もしも、もしもやり直せるとしたならば
もう間違わずに、すむのだろうか
間違ってしまわずにすむのだろうか
もしもそんなことが
……出来たなら?
「…え、兄上」
「あ?直義…?」
身を起こしてゆっくりと目を瞬かせる。ぼんやりと朝陽に染め上がった室で、こちらをの
ぞき込むのは見慣れた姿だった。
「う…ん?」
軋む体を伸ばして首を振る。覚醒しきらぬ体は少しだるいが、そうすれば少し視界が明瞭
になった。
「…兄上…そのままお眠りになったんですか」
向き直った直義は少し眉を潜めて、掛け衣を手渡してくる。肩にそれを引っ掛けてから、
辺りを見渡せばそこは酷い有り様だった。散らばった書簡は絡み合っているし、打ち捨て
た紙や衣がそのままになっている。今し方まで自分が突っ伏していた床机だって、お世辞
にも綺麗とは言い難い。机の上の墨が滲んだ書に嫌な予感がして頬を拭えば、ぱらぱらと
乾いた墨が剥がれ落ちた。
「……とんだ間抜け面だろう」
「ふふ…綺麗に黒い線になってます」
こっち向いて下さい、と言って直義は濡れた巾を手に取る。ひんやりとした感触が目覚め
きれぬ体には心地よく、少し目を眇めた。
―…気持ちが、いい。
どこまでも穏やかな空気に小さく息を吐く。それに一瞬添えられた手が動きを止めたのは
分かっていたが、そのまま黙っていた。
「……はい、兄上。綺麗になりましたよ」
「ん、悪いな」
極自然に外された手を視線で追いかけて、すんでのところで止める。一瞬で為された行動
は外に漏れることは無かっただろうが、吐き捨てた息に苦みを感じたのはきっと気のせい
ではなかった。
「…直義、」
「兄上…」
真正面から見つめた瞳には自分の影が映りこんでいる。きっと直義も自分の瞳に己が姿を
見いだしているのだろうと思えば、少しだけ気分が凪いだ。
座ったまま無造作に手を伸ばして直義の首の後ろをぐいと引く。引き寄せた襟元に顔を埋
めて擦り付けるようにすれば、直義は少し戸惑った声で呼び掛けてきた。
「…兄上、寝ぼけて、らっしゃるんですか?」
「……あぁ、そうだな…そう、俺は…」
先を告げることはせずにそのまま伝わる熱に寄り添う。そっと添えられた手はどうしても
優しくて、暖かい。
…なのにきつく抱き締めてしまえない、ことを分かっていた。
「……もう、朝餉を頂きませんと、お仕事に間に合いませんよ?」
「…直義はもう食べたのか?」
「………ええ…まあ、」
曖昧に濁された笑みに、嘘をつくな、と言ってしまえばいい。
「…そうか、俺…は、いらん」
なのに実際に唇を震わした言葉は力なく響く。馬鹿みたいに張りの無い言葉にしかしそれ
でも直義は何も言わなかった。
引き寄せた体に半ば縋るように身を預ける。拭われた頬に熱を感じてきつく目を閉じた。
寄り添った熱
穏やかに優しく
…そしてそれだけしか残っていないのだと分かって、いた。
夏は疾うに過ぎたとはいえ、天頂に輝く日は未だに確かな力を持っていた。木々がその葉
を鮮やかな彩に染めきるのには少しだけ早いこの時期、開け放った縁側から吹く風は灼く
熱と漂う冷気の入り混じる不思議な色を帯びる。なぶるそれに目を細めれば、舞いあがっ
た葉が小さく渦を巻くのが酷くはっきりと見えた。
「……尊氏さま、こちらが台帳の控えになっております」
「…ああ」
かかる声に机の上で山積みになった書簡を脇によけて、差し出された綴りを受け取る。
ざっと目を通して顔を上げれば、かちあった視線にほんの少しだけ目端が強張ったのがわ
かった。
「師直…」
「尊氏さま、そこの」
遮る口調は有無を言わさずに言葉を断ち切る。ごく自然に書簡へと伏せられた視線は、ど
こか帯びた陰りを引いていた。
「…師…」
反射的に上げかけた声を呑み込んで、苦いものをやり過ごす。不自然な静けさが零れ落ち
るのをどこか遠く感じた。
手に残るものを量り、失うものを計る。
もうこんな日々が始まってから、どれだけの時がたつのであろうか。
幕府の体裁が整えられて、長の時が経った。立て続けに起こっていた戦も京からは遠くそ
してそれ自体の数も少なくなり、机上の制度として整えられたそれらは漸く実を伴うよう
になっていた。そう、ようやくその軌道を走り出したこの状況。
ただ一つ憂えるは、走り出した車の轡が音をたてて軋む様、強すぎる光輝の落とす影はど
れだけの濃さで在るのだろうかと。
軌道に乗り始めたこの自らの全て。
―…師直と直義がお互いの間に何処か一線を画すようになったのは、それからだったの
だ。
始まりは恐らく些細なこと。師直が自分のある種の甘さを責める様な言動を取るのは別段
珍しいことではなかったし、直義は政に関しては至極割り切った考え方を取るのが常だっ
た。それはそれこそ自分にも、直義自身に対してもそうであったから疑う余地などは無
かった、と言ってもいい。
それでもその双つは何時しか確かにある一線を越えた。原因など、あげようと思えば今か
らなら幾らでも見当たる。それこそ許されぬ事ながら、刻み込まれた幼き日々にまで罪深
い追及を犯してでも、幾らでも。
しかし気付いていた
知って、いた
そんな理由付けに何の意味など持たせ様が無い。自分の鼎を担う相手を知らないでいれる
程に、愚かしくあれはしなかったのだ。
自身を捧げる為の、代え難い半身
そしてその自分に捧げられる全て
喩え選択を放棄することが、その両方をもを喪うことになるのだと痛い程に知っていたの
だとしても
選びとれる筈がない
自分はある時まで確かに全てを手にしていたのだから。
難癖を付けるようにして、書簡の山を師直に押し付けて室を抜け出す。以前まではそれこ
そ遊技の一種が如き趣さえあったその行為にしても、今となっては単なる逃避以上のもの
では有り得なくなっていた。何処か安堵の色さえ滲ませた師直の反応が否が応でもそのこ
とを刻み込む。
いっそ憤り責めればいい、そう以前までの、様に
「……っは、」
嘲る、それそのものに咲が零れ落ちる。全く巫戯気た言い種だ。逃げるだけ逃げておい
て、自分はどこまで卑怯になれるというのだ。弱音などという奇麗事で済む類のことでな
いのは何より一番自分が知っていた。
歩んでいた白木の廊に設けられた低い手摺を軽く飛び越え、直に庭の黒々とした地を踏み
しめる。日の当たるその場はそれでもじっとりと湿り冷たかった。足先に掠めた落ち葉の
欠片を衣の裾をからげて蹴り飛ばす。だが、葉は先刻見た様に鮮やかに渦を描くこともな
く、ただ力なくはらはらと落ちていった。
苛立ちにも似た焦燥は確かに沸き起こってくるのに、それに勝るは酷く冷えたこの感情。
ただ一枚の葉の軌跡すら意にならぬ自分が、それでも確かに手の内にする術。
止められるのは
止めねばならないのは
原因など最早必要ない、争う理由さえ直載には自分には大した事ではない。ただ他でもな
いその二人だから、それだけで何の不足があろう?
逃げを打つ焦り、選択を棄てる苛立ち。
それでも勝るそれに全てを浚われる。
「……本当は…」
滴り落ちる重さに、消えいく様に冷えた地面へと零れた声が吸い込まれていく。静寂と言
うには煩わしい晴天が、誇示する不遜で立ち尽くした己が背を叩いた。
灼く激情を透かしてただ只管単調に思考が空回る。どこか己が支配の及ばない範囲の冷淡
さを以て半端な彩で犇めく木々の合間を抜けていけば、突き当たった塀がある種異様な唐
突さであった。
過る一抹の願望
冀うその微かな、慾
暫し躊躇うだけの通過儀礼をこなし、屈めた裾を絡めぬ様に力の限りに足元を蹴りつけ
た。
――これ以上を望んだ刹那、なにもかもを喪う予感がするのだ
大通りとはいえ、京のこの地では顔を知る者に出会さないとは限らない。なるべく視線を
伏せて、進む歩調を落とさずに路を抜けていく。
館を抜けてきた、そしてけして自分に向かって閉ざされたことのない門の前をそのまま通
り過ぎる。
一度たりとて拒まれたことがない、至極近くに据えられた場。訪ねられぬ訳だって付けよ
うと思えば付けられた。自分があの息子を避けている事を隠したことはないのだから、大
した形式などは必要なかろう。
しかしそれでも、自分は確かに何時しかこの門を潜るに理由付けを欲するようになった。
ただ会いたいというそれだけで幾らでも抜けられる門を、通ることが出来ない。その為だ
けに得たと言っても決して間違いなどでない己が責務が、翻るようにその行為を阻んだ。
思えば廊で繋がったそこに態々外を回るという必要性などなかった。自分が形式を整えて
その門をくぐったのは確かに数える程の事だ。
それ故の縁遠さ、しかしそのある強いられる門構えを通る形式には確かな意思が付随し
た。
繋がる廊の真中で、足を止めねばならぬその痛みに較べればその意思の重みなど全く取る
に足らぬ。
閉ざされぬ故に
歩みを止める苦しみを
知りたくなどなかったのに
募る思慕はそれこそ涯を知らぬが。強張る笑みを、他でもない直義に隠せる術など自分に
はないのだ。
―…兄上、と。自分を揺り起こす声はかわらずに優しい。
縋りついた体躯だって、拒む素振りすらみせたことはなかった。
朝陽の差す室で縋るだけの限られた温もり。何時しかその限られた時を代え難いものと暗
黙の約定を交わす。
……いつから、こんなことを始めたのかもう定かではない。ただ目覚めた、朝日のとろり
と盈ちるその空間を耐え難いと思う様になったのは、そう最近のことでは無かった。そし
て自分の事を一番に察するのはいつだって直義だったのだから。
重苦しくまとわりつくものを、直義はひっそりと取り払った。その手を自ら伸べてこの身
に触れた直義に、縋りついたのは自分だった。
大通りの喧騒に浮かれた様に足を進める。
店を飛び交う掛け声、馬の、車の走る響き。相も変わらず突き抜ける晴天は、道端の巻き
上がる埃までをもくっきりと照らし出して、道行く人の影を落とした。
どこか潮騒に似たざわめきが耳朶を満たし、足元に踏みしめる堅さを忘れる程に軽やかに
歩は進む。頬を撫ぜる熱、沸き起こる寸前の愉悦にひっそりと息を吐く。
何も考えたく、ない
全てを投げ出す短慮を、今だけは許される。
こうして無闇に人の流れに身を浸すことが、今は心地良かった。
けして朝に強くもない直義が、そして他でもない誰に朝を早めて貰う事を頼むのか知って
いた。
縋りつく腕
伝わる僅かな熱
そんなものの残りを計って、しまっているのだと
「……っ、」
吐き出したいものは酷く熱く渦巻くのに、漏れた息には微かに空気を震わせる力すら無
かった。
無邪気な残酷さを覗かせる人の流れに、この身全てを埋没させる。
浮かぶ笑顔
誓いそめし絶対
己を縛る全て
熱
「……る、し」
ままならぬのはただ息を吸うそれだけでない。
滲む視界はそれでも揺らぐだけの優しさを与えはしなかった。
全てを塗り潰し、消し去ればこの喉の鳴ることも無くなるやもしれぬと。
それは期待ではなく願望でも、ましてや希望などでは有りはしないのに。
もしも、もしも全てをやり直せたならば
自分はもう間違わずにすむのだろうか?
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