……見るとはなしに視線を落とせば、広げられた懐紙の白が矢鱈と冴え冴えとした色で目 に飛び込み、思わず小さく息をのんだ。這わせる様に視線を逃がし、己の足先へと向け る。 また微かな音がして堅いものを砕く其の衝撃が、じわりと空に滲む。置き場の無い身を持 て余し、つい目の前の男を睨めあげれば、男…憲顕、は伏し目がちだったその視線で寧ろ 訝しむようにこちらを見返してきた。それを追う様にして憲顕の側に付いて、鈍く光るそ の器具を器用に操っていた青年がちらりと気遣わしげな視線を寄越す。

微かに震える音が何かを殺ぎ落としていく感覚に、小さく眉を寄せた。苛立ちというより は実際恐怖に近い、追い詰められた感情が沸き起こり呻くように(囁くよう、に)名を呼 べば漸く彼は乱れた髪を掻きあげてこちらをますぐに見た。

「尊氏どの…それで、此度は何の御用でのお運びで?」

常の様にどこか揶揄かうように乗せられた声には、だが純粋な驚きの色が滲んでいて思わ ず首を垂らすその勢いで視線を逸らした。童の様に頬が熱くなるのが分かり、余りの醜態 にいっそ怒鳴り散らしたい衝動に駆られた。

ぱちり、と乾いた音がしてまた小さな欠片がその白の上に落ちる。鈍い金属の光をぼんや りと見つめて、何かしらの拒絶の強さに酷い吐き気を覚えた。
背を伝う悪気にまたも男の名を呼びかけて、嗚呼これではまるで怒りではなく哀しみの様 だとどこか遠くに思った。



***


「‥続きは、後に致しましょう、憲顕様」

その声を聞いて、視線を尊氏から離した。嘉一は突然の客人が気になって仕方がないらし く、急かすような視線を何度も向けてくる。 驚いたのは無論私も同じだったが、だからと言って常にはない対応もするのも却って馬鹿 らしい。

「後一本だ」

はい、と答える声は明瞭ではなかった。 だが生返事になっても致し方ないこの状況では落ち着いている。嘉一は単に慣れているに 過ぎないのだが、このような些細なことが尊氏にどう映るのかは保証がない。 戸の前に立つ彼から伺える動揺は、幼稚と言うには難解でまた少し感情的過ぎた。

最後の一つが切り揃えられてから、顔を上げる。

「ああ、失礼。見苦しいところをお見せ致しました」

案の定、尊氏の気配は何も緩まなかった。 嘉一はさっさと紙を畳んで立ち上がると、まだ敷いたままであった床に手を掛ける。 礼を欠いた室の有様に今更気付きながら、どうして彼とはこうも巡り合わせが悪いのだろ うかと苦笑した。

いっそ愉快にすら思えてくるのは、己の悪い癖なのだが。


***


熱を持つ頬に指を這わせようとして、のろのろと片腕を持ち上げた。或いは無意識の動作 だったのかもしれないが、指先が顔に触れた刹那其れを止める気は自分に無かったのは確 かだったからどちらにしても変わりのないことではあった。(その動作が酷い幼いもので あることは分かっていたのだけれども)

稚拙に瞼に描かれた白が、未だに(実際視界から消えた今、だというのに)明滅する弱々 しさで頭を叩いた。つい凝っと見詰めた先が、他ならぬ今し方整えられたばかりの指先で あることに気付き、まるで惨めたらしい懇願(若しくは陳謝)を行う体裁だと投げやりに 思考を積んだ。馬鹿馬鹿しくそして呆れた自虐だ。形式的に己を詰ってみてだがそれで も、矢張り怒りのようなものはどうにも浮かんでこなかった。

「……尊氏どの?」

猜疑というよりは飽くまでも純粋な疑問を問いかける声色で、憲顕は呼んだ。反射的に思 いの外平たい声で、口先から返答が漏れるのを感じてどうしようのない不安に駆られた。

何故だか分からない。よりによってこの男の前で、先程から自分は己を保つことに悉く失 敗している。其れも憲顕自身は寧ろ常よりも態度が柔らかいのに、だ。

「憲、顕」
「…あぁ、」

憲顕はさらりと横の青年に視線を流して、辛うじてそうと分かる程度に目配せした。雑然 とした室内を手慣れた様子で整えていた彼は、其れに気付くと姿勢を正して此方に一度礼 をした。そうして此方(詰まるところはこの室の出口、)に足を向けたのを見て憲顕がそ ういった欲求を自分がしているものだと誤解したことに気付いた。 名を呼んだのは別段意味があった訳ではなかった。ただ酷い吐き気と怒りにもなり得ない 感情が、口をついて目の前の男を呼んだだけだった。

「いや、その…」

退室しようとする青年を留めようとして、暫し途方に暮れる。憲顕と話、をするならば席 を外して貰ったほうがいいに決まっているのだが、今目の前の男と自分だけで残されるの は何故か酷く怖かった。

白いひとかけらの爪が、取り残されたように畳の上で光るのを何故かはっきりと見ること が出来た。憲顕が擦りあわせるようにして、恐らくは削がれたばかりの感触の残る爪先を 指の腹で撫でているのを見ながら、踏み込んだ此処が余りに生々しく自分を犯しているこ とを強く感じた。

負ける、だとかわざとらしく紡いでみたものの哀しみのような当て所なさは消えるどころ か強まるばかりなのだ。



(そしてそんな自分よりわかりやすく途方に暮れた様子の青年に、最早いっそ室から蹴り だしてくれればいいとさえ)