ここ数日雨天を知らぬ川の流れは酷く穏やかだ。さらさらと涼やかな音ばかりを響かせ、眠りに誘う様な心地良さを醸す。晴れ渡った夜空には月が煌々と輝き、うすらと刷かれた雲の形までを浮かび上がらせている。

「…、…冷たい?」

握った手の方を見やり、問い掛けに軽く首を横に振る。殊更そうしようとせずとも、口元には宥めるような笑みが浮かぶ。安堵したように表情が緩んだのを見て、握る手に力を込める。少し驚いた様に瞬いてから、そっと握り返されたその柔らかな感触に、胸が締め付けられるようだ。

ゆるりと歩みを進めて、それでも暫くは家に着けそうもない。ふと視線の先に止まったものに言葉が揺らぎ、口を付いた。

「…―、」

二人分の薄く伸びた影は、地を滑る様に歩みに付き従う。響くは水の音と、微かに路の砂砂利を跳ね上げる音ばかり。この身を侵していくような静寂が何より忘れがたいのだと、思う日が来るのかもしれない。…これは予感であり、確信であり。そして多分、守られるべき約定だった。













しゃん、と涼やかな楽の音が響きわたる。折からの風はゆったりと紅葉の赤を揺らし、晴れ渡った蒼天へと駆け抜けた。真白な玉砂利の上に、ひらりひらりと赤子の掌ほどのそれが舞い散る。その軌跡を追うようにして、祭服の深紅の袖がはらりと翻った。黄金に輝く稲穂を捧げるようにして、ただ鈴と笛の音に合わせ祈祷のような舞いは進む。今秋の収穫を悦び、神々に感謝の念を捧げる為のこの儀式は、そうしてその音を皮切りに盛大に執り行われた。


「見事なものだの高氏?」
「はい高時様。…誠に」

重たい礼服の裾を少し払ってから、かけられた声を仰ぐ。はしゃぐようにして舞を見る高時は、少し乗り出して下座に控えた自分の方を向いた。

「稲穂がたわわに実うておる、何事もなく冬を越せそうだの」
「……は…」


誤魔化すように笑って、高時に舞いの方を示し直す。すぐにまたそちらへ向き直った高時に隠れ小さく息を吐いた。華やかな儀式。それが不穏な空気を打ち消すためのものであることは高時も本当は知っているのだ。陰りを帯びる鎌倉の治世。自分が出仕を始めた五年前より更にその影は濃くある。何時だって伺い知れぬ高時の真意も、最早その歯止めにはならぬ。実際先年起こった変事は、鎌倉を揺り動かすには有り余る衝撃を伴った。土佐氏と、そして先帝の側近と目される日野両氏が、幕府に翻意ありとの門で処罰されたのだ。危ういところまで、きている。少しでも何か後押しがあれば崩れ去ってしまうような不安定さ。幕府全体が纏うその暗雲は、押し包むような重さがあった。


再び息を吐くと、くつくつと笑いまじりの忍び声が向かいから飛んでくる。ちらりと視線を上げてやればやはり高時の下座に控えていた男が、此方ににじり寄るように近づいてきた。

「ふふ…足利の若君も、だいぶしたたかになられたようで…」
「佐々木どの」
「昔の高氏どのなら滔々とぶちあげる位のことをしそうですなあ」
「…」

呆れまじりに見返せば、むしろ可笑しくて仕方が無いという風に道誉はからからと笑った。道誉は近江に領を持つ、所謂宮よりの豪族であったが高時はこの男をいたく気に入っていた。いつも飄々としていて、捉えどころがない。皮肉と諧謔が無ければ口を利けぬ様な突き抜けた無礼振りを、寧ろお気に召したらしい。自分は、といえば些か難しい。そんな態度をいっそ清々しいと思うのは、高時と変わりはないのだが。


「めでたい祝祭にそんな憂い顔をしていては、折角の方便も意味がありませんなぁ…、」
「…道誉、どの」
「高時様がお喜びなのですから…ふふ、若君も綺麗ーに笑って座っておればいいのですよ」

ふっと掠めさせた表情には打算を越えた何かがある。それを見せる相手を殊更峻別しているのは知っていた。全くもって喰えない相手ではある。


「……そうですね、高時様の御前です」
「若君、そこは折角なら巫女君の前ですから、と答えるが宜しいて」


にんまりと頬の端を釣り上げた道誉に思わず顔をしかめる。硬質の美貌を誇る今日の祭の担い手が、先程から専ら宴席の話題の種になっていることには気付いていた。


「足利の若君の笑顔とあらば、大抵の女は堪らないでしょうな」
「…お戯れを。道誉どのこそ、金銀豪奢な宴席に花を添えるお相手は片手では収まらぬと聞きますが?」
「某は花蝶を愛でねば患う病持ちでしてな」


下らない冗談を真面目くさった顔で吐きながら、道誉は更に此方へ膝を寄せる。密かに今日この席に弟の姿が無いことに安堵しつつ、仕方なしに寄ってきた相手の方へ身を傾けた。


「はてあの巫女君がお目にかなわぬなら、高氏どのは如何様な…」
「道誉どの、いい加減に」

「やはり足利に相応しいもっと高貴な姫君がお好みですか」

扇の陰に囁くまでに憚られた言葉は、だが不思議とはっきり耳に届く。思わず目を見開いて見返せば、殊更にんまりとその狐めいた笑みを刻んでみせた。


「ははぁ…そのお顔…本当だったんですなあの話」
「…早耳にも程があります、私自身つい数日前に聞いたのですよ」

釣られて反応したことに僅かな後悔も湧くが、何かしら言い繕うのも今更である。それに素直に驚いてもいた。

「まだお会いしたわけではない?」
「私は承諾したわけではありません」
「おやおや…悪い話ではないでしょうに」
「…すぐ様決めるような話でもないでしょう」
「しかし守時殿の妹御は美姫と名高いですからなあ…。愚図ってる間に横からかっ浚われたりしては、如何にも哀れ、哀れ」


過ぎた軽口に半ば諦念めいた咎めの視線を向けたが、当然のように黙殺された。



…赤橋登子。その名を母の口から聞いたのは本当にたった数日前のことだ。

彼女の兄、赤橋守時には浅からぬ縁がある。以前から、色々と世話になってはいた。白地に敵対している長崎との関係で、ひどく微妙な調整をお互い頼んだこともある。ただなにより何故か守時自身が、足利の自分に対し寧ろ好意的であることが最大の理由になる。自分が彼を嫌う理由は無い…ただその、北条の血筋、に憚ると云う点を除いては。

その守時の妹、登子の名は当然聞き及んでいる。ただ畏まった母の告げた言葉は、勿論の事ながらそうした意味合いで済むことでは無かった。考えもしなかった話に唖然とした所為で、当然断るべき返事を口に出せなかったのもある。…しかもそれが、父も同席の上での言葉だとくれば冗談だと一笑に付すことは、到底出来はしなかった。

そんな自分自身整理の付いていない話を、どこで聞きつけたかは知らぬが、道誉は如何にも可笑しいといった顔で此方を眺めている。実際こうした類の話を揶揄うは、彼の趣味に適うに違いないが。




「…赤橋どのからすれば、とんだ急な話ですよ」
「それこそまさか、ですなぁ。お父上にしたって、北条の奥方を娶っていらっしゃったでしょう?」

良くも平然と口に出せたものだ。その話を自分に堂々と振る人間は殆ど居ない。腹違いの兄が夭折した故に、自分が家督を継ぐことになった事実自体は、それが極めて幼い時期だったこともあり、普段強く意識されることではない。ただ勿論本来足利の跡継ぎを育てる筈であった、父の正室…北条の義母の事を忘れてしまった訳でもない。今では生家に帰った彼女の記憶はほぼ無いが、その存在は抑々北条との婚姻関係は寧ろ自然な事なのだという証であった。


「寧ろ何故迷われるのか、不思議ですな…高氏どの?」
「……守時殿は良い方だ。妹御も、きっとそうでしょう。…ただそうした事を考えた事がないだけです」

目端で追っていた豊饒を祝う儀式の方は漸く終わりを告げている。宴席自体は疾うに座も乱れ、三々五々に杯を交わしている。一際低い声で嗤うと、道誉はわざとらしく瞳を眇めて嘲りにその色を濡らした。


「はは、まるで生娘のような台詞を吐かれる。貴方が嫁ぐ訳では無しに…。もっと、単純に考えていらっしゃるのかと思いましたよ。足利の若君は、大層お家大事、な方ですからな」

「…佐々木どの、余り巫山戯た事ばかり仰有るなら、いい加減怒りますよ」
「おお怖、分かりましたから…高氏どのの忠実すぎる執事殿と、弟君に告げ口するのは勘弁ですよ。まぁた親の敵のように睨まれるのは御免ですからねえ」


何ら痛痒を感じぬと言った態で、そのくせ大袈裟にうたう台詞にうんざりと視線を逸らす。自分は何故かこの男を嫌う気にはなれないが、直義や師直にそれを説くのも到底無理な物だ。

「分かってて言葉をきつめているのでしょう?性質の悪い」
「ははは、つい愉しくて…」
「……兎に角、他言は無用です。まだ話は出ただけですから」
「本決まりになれば某が言い触らさなんでも、皆が知るでしょうからね、分かりましたよ」
「……」


まともに取り合うのを止めて、置かれっぱなしになっていた酒杯を取り上げ飲み干す。喉を灼く熱はだが大した刺激にはならない。



実際、自分は酷く気乗りしなかった。父と母が望むのは分かる。特に父の望みならば普段はなるべく叶えるのだが、今回ばかりはそうもいかぬ。姫君の顔さえ知らぬなどという、率直な理由も勿論ある。

だが他に幾つも、躊躇う訳はあった。師直は、反対だと言っていた。直義は話が出たことにさえ気を曲げていた。勿論自分だって北条に思うことはある。大体弟が良しと言わないのなら、抑々こうした話を通したくはない…それに幾つか理由はあれど、言葉にして父へ言い募れる事は余りなかった。



はらはらと艶やかな秋が散り、早くも日の傾く気配が射す空は青を欠き薄らと白い。

断る理由しか無い、婚姻話だった。例えそれがいつかは為さねばならぬ話の先送りだとしても。……幾つもの理由。そしてそもそも嫁を娶り子を為すことが、自分に許されているのだろうか。何時の間にか右腹に延びていた指先が、礼服の上から強く、醜い引き攣り傷を圧していた。