歩み寄り近付けた頭に、義父上は一歩後ずさった。

「見てください。ほら、背が並びました」

ああ、と感嘆して徐徐に緩んでいく、その笑顔を見た。

「本当だ。いつのまにか大きくなったね…でも、私は少し複雑かな」
「そうですか?」
「皆に見下ろされる」

義父上は冗談ぽく拗ねてみせる。

「いいじゃないですか。だからと言って何も変わりません」
「だといいけど」


逸らした視線を上手く隠して、水桶の前にしゃがむ。毎朝義父上の寝起きのために、私が 汲んで用意しておくものだ。複雑な表情を傾けたまま手首までを丁寧に洗うと、やっと両 手で掬った水に顔をつけた。胸騒ぎがした。
何か間違っただろうか。

「もっと伸びるよ、直冬なら」
「…義父上?」

「……、いや、…ごめん」



なんだ、そういうことか
あいつに似てきたとでも思ったのだろうか

真っ白な、残酷さ
空白に傷つけられるのは慣れた。今怒りを感じたとしても、本当は間違いではないのだろ う。でももしも私がそんな感情を持ったら、たぶん得てきたもの全てが無駄になると思う のだ。

(くだらない)

なにをしているんだろう

欲しいのはたぶん、自分の為の痛み






とにかく一人になりたかった。
まめに換気はしているつもりなのに。
暗く湿った書庫の中で、何も考えずに書の束を片付けている。屋敷の中なのに倉みたいな 場所だ。つもった埃が指先でざらざらと擦れて、たまにむせるような匂いを舞い立てた。 ここもそのうち綺麗にしておかねばならない。

その時、戸が開き、急に光が差してきた。

「ああいた、若様」
「何?」

短く答えた私を見下ろす重能は一寸妙に冷めた視線を投げたが、いつもの捌けた口調で 言った。


「今日は尊氏がこっちに来るみたいです」
「、そう」
「じゃあ、それだけなんで」

「重能殿」
「はい」

「教えてくれて有難う」
「いえ、どう致しまして」

彼は微笑みを浮かべてすぐに戸から離れた。私に気を遣って知らせてくれたに違いないの だが、あまりそういう態度をしない。彼は優秀だ。私は私で何か共犯のような、一種の親 しみを持っている。

似たものをもっているからだろう。


ここにある紙束の総てをぶちまけて、ばらばらと上から降らしてみたりしたら、少しは気 が晴れるのかもしれない。だけど臆病で、ぎこちないままの私は結局こうして逆のことを しているのだ。
それも、あの人の為になることだけを無意識に選んで。

舞う埃が、僅かに差し込んだ光を反射して白く、時に光りながら目の前を落ちていく。 この瞬間窒息死してしまいそうだと思いながら、喘いで息を吸い込んだ。


「…これじゃあ餌なんて取れない」

室の角に張られた小さな蜘蛛の巣が、埃ばかりを引っ掛けた灰色の厚雲のようになってい るのを見つけた。細く厚く張り巡らされた糸ほど、汚いものをよく引っ掛ける。主人たる 蜘蛛ももう住んではいない。

愛おしむ為に指先で触れてみたが、つい引っ掻き破ってしまった。何かぶちぶちと私を繋 いでいたものも切れた気がして、自分の体を壁に寄せる。
暗く息苦しい室の隅で両膝を抱えて蹲る私は、相変わらず惨めったらしい。



(よく似合ってるよ)


頭の中で誰かが囁いてくれたのにつられて、少し笑った。






やがて書庫から這い出て廊を横切り、庭におりる。井戸があるからだ。 手桶で水を汲み上げ手拭いを浸せば、映る水の中に意識が引き寄せられた。 朝のあの光景を、追い掛けている。

会ったばかりの頃よりも私は臆病になった。
奪われることに過敏になった。たぶんある程度、あの人が私の思うとおりになってくれる から。



顔を洗い、衣を脱がぬまま拭える場所を清めていく。腕と、首筋。本当は髪も洗いたい。 綺麗でないと嫌われてしまう。



「直冬様」



真後ろの低いところで、声がした。

「直冬様、またお会いできましたね。嬉しいです、奇跡みたい!」

茫然としながら、でも身体だけは反射で振り返る。言葉は出なかった。

「今日は、父上のご用事に付いてきたんです。でも、叔父上とお話しているといつも中々 終わらないから、お外に出てきちゃいました。良かった!」

目を輝かした彼からこんなにもずらずらと喋るのは、彼は随分と前から私に気付いて、 こっそり近付いてきたからだろう。

「あれ、でも叔父上のお屋敷にいらっしゃるってことは、直冬様はこちらでお仕事をされ ているんですか?それとも何かご用事でいらしたんですか?」

答えをせがんで傾げた頭を、ただ見下ろした。私の中からは、何の言葉も感情も出てこな い。彼は今日も前と同じ赤い紐で髪を結っている。

「直冬様?」

後ろ手に小さな手桶を手繰り寄せた。

「お返事してください」

木の縁を、指でしっかりと掴む。

「叔父上の知り合いなんですか?」

わずかに浮かせてみると、その重さが、十分に水が入っていることを伝えた。



「あの叔父上の」

「……義詮」



水音はほとんどしなかった。ただまるで杯が満たされた後のように彼の頭から衣までをな ぞって、水が伝っていく。

総てを掛け終える前に、手桶を横に投げ捨てた。その音が鮮明に響いて、蛇のようにし なった水が撒き散らされる。


「叔父上叔父上って煩いな」
「……ぁ、…の」
「君に気安く呼んでほしくないんだよね」


襟首を掴んで引き寄せ、そのまま突き飛ばして地に転がした。小さな身体は、姫の綺麗な 鞠みたいに跳ねた。

「足利直義は私の義父」
「……え?」

「知ってた?足利直冬は君の従兄弟」

「ま…さか…、」
「ああそう、聞いたことあるよね」

乗せた足の下から、骨が軋む音が聞こえたような気がした。

「本当は君の父上の息子。実の兄弟なんだ。…嬉しい?」

脇腹を爪先で蹴り転がした。俯せだった体が地から剥がれていく。裏返って仰向けになっ た彼は、泣き出せないまま戸惑ったような表情をしていた。土が目に入ったか涙が溢れて きたのか、赤い目をしている。



上質な、それは将軍の子として相応しいに違いない美しい着物は汚れ、私が踏んだ足跡 が、その背にくっきりと付いているのかもしれない。

照らすのは浴びる程の光
疎ましいなんて、本当は思いたくない。

目を閉じても目蓋を赤くする。


「ほら見て御覧、今日は綺麗に晴れた」


同じ高さでも見下ろしても見上げても、きっと見えるものは変わらない。義詮が泣きだし たのを見て、私は空を仰いで笑った。


「ねえ義詮。誰かを大切に思えるって幸せなことだね」



ただ哀れでそれより目障りな君へは最大限の祝福と賛辞を

ただ惨めでそれより行き場の無い私へは、最低限の慰めと侮蔑を