹴り飛ばしてしまった。散った碁石ががちゃりと音を鳴らす。

「…ぁ」
「む、悪い悪い」

寝転がったままからからと笑う。碁盤がずいとどかされる気配がした。

「すまん、この勝負は無しになってしまった」
「それはよろしいですが…」

つかれた大きな溜息にゆるゆると身を起こす。
大げさに散らばった碁石を拾う手を止めて、嘉一はきつく眉根を寄せた。

「…よろしいのですか」
「何がだ?」

聞き返しつつも意味は知れていた。黙って見返された視線が、些か煩わしい。

「…世が動いている、というのだろう?」
「おわかりでしたら…」
「ふ、成り上がる良い機会か」
「またそのようなことを」

冗談だ、と苦笑する。刺はないつもり、だった。

「何が不満だ?別に自堕落にしてるわけでもない。」

拾った碁石を一つを投げ上げる。

「ですが、憲房様は御多忙故手が回らぬ程だと」
「…何かやれといわれればやるさ。ただ私からは何もやらぬ」

軽く向こうに放った石は、こつんと嘉一の肩に当たった。

「わかるか嘉一、私が何もせずとも、世は動くということだ。ならばそれに任せればいい」

「…憲顕様」
「珍しいな。普段は何も言わんくせに」

指先で除けた前髪の遠くには、いつになく真剣な顔がある。

「近ごろの憲房様を拝見するがゆえにございます」
「ほう、そうか。今はこちらに戻っているのだな。私は全く見かけぬ」

そう言ってやると、嘉一はぐっと黙った。

「まあいい。もう下がれ。付き合わせて悪かった」

「…は」

碁盤と石を隅に片付けると、深々と頭を下げてから室を出ていく。
わざときつい視線を、残していったのは知っている。

戸を締めた後の静けさが、今宵は妙に窮屈だ。ゆっくりと立ち上がって庭に面した奧へと移る。
傍にはいつもと同じ位置に酒と杯があった。手を伸ばして盆を引き寄せると、中身はまだ少し残っている。
銚子にそのまま口をつける。少し口の端から垂れた一筋を舌で舐め取った。
熱い息をつく。



妻もいるし、嫡子もいる。ついでに言えば側室もいたし、その間に子も生まれるという。
役目をさぼっているわけではない。
といっても自分は、何を任されるでもなくこうして丹波の本領に居座っているだけといえばそれまでだ。

それが無気力だとでもいうのだろう。冷めきって世の流れに浮いている、とでも嘉一は言いたげだった。
だが私にしてみれば、浮かれているのは周りの方だと思っている。
私の周りの全てが、勝手に膨らみすぎているのだ。

元をたどれば上杉は公家の一族だった。
それが摂家将軍、宗尊親王が鎌倉に東下し将軍となる時に供として従い、武士としての家名を手に入れた。
そしてそれはほんの、父の祖父の代での出来事というのだから飛んだ『成り上がり』である。
外戚の足利などとは、そもそも血の質も歴史も違うのだ。

武家の名家と血の繋がりを結び
絶大な信頼を得ていく父
そしてその恩恵は、とどまることを知らぬ。
公家贔屓の帝の新政にも、父は重石として名を連ねていた。

別に嫌悪も羨望もない。
ただ父は有能で『それだけ』のことだ。


引っ繰り返してみたところで、もう中身は空だ。たいした足しにも、ならなかった。






「お目覚めですか、憲顕様」
「………あぁ」

戸の向こうから呼び掛ける声に漫然と体を起こす。
明るい障子越しの光から察するに、もう時刻は昼に近い。

「なんだ?」
首を回しながら尋ねる。

「憲房様がお呼びでございます」

「…あぁ?」

とぼけた声を出せば、嘉一は語気を鋭くしてもう一度繰り返した。

「憲房様がお呼びでございます!」

「…ふうん」

現実味が薄い。自分は相当寝惚けているのだと頬を触った。

「すぐにご支度をなされませ」
「……」
「憲顕様、」
「……」

「失礼いたします!」

痺れを切らした嘉一がとうとう戸を開けた。
否が応にも目が合う。

「水でも汲んでまいりましょうか。お顔を洗えば目も醒めましょう」

「……いや、…今起きる」

のそりと床を出たそばから、嘉一はさっさと床を片付けはじめる。

「お着替えはここに」
「…ああ」

「お待たせしてはいけません」
「ふむ」

父が絡むと周りは途端口うるさくなる。正直それは鬱陶しい。

「…嘉一」
「は」

「酒を足しとけ」

室を出ようとしたところに盆を押しつける。嘉一は黙ったまま、一つ礼をして受け取った。


支度を整え、父の室へと向かう。何の生活感もない室だ。
本領といえど滅多にここには戻らない。

その室の前で膝をつく。

「ご用件を伺いに参りました、…憲顕にございます」
「入れ」
「失礼します」

静かに戸を開け、体を入れてから丁寧に閉める。もはや反射のようなものだ。
父は礼儀にだけは煩い。こうしておけば余計な問題が起きぬことを、体が覚えている。
少し離れた正面に腰を下ろして、前の父を伺った。

「こちらにお戻りでしたか」
「少しだけな」

綺麗に手入れされた髭を、一度手先で撫でる。
その度にこの人は、何を考えているのかとふと思う。

「お前に用がある」
「…何でしょう」

「心当たりはあるか?」
「いえ、特になにも」

視線で先を促したが、父はちらりと笑っただけだった。

「京がどの様か知っているか」
「…六波羅が滅びました」
「ああ」

その時の戦には自分は然程関わってはいない。
弟の重能は使者として、忙しそうにあちこち走り回っていたそうだが。

「そして、後醍醐帝の世になりました」
父は黙って、ただ頷いた。

「しかしそれに不満を抱くものは多いそうで、…六条河原の落書きは見物でしたね」
肩を竦ませて言うと、呆れたように笑い返される。
「…見たか」
「ええ。写しですが」

「そこまでわかっておればそれでよい」

ふと視線を外して目を細める。その深みに、父も歳を取ったと今更に思った。

いつもより表情が柔らかい気がする。
ただ久しぶりに見たせいなのかもしれないが、それはそれで不思議だった。


「酒を飲むか」

至極自然に切り出されたそれは、だが唐突だ。

「…お持ち致しましょう」
腰を上げかけると、父は一度首を横に振って顎で縁側を差した。
そこには銚子と、二つの杯がある。黙ってそちらに移った父に続いて自分も腰を下ろす。


知っている庭だ。
何の感慨もない。だがこの室から眺めるのは新鮮ではあった。

…父は酒好きだが、昼には決して飲まない人だ。


「楽にしろ」

言われて遠慮なく胡床をかく。父も似たような格好をしていた。

「珍しいですね」

酒を継ごうと手を伸ばす前に、とうに二つの杯は満たされている。

「飲め」

「…では有り難く。」

一口で飲み干す。良い酒であることは舌でわかった。

「美酒ですね」
「ああ」

黙ってしばらくその感触を味わう。その静けさは、気まずいものではなかった。
もしかしたら父はすでに、何杯か飲んでいたのかもしれない。
こちらに向けられた頬を見やりながら、何となくそう思う。

父はおもむろに、口を開いた。

「この地が好きか」
「…住みよいとは思います」
「何故だ?」

「都に、近いようで遠い」
「…ほう?」

「傾れ込んでくるのは、つまらぬ噂のみです」
「そうだな」

父は私に何も言わない。
だが理由を、時には答えずらいような問いを投げてくることがある。そしてそういう時に口籠もることは逆効果だ。
愚かでも誤りでも、さっさと思ったまま言ってしまったほうがいい。


「憲顕」
「はい」

酒を継いでいた銚子を置く。杯を右手に持ち直してから父の横顔を伺った。

「もうここを出ろ」
「…は?」

「鎌倉に行け」

至極あっさりと言われたこれは命令なのだろう。
そう遠く考えながら舌の先だけで酒を舐める。

「何でですか」
「行けばわかることだ」

急にこちらに流された視線は思いの外鋭い。
返事をしない自分を見つめたまま、父はぐいと酒を呷って杯を置いた。

「遠いままではいられないと仰るのですか」
「…察しがいいな」

何となく杯の方へと視線を落とす。こういう父と向き合うのは、苦手というより面倒だった。

「…承知しました。別に構いません」

安堵とは違う小さなため息が聞こえる。
少し極まり悪くなって、自分も杯を空にした。

熱はただ忠実に喉を下りていく。
一瞬の心地よさ
この場でそれ以外の効果は期待できない。


「お前の従兄弟がいるだろう」
「…何やらたくさんおりますね」

愛敬なく答えれば、何故か父はふと笑う。

「足利の御曹司だ」
「ああ」

苦笑が漏れる。ご執心ぶりに対しては、何も言うことはない。

「高氏様…とやらですか?」

口元でにやりと笑いながら言ってやると、ほんの少しだけその余裕が揺れた。

「その弟君だ」
「何かありました?」

「直義さまが鎌倉に下る。成良親王を奉じて」
「そうですか」

思わずくつくつと笑う。相手は柄にもなく、あからさまに嫌そうな顔をした。

「お会いすればよろしいですか」
「…鎌倉に着いてからでいい」

彼らにこの父は、一体どのように映っているのだろう。
嫉妬とはほど遠いこの感情を持つとき、私は不思議と父に親しみを覚えるのだ。

…素っ気ない、結局は無関係だ。
何度そう思ったかは知れないが、それはそれで良かった。

そっと父の杯に酒を注ぐ。

黙ってそれを眺める父の表情は、やはり少し優しいものに見えた。



「お前を気掛かりに思ったことはない」

ぽつりと言われた言葉。
ただそれに自分は何も答えない。

父は私に何も語らなかった。
だから私も何も返さない。


…だが今日は、ほんの一言だけ続きがあった。




「誉め言葉だ、憲顕」

「……知っていますよ」


そっと目を閉じる。

熱はただ忠実に喉を下りていく。
一瞬の心地よさ
この場でそれ以外の効果は期待できない。


杯をぐっと握りなおす。


…私は父に似て、つくづく酒が好きだ。