時期柄に無く冷えた板張りを、尊氏は素足で歩いていく。人気の無い道を選び歩めば、灯の気配すら疎らな辺りは、夜更の如く一間先すら見渡せぬ濃さであった。未だ日も落ちきる前の刻限に、だが黒雲は重苦しく重なるばかりで、薄く立ちこめる霧は降り注ぐ一滴を今かと待ち侘びている。
静まり返った廊では、足裏を木床から引き剥がす高く間抜けな音だけが、耳にさわる。幼げな歩調が酷い欺瞞に満ちていて、何とはなしに彼は己を詰った。
「…ん、」
角を曲がった途端、闇に慣れた視界に入り込んだ彩が唐突で、尊氏は軽く息を呑む。だらしなく広がる上等の胞は、柔らかい白を基調としていて、暗がりの中では殊更映える。二つ三つ転がる酒瓶は鈍い榛のいろ、白に埋もれる様に投げ出された腕は肘まで露だ。庭に面した広い廊の、室側の半ばまでを占拠して、憲顕は座り込んでいた。
壁に寄りかかる良く見知ったその顔は、だが目を瞑り軽く俯いていて、掛ける声を迷わせた。傍らに座り込むのも躊躇われ、かといって素通りするのは気が咎める。結局尊氏は立ち尽くしたまま、じっとその姿を眺めた。
従兄弟、と云うには何か割り切れぬ、相手。彼の人に肖ている、と言えなくもない。既に亡い彼の父親とは、それこそ酷く幼い時分から共に在った。すこし変容してはいるが、その悠然とした物腰には通うものがある。皮肉げに嗤うのが習い性になっているようなのは、恐らく彼の人が常に微苦笑を湛えていたのと同じようなものだ。顔立ちが瓜二つという事はなくとも、ふとその表情を遠い昔に見たことがある錯覚を覚えもする。
「……憲房、」
「―はい、“殿”」
涼しげな声に、尊氏は大袈裟に肩を跳ねる。憲顕は目を丸くした尊氏に、いっそ呆れたように肩を竦めた。
「起きてたのか」
「それはまぁ、声を掛けられればね」
先程の反応からして、そうでないことは明らかだ。尊氏は一歩前に進む度にぺたぺたと鳴る足音に、軽く溜息を吐いた。
「何か悪戯でもなさるなら、させてみようと思いもしましたが」
「…、…こんな所で何してるんだ」
「尊氏どのこそ、抜けて来たんでしょう?」
広間の方ではまだまだ宴も闌で、寧ろこれからが宴の盛りといった様相だ。貴方が早々に抜けるなんて珍しい、という憲顕の言を聞き流し、尊氏はその場に腰を下ろした。
「気が乗らん」
「そうですか」
転がったままになっていた酒瓶を取り上げ、憲顕は尊氏に示してみせる。杯も無しにそのまま口を付け、顎に滴る一滴を手の甲が拭った。
「…先刻の、」
「気に障りましたか?」
「いや、あんまり似てるから驚いた」
強い酒は喉を灼いて、腹を焦がす。どろりと濁った白が思いの外強くて、尊氏は目を細める。映る庭は暗雲の下只管に沈鬱で、こんな景色を肴に酒を煽っていた憲顕に、どこか茫としたままに言葉を継いだ。
「憲顕は…伯父上に似ていると言われないか?」
「さてね…余り言われたことはないですが…そう思っても、言わぬでしょうし」
「そんなものか?」
「良くも悪くも、父とはお互い余り触れることなく過ごしてきましたから…変に気を回す人間もいるのですよ」
尊氏は熱い息をついて、雨の気配に湿った空気を手のひらで切る。ぼんやりと姿勢を崩したままの憲顕は、幼げなその仕草に目端だけで笑った。
「似てないというより、似ている上で違いが目立つ」
「…父と、私が。」
「お前の方が、ある意味では誠実だ」
「それはまた…高く買われたもので」
「…誉めてないぞ」
わかっていますよ、という笑い声は漸く柔らかい気配がある。微かばかりの安堵と共に、彼のらしくもなく心半分な様子に、尊氏は軽く首を傾げた。
「尊氏どのは、大殿と似ておられなかった?」
「あぁ…父は直義に似ていたから」
「先刻から私を羨ましがっておられる…私としては複雑ですが」
「はは、そういえば伯父上とも昔同じ話をしたぞ」
「…それは、」
苦い笑みまでが記憶の中の姿と重なり、尊氏は酒瓶を傾けて零れる笑いを隠す。低い空向こうの、遠雷が僅かに耳を揺らす。尾を引くそれが収まるまで、何とはなしに口を噤んでいた。
悪くない静謐の後には、ただ寄せるようにさやかな感傷の気配ばかりが揺蕩う。ぐいと呷るように呑み下す、その憲顕の手つきはそんなやる場のないひくい熱を逃がすような素振りに見えた。
「……珍しいな」
「…、」
「そんな飲み方、」
「…まぁ色々と、」
思うことがなくもない、と大仰ぶった台詞回しは、だが、思いの外真摯な響きで落ちた。夕闇と呼ぶには濃すぎる闇を透かせ、尊氏は憲顕と並び、遠く落ちくる空を見上げていた。
「……最近、どうも気が抜けているようで」
「…お前が?」
「それは褒め言葉にしておきましょう、…自分でも不状だと思いますがね」
後を濁した憲顕に、だが不思議とその感覚は理解出来た。漸く訪れ、しかし決して盤石でも、それどころか明日をも見えぬ程度の平穏。それでも勝利を冠し、いくつかのことを忘れてしまえば、斬り濡れる戦場とは較べものにならぬ穏やかさだ。
安寧を慶ぶには危うく、全てを忘れるにはつい先だってまでの戦場の気配は濃い。実際軍は京を出て、各地へ赴いてもいる。
「平時を楽しむ術など、幾らでも在ろうに…得意だろう」
「私とて、別に誰かの様に戦場へ出たいわけではありませんよ」
「分かってる、が」
「…そうですね…何か本腰を入れた瞬間、取り上げられたような塩梅でもありますな」
ちらと尊氏は手元の酒瓶に視線を落とす。なにかを遂げたはずの彼が感じる喪失感は、やはり疾うに自覚のあるところだった。記憶の中の思案顔がちらつき、妙な気分でいらえを返す。伯父は恐らく、戦場にたたぬ戦を、己に教えようとしていた。それは今の平穏を捧げた、当の彼の弟にこそ、似つかわしくもある。
伯父が今居たとするなら、彼はきっとこんな悩みとは無縁で、そしてこんな自分らを見て嗤うだろう。
捧げる供物以上の価値を見いだせぬ、それは明らかな怠慢であった。
「……何事も、なければそれでいい」
「そう、なんでしょうね」
いつものように悠然と浮かべられた笑みの口元は、しかし苦みを押し殺したかたちをしていた。優しいとさえ言える柔らかな笑みなのに、何故だか辱められた様な気がして、尊氏はそっと俯いた。
「……伯父上に、」
「…先程の話、ですか?」
「あぁ…父には似ていないが、自分には似ているかもしれないと、……そう伯父上が、仰っていた」
「……、」
「本当にそうだったなら、良かったんだろうがな」
お互いに妙にねじれ合った悲しみと、もつれ絡まり落ちた憂愁に皮肉な気分でただわらった。
憲顕の言う全てを解さずとも、彼が誰を憚ってこんな感傷を患っているかは分かる。その中身は酷く覚えのあるもので、だからこそどこまでも向き合うのが苦しい。
暫く黙り込んでいた憲顕は、不意に尊氏の方を見やり、言葉を続けた。
「…衣通姫への恋とは、後先考えぬものでしょう?」
「…―っ、」
当てつけるような口調なのに、視線はどこか穏やかで、尊氏は声を呑み込んだ。
どうしようもなく言い繕うようなものでもない。しかしあげつらわれている感覚には過敏にならざるを得ない。譬えふるい歌のように、情を交わしてしまったのだから、もう仕方のないことと開き直ったとしても。それでも、ただひとりこの相手にだけは何か弁明を求められている気分になる。だがそんな尊氏の羞じる様には構わずに、憲顕は暗いばかりの木々の合間を目で薙いだ。
「とんだ勝手だ…我が儘三昧しておいて」
「…んん、」
「だが少し、」
肩を竦める仕草に隠され、続きは掻き消える。尊氏は些か茫然として、愚直に聞こえたように思う言葉を口先でなぞった。いびつなかたちをしていても、その色は確かに羨望の其れに近かった。
「…えらく、饒舌だ」
「良い酒なんですよ」
「……お前は、」
なにかいたたまれなさに、今度こそ本当に当てつけてやりたい気分で、尊氏は言い募る気勢を発する。だがいつまで経ってもそのあと、喉をつく言葉は上ってきはしなかった。
尊氏はうすらと少し酒精に赤らむ男の顔を眺める。この相手が嫌いで、何一つだって明かしてやりたくなかったはずだ。それはきっと、奪われることに通じるのだった。だけれどもきっと、彼が、自分の取り返しのつかない程に痛む箇所を知るのは、他でもない自分の口からなのだという気がした。
少し近くなった雷の音が、また耳朶を等しく洗ってゆく。
「美しい音だ」
「…そうですね」
大粒の雫が軒先に弾け、途端堰を切ったように雨が溢れた。荒々しいばかりの天に、しかし何故かひどく静かだった。二人灯りもなく座り込んで、喉と頭の奥に鈍い熱ばかりが燻る。
雲間を裂くように、時折閃光が走っている。
清冽な光を、劈くばかりの轟きが追うまで。その幾ばくかの刹那だけが彼らに用意された許しであり、告がれる言葉だけに心を砕ける時間であった。
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