廊に出てそっと戸を閉める。その音に被せるように足音が響いて、登子はびくりと顔を向けた。磨き上げられた木床の上を、真っ直ぐに此方へ向かってくる人影。余りに迷い無く歩を進めるので、気圧された態で彼女は立ち尽くしていた。

「…失礼、」

丁度三歩程の距離を開けて、彼は急にぴたりと立ち止まる。

「ぁ、…ご、めんなさい」

戸の前を塞いでいることに漸く気づき、登子はぎこちない動きで廊の端へ身を引く。計ったようにきっちりと角度を付けて黙礼すると、彼はそのまま戸を開き中へ入っていった。些か呆然と目を瞬かせ、登子はただそれを見送る。諂うでも儀礼的に恭しくしてみせるでもない、笑みすら浮かべぬその横顔。纏うのはどこか硬質な空気、怜悧なその立ち姿には見覚えがあった。先程夫が告げた、その名。

「……直義、様…?」

既にぴったりと閉ざされた戸は、そんな微かな女の囁きを完全に黙殺した。



義弟という近しい相手を、流石に覚えていた。だがそれは恐らく彼自身の印象が強烈であった所為だ。彼とも矢張り大して話を交わせていない。だがそれは、一概に慌ただしかったという理由だけとは言い難かった。初めて会った瞬間から、直義はその涼やかな目には親しさの欠片も乗せず、完璧に整った礼をするばかり。夫と二人で話す姿はそれこそ何度となく見かけたものの、結局目通りの際と婚礼当日に一辺倒の祝辞を聞いた以外に、彼とは接点が無かった。

登子自身も積極的に話をしようとは思えなかった。あからさまな隔意に、彼女は至極怖じ気づいていた。姑や他の家臣が概ね柔らかく迎えてくれた故の落差もあり、抑々が館育ちの彼女はその様な形で拒絶される事に不慣れだったのだ。

「…」

…屹度。足利が武家の名門であり、北条が世のこの時下でも、大きな力を持っているのは知っている。だからこそ嫁ぎ先に選ばれた、という事も。その様な無理矢理膝を付かせるような真似を、不愉快に思うのも自然だと言えた。しかも彼はただの家臣ではなく、高氏に意見出来る位置なのだから余計に承伏し難い所だってあるだろう。登子は高氏に嫁いだが、今依然その立ち位置は北条にあるとも言えるのだから、受け入れられずともある意味自然だ。屹度、そうに違いないのだ。


彼女はそう考えこんだまま漫然と歩いていたが、はたと立ち止まる。…このままあてがわれた自室に戻ってしまうと、高氏は話が終わっても、自分を呼びにやらせてはくれないのではないか。元々病が移らぬか気遣う高氏を無理に押しきって側に付いていたのだ。

「殿…」

暫し躊躇ってから、そっと踵を返して来た道を戻ってゆく。

高氏は。彼は鷹揚で優しく、柔らかい。…だけれど時折どこか、脆く怯えた幼子のようだ。そんなことを考えてしまうのは、彼が今弱っているからでは恐らく無い。砕いた黒燿、涼やかな瞳。年近い二人の割に似ない、なのに矢張り通う何かはある。何故かその光景が、彼女にひとしずくの不安を垂らしていた。









「それでは此はその様に、」

直義は広げていた書簡を手早く片付けると、器用に側に纏めた。ぼんやりと高氏は其れを眺め、手遊びに書机の端を指先で撫でる。

「兄上、…また熱が上がってきたのではないですか?」
「ん?…、ん」

軽く首を傾げ弟を見返すが、高氏はただそれだけで特に動こうともしない。直義はいっそ眉を顰めるように顔を歪めてから、そっと手を伸べる。額に冷たい感覚は只管に心地良く、押し当てられる掌に高氏は甘えるように身を寄せた。

「…まだ休んで、いればいいのに…」
「、いや…」
「…兄上、」

緩く頭を振って身を離そうとする兄に、直義は窘めるように肩へ掌を滑らせた。刹那驚いたように目を瞬かせるが、むしろ悄々として高氏は力を抜く。気まずげな顔に混じる色は羞恥に似て面映ゆい。腕で払うようにして、机を横に押しやった。ちらと促すように向けられた視線に、直義は表情を和らげ膝を寄せる。

「疲れが出たのでしょう、丁度この時期と重なって仕舞ましたからね」
「?直義…、」
「…目が赤い」

釣られて目元に手をやると思い出したように痒くなり、ごしごしと高氏は手の甲で目をこする。

「寝飽きた筈なんだがな…」
「擦らないで、」

そっと手をおろされて、高氏はかすかに笑った。其れは不意をつく、曇りのない笑いだった。

「…たまには病も悪くないな」
「え?」
「あれこれ心配を掛けて、…でもそれが少し嬉しい」
「…、」

溶けるように表情を緩めた兄に、直義は言葉を途切らせる。一度二度と何かを言いかけ、だがそっと息をつくと柔らかく笑み返した。

「そうですね…偶に、なら」







手が震えて、握り締めた衣には強く皺が寄る。小さい爪が華奢な掌に突き刺さって、歪な鬱血を浮かび上がらせている。だが登子は、そんな事にはまるで気付かずに、食い入るように眼前の光景を見つめていた。控えの間にそっと入った途端、漏れ聞こえてきた話声。それが僅かに隙間を空けて開く戸によるものだとすぐに気付いた。勿論最初は憚って控えていたのだが、聞いたことのないような夫の柔らかい声に、何時しか室の様子が伺える場所までにじり寄っていた。

…兄弟仲が良いのだ。生まれてからずっと寄り添い育った家族と、出会ったばかりの自分で態度が違うのは当然だ。言い聞かせても、言葉は上滑るばかりで、逆に靄のようにはっきりしない感情ばかりが垂れ込める。優しさによそよそしさを感じた事など無いのに。彼は本当に自分を大切にしてくれるのに。目に映るのはただただ明らかな差異。そしてもう、ひとつ。


「げほ、…」
「兄上お茶を…、駄目ですよお酒は」
「んん…病には効くぞ」

喉の息苦しさに潤みがちな目線をとりなすように、直義は高氏にそっと茶器を手渡す。

「駄目です…前みたいに頭まで痛くなったらどうします」
「悪酔い、なんてなぁ」
「兄上は普段酔わないから分からないんですよ」
「直義も、頭痛とかはないだろ?直ぐ寝てしまうじゃないか」
「…兄上くらい飲めば頭痛もしますよ、多分」


…気安い会話、良く高氏のことを知るこたえ。そして何より目に付くのが、先程見たのとはまるで違う直義の表情だ。柔らかい笑み、ぞっとする位無性に優しいばかりの眼差し。透き通るように口先には慈愛ばかりが乗せられているのに…だけれども。

登子は高氏以外の男など当然知らない。だがその意味で、一つはっきりと分かることがあった。
義弟の妙な美しさが、夫とは異なる彩の瞳がその夫を見る時のかたちが。ひどく濡れた色、肉親の情というある種乾いたものとは、絶対に違うその色。…そんな色を帯びているなんて。

直感、とは違う。其れは語るばかりに雄弁な態度だった。何故なら、彼女も彼と同じ人を思うのだから。―分からない筈は、ないのだ。


「と…の…、」

血の気が引いて、視界が暗くなる。なのに、聞こえてくる声、目に飛び込む笑みから意識をそらせない。



「っ…はは、」
「……いたみますか」
「眠れない、」


不意にはっきりと辛そうな顔をして見せた高氏に、登子はひゅっと息を飲む。がらりと面を剥いだように弱く鋭い表情は、あやす様に気遣う姿からは欠片も想像が付かないもの。直義はさほど驚いた様子も無く、すんなりと肩を落として兄を覗きこむ。


「兄上…」

そんな直義の手を掬って、高氏は項垂れるように頭を落とす。…まるで、縋りつくように、恐々とした手つきだ。ひゅうひゅうと細く喉が鳴る音が、登子の耳朶をいっぱいに満たした。

「痛い」
「寝れないのなら、…」
「…お前が」



高氏は会った時から、常に彼女にとっては精悍で落ち着いた物腰の頼れる男であった。愛おしむ微笑みには、強く艶やかな力があって、いつも彼女の全てを甘く痺れさせるのに。
…みっともない、幼子のように。大の男がまるで泣き出して仕舞うかのような。掠れて消えゆくように弱い。

何一つ好ましくない筈の、高氏の、姿が。



「居てくれ、…頼む」


滴るまでに毒々しい甘さと、煌めくような妖しい瞳の黒は濡れて。白い手のひらをそっと持ち上げると、その内側の柔らかい部分に唇を落とした。あられもない姿で懇願する高氏に、直義は一度身じろぎする。だがひといき置いて、すうと笑みを浮かべた。嗚呼。登子は最早目を見開いて、それを睨みつけていた。
うっすらと艶やかで狡い、だが矢張りどこまでも柔らかいその、笑みは。伏せた瞳が男の癖に華奢な手のひらへ、零した滴は。

「…良いですよ、幾らだって、…兄上。貴方の為ならば」









ぼろぼろと零れ落ちた涙を拭いながら、必死に自分の室へと逃げ帰る。登子は生まれて初めて廊を蹌踉けながら走り、飛び込むように床へ突っ伏した。

悲しみは次第に荒れ狂うばかりにささくれ立って、泣き喚いてしまいたくなる衝動に彼女は必死で耐えた。

なにを悲しめばいいのかすら分からない。

高氏が、自分に弱音を吐いてくれなかったことか。直義には見せた穏やかな笑みと、常のものが似ているようで全然違うことだろうか。直義が高氏を見る目の色…高氏が直義に縋るその姿。濡れて、近しいばかりのやり取り。必要とされぬ努力をしていた自分の愚かさ、思い上がった勘違い。彼が自分を疎む訳など、初めからただ一つしかなかったのだ。

「う…ぅ…」

嗚咽が衣の裾から転がり落ちて、只管に頬を濡らす。高氏を愛している。彼の瞳の弱さに、焦がれる程に心が痛む。

「…っ」

怜悧で整った顔、澄ました冷静さ……唇に一刷毛の満足感。

狂おしいほどの熱が、彼女の肚を灼いた。悲しみが悔しさに裏返る感覚をまざまざと味わいながら、登子は崩れていく細やかな幸せの形を必死で繋ぎ合わせる。

高氏が直義に縋るのは仕方がない、仕方ないのだ。今までずっとそうしてきたのなら。けれども、この先ずっとそうでなければならない訳も無い。そして彼が、直義が高氏を独り占めにするのは…渡してくれないのは。悲しい、妬ましい、嫌だ、許せない―…。

ただ只管に登子は噎び泣く。それは彼女が夫を愛していると知った故の、生まれいずる赤子の産声であった。滴り落ちた赤黒い卑劣な高氏の弱さは、そうして彼女を染めて流れていった。











薄く開いた戸の方を横目に一瞥して、直義は兄に隠れ密かに息をつく。今はもう、空漠ばかりが滲む薄闇には、それでも未だに薄く水っぽい情念ばかりが残っているように思えた。高氏の熱が確かに這い上るように腕に絡むのを確かめ、甘く彼を呼ぶ。

「兄上…、」
「……直義?」

すっと身を起こし、何時もより熱い腕に抱き竦められて、直義はふわりと微笑む。熱に浮かされた高氏はむしろ少し不安そうに、弟の目を覗く。

「すぐに…熱は引きますよ」

一時の熱病。所詮あの不釣り合いな程に幼い瞳の姫君も、同じ事なのだ。とくとくと早い首の脈上に口付けて、直義はそっと兄を慰める。汗ばんだ其処は、余裕無く直義ばかりを求めていて、眩むばかりに熱い。

「あぁ…」

そして高氏は心地よいばかりの冷たさに目を閉じる。彼の耳には、腕の中で落とされる澄んだ囁きしか届かない。欲する儘に求め、贖われないままの欠落は顧みずに。残酷なに切り裂かれた欲に、高氏は盲目のまま、甘い響きに酔う。

低く甘い声は直義の身に降り注ぐ。何も知らぬ筈の兄の返事に、そっと彼も緩く目を閉じた。


「…望んだものは、何も無い」

…ただ一つ、お互いそれ以外は。