「…直義、」

呟いた名はただその場に散り、紡ぐ声があの瞳を開かせることはなかった。

「…」

どくりと一つ鼓動が高く鳴る。昏々と眠り続ける直義の顔に手を伸ばして、そっとそのこ めかみを撫でれば伝う汗が掌に吸い付き、じっとりとした感触を何処か遠くに感じさせ た。 少しばかり残酷な気分になってもいた。それに、静謐のような拒絶を受け入れる気もな い。 するりと指を伝わせて、病に削がれた顎に手をかける。

「直義」

命じるだけの強さを籠めてもう一度だけ名を呼ぶ。じっと見据えれば、震えるように戦慄 いた睫がそっと持ち上がりうっすらと宝玉の光が覗いた。

「……あ…にうえ」
「直義」

笑い掛けるようにしてやりながら、両脇に腕をついてそっと乱れた髪を撫でつけてやる。 力の籠もらぬ瞳は、ただ従順に自分を写し、揺れる灯りを弾いた。

「……」

今のうちだ、と言っていた。あの侵入を許す気などないのに。
酷く甘くきこえる声がある。 追い縋るその甘さを手放さずに

「お前は……」
「……?…うえ?」

少しばかり傾いたその視線で、直義はそっと自分を見上げていた。 一つ首を振ってから、直義の瞳を撫でて閉じさせてやる。

「いい、済まなかった」
「…?……」

ざわめくこの感情は焦りでは無い。怒り、憎悪でもありはしない。 そんな乾いたもので、ありはしないのだから

「……直義」

焦がれる純情さに似て、思うその指針に偽りは無い。ただ水面を揺らしたものの正体を、 知り得るのが自分だけがゆえに。

お前は、 俺を――

乾いた唇をそっと舐める。錆びた鉄の味がじわりと口の中に広がり、閉じさせた瞳が此方 を見上げるその色が何故だか背をそろりと撫ぜた。

規則正しい寝息が響き、そっと溜め息を吐く。顔色も一時期のそれよりはかなり良くなっ ている。快方に向かっているという薬師の言葉は偽りでは無かったのだろう。 片膝をたててそのまま桟に背を預けて座りこむ。ただ室の中央の直義から、視線を外しは せずに拒否した筈のその静寂に浸った。

ただ静かに閉じられた瞳。未だに自分に向けられているそれを確かめずにはいられなかっ たのは、少しばかりの当てつけも確かにあったかもしれない。 ただ、為されるままに己が姿を写す其処は、それ故にあの子をも容易にその内にいれるの だろう。

課した呪いは間違いなく己が過去だ。 紡いだ戒めを、あの子に与えたことを忘れはしない。

甘い声。 自分を、呼ぶただひとつ
だからこそ試してみたい。
それでもその行為は間違いなく直義自身をも試すことになるのだ。

此方を向き直る、あの苛烈な瞳。恐らくは鏡写しのそれよりもあからさまな投影に、だが手を掲げて 引き寄せる存在としての直義は、その鏡に映ることがない。

引き寄せて己が腕の中に閉じ込めたとしても

直義には
直義だから
分からぬに違いない

自分が、そしてあの子が欲する全て 重なりあうようで、全くもって異種のそれを

得るものを、求めているのではない だからこそ自分は全てを得ることが出来たのだから



泳がせる様に宙に浮かせた手を、その身に向けるよりも前に下ろす。日の差し込む室の中 は、曖昧な光に包まれてその見せかけの平穏に浸っていた。

静謐が直義を包むのならば、犯すその過ちを通しきればいい

過ち
自分は選びとろうとしている

失うことで得るものと、 得ることを失えずに、失うものを 秤に掛けて

餓えるそのままに

「……」

直義、と名を呼んで
閉じ込めたその罪を再び犯すのだとしても。

それでも口をつくのはただひとつの名

知らされているのかもしれない
……繋ぎとめているのは、きっと自分ではないのだろうと