月が美しい夜だった。
だが何も変わらぬ夜だった。縁側に腰掛け、ただ一人杯を空にしていく。
酔いなど期待していない。
深いはずの闇は妙に澄んでいて、遥か遠くまで見渡せそうな気がした。
だが、ほんのそれだけだ。
風に揺れる木々の音も、この静けさを破るには至らない。
――・・・あれからはただ、静かな時だけを好んだ。
その中にしか身の置場がないと思った。
内に蠢くものは染みるに熱く、それこそ酒の触りに似ている。
それをなだめるには、
弄ぶには
直義は死んだ
濡れた葉の露が滑り落ちるように呆気なく。
私はそれが彼の望みだったと思う。
果たすためならば自分を消すことも躊躇わず、それが一つとして無いならば消えることを願う。
誰かのために在って、自分のために消える。
直義はそんな男だった。
自覚なく他人を振り回すその生き方が、私には最後まで解せなかった。だが止められもしなかった。
そしてこの悲しい結末を迎えても尚。
憎み切れたものなどいたのだろうか。
いたならばあるいは、とも思う。
変わらぬ澄んだ眼差しは強く、だがそれ故に消えるのを望んでいた。
消えるために澄んでいた。
それがいつも不安にさせた。
過ぎたことといえばそれまでだったが、だからこそ割り切れぬものもあるというのに。
濁るくらいなら
消えてしまったほうがよかったのかもしれぬ。
その清廉さを赦免にしてしまえば、確かに自分を責めるものは何も無かった。
だが
そんなことで片付くわけがあろうか
――・・・・直義は『殺された』のだ。
怒りは消えた。
だが悲しみが消えない。
後悔は薄れた。
だが淋しさは薄れない。
ぼやけた霧の中にいるのは心地よい。このような澄んだ夜は厭わしいのだ。
見えぬのなら仕方ないと
見たくないなら構わないと
霞み掛かる遠くはただ不快なだけ。このような夜は気持ちよい。
薙ぎ払ってしまいたいと
私には邪魔ではないかと
脇に杯を置こうとしてふと手が止まる。遠い昔に知った気配が、うっすらと近くに在った。
振り返ることができない。
ただそれ以上動けなかった。
だが何を考えずとも、自分はわかっていると思うのが不思議だ。
このような夜ならば、と先程と逆のことを思う。
静かで澄んだ夜ならば、それだけで有り得ぬことを見せてくれるだろう。
―・・・知らず、周の夢に胡蝶なるか、胡蝶の夢に周なるかを
遠い昔、書で目にした一節をふと思い出す。
柄でもない。
このようなことを口遊むのは、自分が今しがた考えていたあの人だった。
滑るように詠う声を思い出す。だがその記憶は既に、生彩でなく痛みばかりをもたらした。
どちらでもいい。
ただ心を乱すのは、この場に不似合いだ。
今ここにいるのは、直義ではないのだから
動いたら消えるだろうか、と遠く考える。
「…何だ、お前か」
「直義様じゃなくて悪かったな」
軽口を叩く声は、久方ぶりにもかかわらずただ素直に耳に馴染む。
「今更何しにきた」
「知らねぇよ。俺のせいじゃない」
「…お前に化けて出られるなんざ、私も余程弱ったようだ」
「そうみたいだな」
懐かしさではない。
至極当然だと思う自分は傲慢かもしれない。
「なあ重能」
「あ?」
「そういえばお前にな、聞きたいことがあったんだ」
「へぇ、そりゃ珍しいな」
止まったままの手元。杯を持った腕を浮かせたまま視線だけを落とした。
酒が映しているのは自分の顔
振り向いたとしたら、私の目は何をうつせるだろうか
「…悔しいか?」
「何言ってんだ」
「お前だったらそう言うだろう?」
――お前は死んだのだから
病に臥したことなど見たことがない。刀も喧嘩も強かった。
そんなお前が死ぬ、・・・殺されるなどと
私は一度も思わなかった。
だが駆け抜けるようにして逝くのが、お前らしかったのかもしれないが。
口に出したことはない。
それを知ってか知らずか、勝気なあの弟は馬鹿にしたように鼻で笑う。
「さっさと言え」
沈黙に焦れて畳み掛ける。自分は何を言ってほしいのだ、と苦笑しながら。
互いに気まぐれにしか耳を貸さなかった筈の相手、とうに存在しえぬその相手に
「悔しいのは兄貴だろ」
「・・・あ?」
「気に入らねぇなら、いつもみたいに勝手にすればいい」
驚いて視線を上げる
思わず立ち止まってしまう感覚に似ていた。
答えにすらなってなっていない。
しかしその言葉の意味を、自分は嫌というほどわかっているのだとしたら
「・・・・いいのか?」
落ち着いてだしたつもりの声など、静寂の中では無力で空寂だ。
振り向いてしまいたい。
ただぶっきらぼうに投げられた言葉を、少しでも確かなものにしたいと願う。
「直義様には俺がついてるから」
「…・・・・」
「兄貴が気にしてるのはそれだろ?」
「…そうだな」
ゆっくりと濡れた目蓋を閉じる。
ただ気まぐれにあらわれた弟が、どうしてこうも容易く己を見透かしてしまうのだろう。
赦し
浅ましいまでに渇望していたもの
それを渇望する自分を欲っしていた
乱されぬままでいようとして、それ故に出口すら自分の手で閉じた
「悔しいのは兄貴のくせに。人のせいにすんなよ」
憤ったまま語気を強めて、しかしすぐに快活な笑い声が聞こえる。
その声が霞む。
まだ、まだ言い足りない、
なのに押し潰されて出てこない。
「…っ、」
音を立ててとり落とした杯もそのままに、ただ涙は流れる。
漏れ出る嗚咽は遠く、頬を伝う感触は優しい。
目元を左の手のひらで覆う。
それをずらすように、額に垂れていた髪を掻き上げた。
「ふ、・・・っ・・」
壊れた笑いが一つ漏れる。
もう、振り向きたいとは思わない。
だけど、どうかこの一言が
「すまなかったな、重能」
届けばよかったのに。
遅すぎた言葉は、ただ虚しく闇を滑る。
せっかちな奴だった。
今日ぐらいはゆっくりしていけばいいのに、とらしくないことを思う。
詫びることなど自分にはないと思っていたのに、伝えたいことはそれだけだった。
重能には確かに理由があった。
殺される理由があった。
だが生きる理由もあった。
私はそれを知っていた。
だがそれでも、消えてしまったものは戻らないのに。
畳を塗らした透明な酒
映る光は青白い
己の涙で濡れたままの指先で、そこに触れた。
待ち焦がれたこの光と、私は共に在れるだろうか
優しい今宵の光、
それが不似合いな筈のおとうとが笑ってくれた
・・・何を躊躇う
私には全てが残されている
「やはりどうも落ち着かぬ。…またやるか」
「は?」
驚いたように見開かれた目
「このまま大人しくおさ<まっていても仕方がないだろう?」
「っ父上?!」
憲将が困惑した声を上げる。
「…本当ですか?」
それとは対照的に、能憲の目が活き活きと光った。
「憲将、新田の倅がいたな」
「…はい。使いを、……出しましょうか?」
「そうしてくれ」
わざとらしく大きな溜息をついて憲将が室を出ていく。
何処か疲れたその姿を苦笑して見送ってから、書机の上に上質の紙を拡げた。
筆を下ろす支度を始める。
立ち上がった能憲が、後ろからずいと覗き込んだ。
「新田宛ですか?」
「いや、尊氏殿に一筆な。」
滑り出る言葉はひどく軽い。
「見てくださらぬやも」
「私は嫌われているからな」
「…若様がまたお困りになりますね」
「ああ、いい加減見捨てられそうだ」
後ろから返るからからとした笑い声は、かの弟に似ている。
おかしなものだ。
本当は自分の子であるのに、能憲が重能の生き写しに見えて仕方がない。
投影
つまらぬ言葉で片付けてしまえばそんなものなのだろうが
そうしてしまう自分を苛む気は更々ない。
「…昨夜、重能に会ったぞ」
「えっ?!」
慌ただしく横に座り、こちらに身を乗り出す。
「何で?」
「…知らぬ。ふらっと出てきただけだろう」
「あの、父上は何か、…俺のことを言ってましたか?」
「いや、何も」
ちっ、と舌打ちをして不貞腐れたように机に頬づえをつく。
「俺も会いたかったなあ」
ぼそりと呟いた。
「会いたいと思ってる奴のところには、なかなか来ないものさ」
「…ああ、そんなもんですか」
あからさまな様子に思わず笑いが漏れる。
真似ているのかもしれない。その口調も仕草も。能憲は義父の重能を慕っている。
そのためだけに仇敵を討ち取るほどの強い思いが、私にはもう手 に入りそうにないが。
「手をどかせ、書けぬ。・・・憲将でも手伝って来い」
「別に手伝う必要なんてないんじゃないですか?」
「、いいか能憲。使いを送るのは新田にだけではない」
「え?」
ぽかんとした様子に更に笑ってみせる。
「南朝・・・、さらには北条時行の残りもつかえるだろう。
信濃国にいる後醍醐の子宗良親王を擁立すれば体裁も名義も整う」
声を低く落とせば、能憲ははっと表情を引き締めた。
「関東の反尊氏を結集させるわけですか。今までの立場を無視して」
「まぁそんなもんだな。・・わかったら行け」
追い払うように手を振ってみせる。
はいはい、と言いながら能憲はしぶしぶ立ち上がった。
「叔父上、まあそれはそれとして」
「あ?」
「さっきの話ですが、やっぱりただの夢じゃないんですか?」
まだ納得がいかないらしい。
「そうかもな」
「そうですよ。もし本当だったら、父上は絶対俺のところに来てくれます」
「かもしれん。お前は異常なほど親孝行だから」
筆を持っていない方の人差し指を、喉を裂くように動かす。首を切る真似事だ。
僅か十七という歳で、能憲は仇の高一族を謀殺した。
「そういうことです」
誇らしげに笑って能憲は出て行った。室はまた静寂に包まれる。
この文をいつだせるかなどわからない。
自分はまだ、戦を続けようとしているのだ
私だけではない。
能憲に劣らぬ程の憎しみと、そしてそれ以上の孤独を抱えた直冬。
このままで、終わらせなどしないだろう。
自分に何ができる
もしかしたら何も変えられはしないのかもしれない
死んだものは生き返らない
生きているものすら、この手では足りないものばかりなのだ
だが私に全てが、変えられぬ全てが残されているのだとしたら――・・・・
重能は不敵に笑う
直義は楽しげに笑う
笑うだろう
だから私も、また共に笑いたいのだ
すまないな、直義殿
私では全てを許せない
たとえ貴方が尊氏を、憎んだことなどないのだと知っていても。
結果など望まぬ。
重能の言うとおり、気に入らないだけなのだ。
傍にいたではないか
あの鎌倉の地から
戻ってきてくれたではないか
この鎌倉の地に
だから同じものを映すことを、友は赦してくれるだろう
待っている。
・・・今も
これからも
補足(反転)1352年直義が死んだ直後の出来事。
ちなみにこの連合軍は、兄上を一度鎌倉から追い出してます(・・・)
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