俺が居なければ。生まれ落ちることすら、無かったのだ。

尊氏の声が途切れる前に、直冬はがたりと足先で床を蹴った。動揺故ではない。傲慢などと、のうのうと宣った男の声音の聞き苦しさに、目眩う程の怒りを覚えた為だ。薄く咲みを刻んだまま尊氏は直義、とわざとらしく弟を呼ぶ。さぁ怒れ、咎めろ、と言わんばかりに浮かべた青褪めた顔に向き直る貌を占めるは嗤いが色。

直義は兄が告げる筈であった言葉との落差に、酷く狼狽していた。驚きのままに兄を見つめ返し、そしてすぐさま最愛の義息子に向き直る。

「直冬、」

瞋恚に身を灼きながらも、寧ろ憤りは彼を幼く見せている。先刻まで、戯れ言全く取るに足りぬ、といった風情であった義息子が確かに傷付いていて、直義は切なげな息を吐いた。子供の無力さに憐れみが浮かび、何処か歪んだ安堵が掠める。矜恃の高さは彼を彩る幾つかのものの中でも、極めて痛ましいものだ。

面白くない、尊氏は密かに独りごち、あざとい嘲笑を収める。嬲るような真似がしたい訳ではなかった。ただ一言、思い知らせたかっただけ。

(碌でもない、)

こんな欺瞞を、何故そんなにも愛してしまえる。



***



「傷付いたか?直義」

直義ははっとして尊氏を見る。その声は晴れやかですらあった。

「痛ましいか?…哀しいか?」

いたましい、かなしい、と紡がれて、直義はすぐにその通りだと思った。兄の言葉は暗示として直接、頭に響いた。勝手に頬の筋が強張り、唇が噛み締められる。遅れた反射のように歪んでいく表情を、直義はぎこちなく片手で覆った。その指の隙間で、瞳が凍り付いているのを尊氏は確かめた。もう一度嗤った。

「だから関わるなと言ったのに、」

裾を翻し歩み寄る。虚に足元に停滞している視線と、今更掌と指で何かを隠そうとしているのを蔑み、手を伸ばした。

「俺の言うことを聞かないから」

「黙れ!!」

直冬が叫ぶ。尊氏の手を強く払いのけ、彼は噛み付かんばかりに眼を剥いた。

「屑め!傲慢はお前だ…っ、馬鹿にするな!……私を詰るのは勝手だ、でもっ、……義父上を傷付けるのは許さない、」

彼は義父を庇い、真っ直ぐに立った。後ろの気配を背で感じ取る度、直冬は少し落ち着きを取り戻していった。その姿に庇われる直義も、憑き物が落ちたかのようにはっと顔を上げる。今この状況に改めて気付き、そして今にも殴りかかろうかと震えている、義息子の腕を押さえた。

「……お前ごときが一人前に、」

冷めた感情のままそこまで言いかけて、尊氏は言葉を切った。彼は初めて、まじまじと目の前の青年を見た。直冬は彼の母によく似ていた。そして、嗚呼義詮よりも余程、…これは俺の子なのかもしれぬと、、唐突に感じさせられていた。



***



直義は息を深く吸うと、そっと視線を上げた。睨む程の強さはなくとも、蔑みに似た冷たさは容易に兄に伝わると分かっていた。凄艶に落ちた慾に似た閃きを甘受し、その味に尊氏は刹那瞬く。濁って蟠る熱が、足元に揺蕩うようで些か億劫だった。

「直冬」
「お前に、」

名を紡がれたことにすら苛立ち、直冬は眉の間に刻んだ皺を深くする。愛しげに澄んだ声で紡がれる其れに、較べるにも値しない。今度はちゃんと体を捩って、義父を見やる。冴え冴えとした瞳はだが、気遣いを超えて何処か悄然とした色を帯びていた。

報われることのない温情と嫌悪が綯い交ぜとなって、場に虚しく落ちる。

「…お前は自覚すべきだ」

また嗤うかたちに口元を歪めようとして、だが不意に尊氏は弟に視線を走らせた。

「お前は直義には成れない」

当たり前だ、誰の子かと所詮問うまでもないのに!直冬は一度びくりと震えた。厭悪か怒りか感傷か、尊氏には判然としなかったが直冬自身は其の感情を知り尽くしているようだった。大して視線の高さの変わらぬその体躯が、胸倉をつかみあがる。選択された最大限の侮蔑と、不可避なまでの憎悪がまるで、本当に子に縋りつかれる体裁のようで尊氏は今度こそ低く笑った。

佇んだままで、ただそれを眺めやっていた直義は、先程まで感じることもなかった筈の落胆に密かに臍を噬む。兄が義息子ではなく自分を笑ったことに、気付いていた。つややかな色を乗せて、今更に睨んでも兄は最早さやかにも心ゆらすことはないだろう。

やさしく柔らかく横たわった屍は誰に顧みられることもなく忘れられようとしている。

「俺が憎いと言ってみろ」


口先は、確かにどうしようもないまでに。

(なのにどうして!)



***



「思い上がるな。おまえが欲しい言葉なんて、誰もくれてやらない」
「俺の弟は、いつもくれる」
「…貴様、!」

振り上げようとした右手が重い。義父の手がそこに絡まっていることに気付き、振り返った。直義は戒める為に、握る力を強める。声を潜めて囁く。

「手を離しなさい」
「…義父上」
「離しなさい」

揺るがない義父の気配に逆らえず、突っぱねるようにして尊氏の身体から離れる。直義はまだ己を持て余している息子を宥めるように、少し笑んだ。

「いい子だね」

やっと実感を伴い始めた義父の言葉に、直冬は切なくなった。そして、場違いだと憤りつつも、何故だか一抹の幸福を感じた。


「……お前に憎まれれば憎まれる程、義父上は私を愛してくださる」

心の呟きはそのまま声になる。立ち尽くしたまま俯いた彼のその肩に、優しく触れてもらえる。

つまらない、と尊氏また考える。

強がるわけでも騙したいわけでもない。なのにただ、どうしようもないくらい何かが響いている。










未完