「情愛?」
冷えかけた茶を片手に、まんじりと開いた明かり取りの方を見詰めていた憲顕は、盛大に噎せかえった。尊氏が名を呼んで窺えば、この世ならざる物を見るような目つきで見返される。
「…尊氏どの?いきなりどうしたんです、出し抜けに」
頭でも打ちましたか、などと言わんばかりの胡乱な目つきだ。
「お前…その目つきをよせ…、今朝会っただろう」 「あぁ」
早朝に散歩などと思い立ったのが馬鹿だったと、今なら思う。見かけたのは偶然にしろ、無粋な真似には変わりなく、ましてや相手に気付かれたのだ。睦言を交わす、他愛の無いやり取り。しどけない姿で室から男を送り出した女は、黎明の爽やかさに浮かぬ程度の柔らかさで熱烈な思慕を謳った。尊氏が軽く笑い返した男と、目があったのはその時。…合わぬ台詞ではない、寧ろ厭味な程似つかわしい気もする。
「下らない質問ですね、別に貴殿も言い言われるでしょうに」
「下らないか」
「情とは何かなどと語らいたいですか」
刹那嫌な沈黙が落ちて、二人は小さく溜息をつく。尊氏にしても別段何か気掛かりだった訳ではない。思い浮かんだ情景をそのまま口でなぞっただけ。そもそも憲顕がその類の言葉に重きを置いていないのは、わかりきっていた。尊氏自身にしても、覚えのある所だ。
二人が黙りこむと、軽い寝息だけが室に響く。畳間の上で打掛をかぶって、室の主の薄い体が上下している。麗らかな小春日和だ。最近は冬に向けた諸々の調整にあれこれと立ち回っていたから、疲れているのだろう。
「…直義どのもお目覚めになりませんし、私はそろそろ失礼します」
「ああ…起きたら渡しておく」
置かれた書簡の束を見て、憲顕はひとつ頷いた。するりと穏やかな物腰で立ち上がって、常の様に悠然とした態度で歩いていく。 廊に出た気配が遠ざかってゆくのを追いながら、尊氏はふと皮肉げに笑った。元々荒々しい質ではないとは言え、極度に殺された足音、戸を閉める貞淑さなどは、眠りを阻害しない為のそれだ。恐らくは無意識に。情愛など、莫迦莫迦しいと宣う癖に。
ゆっくりと寝顔を覗きこんで、眠りから醒めていないことを確認する。穏やかな顔だ、あどけなさすら感じるのは恐らく悪い癖なのだが。尊氏は少し躊躇ってから、体をずらす。投げ出された手の横に座り直して、なにとはなしにその手のひらを見つめた。常の様に白くしなやかな手は、何時見てもまるで楽師のもののようだ。膝に肘をついて自分の手を顎に宛がう。
だけれど、その指先が歪に削れているのもまたいつものことだ。見端の良い癖ではないのだが、気を抜くとどうにも直らぬらしい。尊氏は指の腹で、己の爪先を擦る。下女が鑢で削った其処はまろい感触を返すばかりで、つるりと滑った。
常に何かしら、満たされぬ所があるように見える。何処か、常に案じていなければ、というような張り詰めた所が。…不安がらせる自分の所為だと、重々知ってはいるのだけれども。
「…直義」
零れた呟きが思いの外大きく響き、びくりとする。だが穏やかな寝息に乱れは無く、尊氏は安堵したような残念なような、微妙な気分になった。
情愛など、それこそ溶ける程に注いでいる。
なにか綺麗で、優しくあたたかい。包み込むようで、穏やかなさらりととろけるような。弟が求めている漠然とした穏やかさは、そんなものだ。
けれども、美しく優しいばかりのそんなものは、尊氏は持ち合わせてなどいなかった。抱くばかりの情愛はもっと冥く、欲に薄汚れて、血の犠牲に塗れたものだ。等しく注がれるような、そんな穏やかさとは無縁な、ただ蹂躙すべく存在する禍禍しいばかりの。
尊氏は美しく磨かれた指先をそろりと伸べる。情とは何か、語らうまでもない。ぶつけるこれがそうでないとするなら、恐らくそれは自分には価値のないものだ。慕う、などと囁く事もなく。いじらしく気を引くでもない。下らない。睦言などより余程確かなものをただただ噛み締めて嗤う。
「直義」
名を呼ぶそれが、何にも代え難い証左。美しく暖かく平等ななにかに焦がれている。それならば全て、奪ってしまえば、それが情愛そのものであるのに!削られた指先をそっと握りこむ。瞳を閉じたままで伝わる熱に酩酊するように、うっそりと笑みが浮かぶばかりに。
(お前がこのまま目覚めなければ、恐らくこのままでいられるのに!)
未完
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