滴りおちる雫に、足下で砂が絡む。打ち寄せる波の音は穏やかでも、雲一つない蒼天から降る日には痛みすら覚える。頭の上までずぶ濡れなのに、こうして浜へ歩んでいく間だけでも、衣の表面からは水が抜けてゆくようだ。

不意に強烈な渇きに襲われ、喉が引き攣るように震えた。腕を落ちる其に唇を寄せたとて、塩辛いばかり。馬まで戻ればあるいは水もあろうが、目端に映る浜向こうの松林は如何にも遠い。さらさらと滑らかな癖に鈍重な感触に絡めとられるまま、その場で倒れこむように横たわった。

大の字に転がり、陽を仰げば蹂躙する強さばかりが身を灼いていく。しかしそれが逆に身の内の熱を冷ましてゆくようで、知らず溜息が漏れた。ちかちかと眩いばかりの瞼に腕を被せ、そのまま動きを止めた。

…―赤く光を透かす闇に、ひとつひとつ何かを溶かしてゆく。



苛立つと己が内の熱を抑えられなくなる。何事にも怒り易い質という訳ではない、実際苛立ちと言う感情とは違う気もするのだが、熱が沸き立つ刹那には全てを擲ちたくなるような情動ばかりが蠢く。そうして熱にあかせてこの身を甚振るのが、手習いに為って仕舞っている。痛みと熱が己を繋ぎ止め、散り散りになりかけたかたちを保つ。その熱に滾る苦しみを知っているのに、瞬きをする間に一線を越えるのは、そのくずれゆくような恐怖が只管に凄まじいからだ。くずれ、うしなったあとに何が残るのか知りはしない。ただ滴る赤の色は、その流れが、たしかに自分を甘く縛ること。唯一の繋がりである、こと。それに思い当たる度にひどく打ちのめされたような、心地良いような気分になる。

時折、今日のように美しい晴れ空の下では、いっそ雨濡れる程に血潮を浴びる光景を思い浮かべている。濡れた頬に張り付くのは砂ばかりだが、そんな些細な感触が何故かただ気になった。



潮騒が耳を浸し、ようやっと静けさが内に満ちる。

ふと今更のように強く鼻をつく潮の香に、弟のことを思った。…兄上、潮の香のようです。自分の首を伝う汗に顔を掠め、そう言って笑う其れが意地の悪いほど艶やかだった。板の間にだらりと寝転がったまま、指先から冷たくなっていった感触を覚えている。

珍しく崩した座り方で此方を覗きこむ姿が、いっそ鬨を上げる兵の如くに傲慢で。命に逆らえぬ様な気分で手を伸ばし弟の衿へ縋れば、良くできたと蕩ける微笑みで力を抜いた。



目を覆っていた手首を下ろし、砂浜に埋まる腕に視線を這わす。筋張ったかたちに沿って薄青く血管が透け、半ば以上海水が乾いた今はひりひりとした赤みが差している。

冷たく何処か水の気配がする白い手は、丁寧にその手首裏の筋を辿るのが常だ。刀よりも筆ばかりが連想される頼りない指先は、だがその冷たい硬さにおいてただ強かだった。

潮は血の香にも似て、只管噎せるように満ちる香だ。ぐにゃりと打ちやった己の腕は屍ばかりを思わせた。

この暑さで捨て置かれれば、それは醜く腐り果てるだろう。腐肉がぐずぐずと溶けて落ちる不快な情景を頭で辿り、乾いた喉が震えるように嘲笑を吐き出した。それもまた心地よいかもしれぬ。暑さと立ちこめる腐臭にまみれた姿が今とそんなに差異あるものだとも思えない。

しかしそんな莫迦莫迦しい空想に遊んでいても、たとえば弟の屍が腐りおちてゆくのは不自然に思えた。あの硬質な指先は腐るというよりは、崩れてゆくようなほうが似合う。枯れた草花がはらりと砕けるように、触ららばその先から崩れていくような儚さと強かさが。



この身を灼く熱、滴る赤が自分を甘く縛る所以。ただ恭しく従う様にも似た、憧憬からは遠い欲情。全てを与えてやりたいと思うのに、艶やかな笑みが隠す隙に粟立つ嫉妬を覚える。他の何にだって己以外にそんな姿を許してしまいたくはない。

誰も瞳に映らなければいい。あの瞳にうつる人影を片端から殺していきたい。血を血で洗うように切り捨てていく、それは愉快なことに思えた。誰であれ、例えば己の従順な家臣であれ、弟の側に仕える誰彼でも。頭から濡れそぼち寝転がる自分に、噎せる香ばかりに目を細めて弟が嗤う。ひとりひとりと手に掛けて、それでもくっと唇を吊るような笑みが崩れてゆかないのは、何とも都合のいい願望だった。

弟がこの腐りおちゆく熱を帯びた腕の中から、逃げる日がくるのだろうか。傷を嘆き厭う性なのだから、案外想像には容易い。



そっと身を起こし、すっかり渇ききった衣から砂を叩き落とす。乾きは声が掠れるまでに、強くなっていた。

陰りの知らぬ日の下をさくさくと歩みながら、どろりと溶けゆく醜悪さに息をつく。日に灼かれすぎてどこか浮かされるような心地のまま、茫と宙を見ていた。

手の内から逃れ、清涼に儚げにも過ごすくらいなら。いっそこの腕の中で生き腐れてしまえばいい。

馬の鬣を漸く掴んだ時には、背に伝う汗が酷く冷たくて、思わず涙が零れた。









「兄上」

着替えを済ませ、室に戻れば弟はそっと少し冷えた茶を差し出した。まだ少し喉が痛い。こくりと頷いて受け取れば、弟は柔らかく笑った。

「最近、暑いですからね」

謳うような声の調子が涼やかで、飲み干した器を押しやってその背を抱き込んだ。腕の中の体温はすんなりと馴染み、当然のように収まりのよい姿勢で此方に重みを預ける。それは自分にだけなのだと、言い聞かせて無理やりに熱を煽った。

「何を考えているのですか?」

顔は見えないが笑っているのだと気配で分かる。

「夏のことだ」
「夏?」
「何もかもが膿み熟れ落ちるようだ」

蝉時雨が遠く、一向に傾く気配のない日は庇の端を滑り、床の一部を切り取るように照らしている。壁際の冷たい板張りの上には届かぬが、そのくっきりと陰を分かつ線が、目を誘った。

「私も似たようなことを考えていたんです」
「ん、?」

その声音は涼やか、というより何処かしら冷たい。抑揚を欠いた言葉の並びは、幼くも嘲るようにも聞こえた。だけれどもその声の甘さはべっとりと滴るように耳に忍び入る。

「このように暑いと、何もかも融けていきそうです」

氷も、と付け足された言葉に思い出す。弟は冬の朝、霜の中で咲いたままの地花や山上で葉に氷を纏わせた草木を、よく美しいと言って見ている。

不意に抱いた腕の衣を潜り伝う感触があって、視線を落とす。

白く薄い耳の後ろに、つうと一筋汗が流れるのに、そっと瞬いた。熱に浮かされた口調は自分のものばかりではなかったのに、それに気づかぬほど継がれる言葉自体はやはり涼やかだった。だが嬲るような指先が、余すところなく己と同じようなことを考えているのだと気付かせる。

嗚呼確かに霜の中でならば、腐り落ちずにすむだろうか。


「凍りついたままの美しさも、融けてしまいそうだと心配していたんです」







ちょっと二人ともクレイジー
ポイントは実は二人とも、ってところ