微かに声が震え、そんな醜態に忽ち頬に熱が上った。誤魔化すように口元を押さえて、息を付く。こんな事があるのだろうか。ただそう、相対したそれだけなのに。

「登子」

彼女がそっと振り向けば、もう一度守時は妹の名を宥めるように呼んだ。客人に憚るように、殊更緩やかな口調で彼は言を継ぐ。

「…さ、足利殿にご挨拶を」

声に促されるまま、また目前の相手…足利の曹司に、登子は視線を戻す。微苦笑を口元に湛えた彼は、柔らかく其れを受け止めた。

「赤橋登子と申しまする…高氏様、どうぞよしなに」
「はい、赤橋殿」

何処か甘さを忍ばせることに慣れた声に、女は耐えきれずに又視線を外す。―…兄が連れてきた客人、それも名高い武家の跡取りとなれば端からどの様な用向きかは知れていた。勿論相手も承知の上であろうとも思ったから、彼女は其れなりに覚悟を決めて待ち受けてはいたのである。だが粗暴な野心家に対し、贄として抱いていた覚悟は、忽ち全く異なる種の動揺に掻き消えて仕舞っていた。矢張り少し困ったような微苦笑のままで、高氏は北条の姫君の表情を窺っている。

「…どうか登子、とお呼び下さいまし…、」

だって、と言わずもがなの理由を言い澱む登子に、高氏は今度ははっきりと笑んで見せた。青年らしく快活で、名家の曹司然と柔らかく、そしてどこか少年のように澄んだ笑顔だった。ただそれだけの差異に、彼女は己が彼の某かに受け入れられたことを知る。彼は執権の傍らに侍る身として、彼の家や守時の意図を理解し此処を訪ったのだ。…そんなことは重々承知の上なのだが。高氏様、ともう一度唇を震わせれば、双の黒曜が優しげに瞬く。刹那、この男がひどく美しく思えた。無様で浅ましい女のように、会うたばかりの男に目端が媚びを売るように落ちる。目下に熱い感覚は彼女の感覚を容易く狂わせ、そんな卑しい真似を止められぬ身をこの上なく惨めに感じさせた。

「…登子、どの―?」

兄ではない男の声で紡がれる名の響きは、何処か艶めかしく空々しい。只管頬を赤らめ俯きながら、ふと登子は男の膝上に置かれた掌に視線を止めた。細かい切り傷が、節くれだった長い指に幾つも刻まれている。刀傷だろうか、それにしても新しいものも少なくない。別段端正とは思えぬのに彼は毅くて美しく、なにか酷く確りとしたものを感じさせる。

なのに目端に映るのは其の唐突さ。登子はふと妙な気分になって、男を見返した。


「高氏様」
「はい」
「貴方様はまるで、御刀のよう」
「…怖がらせてしまいましたか?」
「いいえ、違います、違いますのよ…ただ、その様に立派な方だと」
「はは、そんな」

ぼんやりとした違和感を手繰り寄せる為に、女は二言三言と継いでゆく。

「…私、あまり兄に似ているとは言われません」
「…そうですか?…、」

いつの間にか座を辞していた兄の姿を気にする高氏に、登子は構わず続けた。

「だから…もしや高氏様は、私をご覧になってお気を落とされたのではないかと」
「まさか、」

少し躊躇い、高氏は柔らかく付け足した。

「大層美しい方だと、驚いていたのです」
「ふふ、ごめんなさい、あざとすぎましたね」
「登子どの、」


男の困ったような笑みに滲む拙さに、女は密かに動揺を噛む。それは今先までのような浮かれた感情ではなく、どこか瞑い悦びだ。男の口から漏れる吐息が艶めかしいのに、恥じらいより先に何か意地悪いような感情ばかりが湧いた。そっと目を逃がして、彼の腕や背の線を追う。そこにあるものを色香と呼ぶのか、殆ど館から出たことのない彼女には分からない。だが袖の影の落ちた手首のかたち、その先に傷ついた指が伸びる様を眺めていれば、急に兄とは違う男の気配が浮き彫りになった。


「……お優しい、足利の方だと云うから、もっと怖い方なのかと思っていました」
「きっとそれは私が若造だからでしょう、いつもその様に言われるのです」

殊更軽く肩を竦めてみせた高氏は、言に反して至極鷹揚に笑う。登子は呆っとその瞳の深淵に見惚れる。精悍で、折り目正しく、穏やかな。…なのにどこか毒々しいまでに艶やかに滴り落ちる赤黒の気配。

「……高氏様」
「はい」
「貴方をお慕いして、いいのでしょうか」

実際の所、彼女には自身の感じた情動がどのようなものか分かりはしなかった。ただ、男から嗅ぎ取った二つの相反した印象を扱いかね、許しを請うように思い付くままに言葉を紡いだのだ。けれども、返答のかわりにこちらをますぐに見詰める双眸に、そんな事も忘れてしまう。

…この震えはきっと歓喜によるものだ。この男を、自分は愛してしまったのだと今更に登子は気付く。たった今、会ったばかりで禄に話してもいない。この立派な武家の曹司、優しげなのにどこか酷薄な気配のする彼を。

「……登子、」
「はい」

ただ名を呼ばれたというだけでひどく幸せな気分になって、ついと手を延べる。どうしようもなく震える指先を彼は優しく掬うと、吐息と甘い言葉をその上に零してみせた。



目眩がする。

自分がこの男のものに……否、この男が自分のものに、なるのだ。全てを彼に投げ出したくなるのに、それ以上に彼の全てが暴かれればいいと思う。

歓喜に満ち満ちた筈の、背を走る怯懦。

それが、初めて触れた醜悪な情愛、男の贖い難い欠落に酔うたものだと。…彼女が気付くには、それから幾らかの時を必要とした。













「殿、薬湯を」
「ん…、有難う、」

言いつつも渋い顔で喉に手を遣る高氏に、はらはらと登子は視線を揺らす。卓に凭れて座る夫は気だるげで、寛げた首筋にはしかし苦しげな汗が伝う。

まだ彼に嫁いで一月すら経たず、家の中のことも良く分からぬ。そんな折に、高氏は急の病に伏せっていた。一二日で高い熱はある程度引いたものの、咳が続くようで声がひどく嗄れていた。姑が毎年この時期にはそうなのだ、と慣れたように登子を諭さなければ、さぞ慌ててしまっていただろう。
だが落ち着き払えるものでもない。高氏は移るから、と彼女を遠ざけようとするが、彼女には結ばれたばかりの夫しかこの館に縁はないのだ。しかも何時も悠揚としてるだけに、矢鱈と力無く伏せる姿は不安を煽った。

喋るのが辛いようで、高氏は切れ切れに言葉を継ぐ。登子はそれが居たたまれずに、彼を宥めてしまう。

「殿、お水ですか?…ええと、食べられるなら、なにか喉の通りの良いものを持たせましょう、お側で何でも致しますから…だから」
「登子」

高氏は笑んで彼女の頭を撫でた。

「いい、大丈夫だから」
「…はい」

けんけんと痛々しい咳を漏らしながら、高氏は卓の上に視線を落とした。登子にはよく分からない書を目で追いつつ、時たま気にするように彼女を見た。

出会ってからずっと、彼は優しい。家に入って、夜を越えてからは少しは変わるかとも思ったが、寧ろ彼女自身が幼くなるような心地がするばかり。するりと笑みを零されれば、只たじろいでしまう。出会ったあの日に感じた筈の、男の瞑い某かの片鱗は、綺麗に拭われたように見えなくなっていた。

段々慣れていけばいいのだと、高氏は殆ど何も登子に課したりはしなかった。しかし彼女が家で今まで受けてきた教えにおいて嫁ぐということは、自ずと頼朝公の忠実な細君が思い浮かぶもの。戦のことは知らぬ、夫の家臣の名も知らぬ、では到底そのような像とは遠かった。

そっと夫の顔に視線を這わせて、だがその内の心を読みかねる。喉が痛いというのだから、その顔色ひとつで何もかもを察して上げられたらどんなにいいだろうと思うのに。

「…登子」
「は、はい!」
「退屈、だろう…済まないが、まだ暫くかかる」

寝遊んでいた昨日までの分が溜まっていてな、あまり溜めこむと今度は師直の奴まで倒れかねん。掠れた声で気遣われ、登子は慌てて応えを返す。

「いいえ、そんな退屈だなんて…殿…ごめんなさい…」

軽く笑って高氏は室の隅に詰まれた書を指差した。

「そっちのは、母上が貸して下さった、詩歌集だから」「あ、ありがとうございます」

勿論そんなものに耽る気分ではないのだが、これ以上気遣わせてしまうのは堪らない。登子は手早く二冊ほど見繕って、座り直した。

……師直。美景を詠う字面に目を落としつつ、彼女は高氏の言葉を反芻する。確か夫の執事として幾度か目にした高の、男だった。婚礼の儀の前も後もここのところずっと、宴席が続くばかりで、実はまだきちんと言葉を交わしたこともない。幾人か続いた、祝辞を述べた相手の顔や、夫と語らう姿を覚えているだけまだ彼とはきちんと会うた方だともいえる。そんな宴席続きがようやく落ち着いた矢先の病だったから、結局の所立ち回りや様々な人との儀礼をこなした高氏は疲れていたのだろう。…それも今彼女をこの室に縛る罪悪感の一つだった。

夫の家臣の名も知らず…再度浮かんだ思案に登子は隠れて肩を落とす。執事がどの様なひととなりなのか、尋ねられないのが残念だった。早く痛々しい病など去ればいいのだ。さすれば彼は恐らく幾らだって答えてくれるだろうに。

他に覚えている顔を並べようと、登子は懸命にここ数日の記憶を辿る。何しろ幕府の客人や自身の血筋の客人のほうが多かったのだから、その中で夫の家臣だけをより分けるのは中々に難しい。



「…若、」

不意に廊からかかった声に、高氏は頓着なく入れ、と返した。

「失礼致します、直義様がお帰りになりました」
「ああ、ご苦労、茶の支度を、しておいてくれ」
「は」


侍従はすぐさま深々礼をするとまた廊を戻っていった。

開いたばかりの書を閉じて、登子はそっと高氏を伺った。今の物言いは、つまりこの室に支度しろということだろう。そうでなくては高氏がわざわざ口に出す必要はない。此処に来るのか、…確か先程侍従が告げた名は。

「登子」
「あ、」
「済まない、此から少し、直義と話したいから、外して貰えるか」
「はい」

済まない、と繰り返した高氏は少し苦しげに、喉を鳴らした。