京の絢爛の春。華やかに、惑わす様に咲く桜。
「義詮さま」
「…命鶴丸、父上は」
だが未だ蕾堅く閉じたそれが一度花開けば、あとは鮮やかに散るのみ。
薄紅の嵐のあとに何も残りはしないのだ。
「いま薬師が参りましてございますが…」
障子越しに動き回る気配がする。影絵の如く遠く映るその気配には何故か酷く疲れさせられた。
「…どのような薬でも、効きはしないでしょうなぁ…あれは」
「道誉、」
「…義詮どの。分かっておいでだろうに、」
続く言葉を遮って片手を上げる。二対の視線が背に刺さるのが分かったが、何も言わずにただただ庭に立つ木々を見つめた。
投げ出された躯の重みがただひたすら、悲しかった。
「ち…ちうえ?!」
「義詮どの、尊氏どのを床に」
ぐったりと閉じられた瞳にはうすらと影が落ちる。どこか痩せた体は腕の中にあって尚軽かった。
「……父上」
何故こんなことになってしまったのだろうか。父はいつだって私の先に立っていた筈なのに。そしてただそれについて行くだけで、何もかもが良かった筈なのに。
手のひらに掬った砂がいつの間にか零れ落ちる様に、静かに失われていく。散りゆく華の儚さにも似て。
「…私は間違えたのか…」
春風に吹かれて穏やかに眠る父の、まるで縋るように投げ出された両の手。とても見ていられなくなり、目をそらせば後ろに立つ男が伺うように視線を流したのがわかった。
「……道誉、さきほどの問いに答えようか」
「…義詮どの、」
「私は父上が心を病んでしまったのを知っていた…そう随分、前からだ」
叔父は死んだ。
もう二年も前の冬の話だ。
暫くは誰しもがその事を気にかけた。目に見えて憔悴した父に、だが寧ろ誰一人驚きはしなかった。大体近年の戦の推移がどうであれ、元々の兄弟間の並々ならぬ信の深さは皆が良く知るところである。なるべくしてそうなった、というような状態にそして出来ることなどなかった。
必ずいつか別れは来る。叔父の場合は確かに父にとって言い切れるようなものではなかったであろうが、その別離は別段珍しいものでもない。
人と別れ、そして残された多くは時が癒しを与える。記憶は薄れ、そして消えていく。親を、子を、友を、主君を、臣を無くしても。必ずそうして立ち直れることを皆が、身を持って知っていた。そういう世だ。だからこそ誰しもが時が父を救うだろうと思った。そして父にはまだやることが残っている。
兄直冬。…叔父の義息子である兄が兵を挙げていた。時、そして考える暇すら与えぬ程の責務がときに有益だと皆分かっていた。そして確かに父も段々と笑みすら浮かべられるようになっていたというのに。
誰が予想しただろう。親を、子を、友を、主君を、臣を無くしても。だが、もしその無くしたものが自分自身だと、したら?其処に立ち直る術などありはしないのだと
「…ご存知でしたなら、」
「分かってる、…言うべきでは、なかったのだろうな」
始まりはほんの些細なことだった。
二年もの時が経った。少しは宥められただろうと誰しもが思い、そして父もそれは同様であったに違いないのに。
和らいだからこそ、薄れたからこそ生まれた油断が、父を抉った。例えば振り返った先に広がる空隙だとか。上げかけた声に、ふと名を乗せたりだとか。そんな些細なことで父はいたく傷ついた。緩やかに、緩やかに崩れていく何かを。だが本当に分かっていたものなどいなかったのだ。
ある日を境に父は酷く明るくなった。…そしてそれが、父の空隙を埋める最後の手段だったのだ。如月の終わり、その日は父が全てを失った日だ
「…父が…過去に囚われているのなら…いや、それでも幸せならいいとお前などは言うのだろうな」
黙り込んだ道誉の目には度しがたい、といった色が浮かんでいる。父と叔父との諍いで、傷ついたのは二人だけではないし、それが酷く正視に耐えぬことだと自分だって身を持って知っていた。最早、幸せ、になど本当になれるはずないのだから。だからこれは…
「…私の…利己だ」
自分が望むままに残酷な現実に引き戻した。
――……そして現に父は倒れてしまった。
「…こんな私を愚かだと笑うか道誉」
風は強く吹き、淡い春を散らす。命鶴丸が気遣うように室に入り障子を閉めたのが分かった。暫く黙り込んだ道誉はゆっくりと息を吐く。
「…それがしはですね義詮どの。別段今の尊氏どのに同情しようなどとは思いませんが、義詮どのがそう思うことが尊氏どのに良いとも思えませんな」
無知は罪で枷で罰だ
時が経つと共に記憶は薄れ消え、そうして立ち直る術を得る。だが忘れられぬ、忘れてはならぬことが、確かにあって。知らないでは済まないことも確かに知っていた。
それでも
「…」
何に縋るのかなど分からぬ訳もない。それでも
「…それでも私は…父上に」
私は父上の息子だ
父は尊敬できる人為であり優しい父親でありそして偉大な将軍だった。
その父に
「父上は…私を見て下さらない…っ」
存在を否定されるという根本的な恐怖。過去に縋る父の中に、私の居場所などありはしない。・・・だからこれは私の利己なのだ。
――…否、それは今に始まったことではない。幼き頃から父が自分を通して遠くを見ていたのを知っていた。ちちうえ、と呼び掛ける度どこか必死になっていたことを覚えている。引き留めねばいけないことを朧気に理解していた。
「…義詮どの」
「すまない…こんなことを言いたかったのではなかったのにな」
父は大きな存在だった。
しかし父にも私と同じ様に多くを占める人がいて、それが私ではなかっただけだ。
叔父が嫌いだった。
求めるようでいて求めさせているようなところが大嫌いだった。
父が叔父に笑いかけるたび零れ落ちるものが嫌だった。
ただ遠く見つめるしかない自分の無力さも、それを知っていただろう叔父も嫌いだった。
そして今となっては、もはや憎しみすら分からぬ。
死者にかなうものがあるだろうかと、無意味な問いを投げかけるのには疾うに厭きていた。
「……義詮どの。それでも尊氏どのは変わりはしないでしょうよ。だからこそ、尊氏どのは全てを得、そして失ったのです」
「…そう…そうだな…」
最早止める術など無い。咲いた華が散る様に、それを止める術などありはしないのだ。
足を引き摺るように一人で暗い室に戻る。散らばったままの書簡が生々しいあの腕の中の重みを思いおこさせた。
ふと見遣ると隅に一つだけ文が落ちている。何事かと拾いあげてみればそこにあった印は確かに上杉のものだった
「上杉…憲顕」
誰よりも叔父の側に居た、あの男からの父への文。
どくりと高鳴るものに思わず封を切っていた。
日が傾き、空を茜色に染め上げる。そろそろ燭に火をいれねばなるまいが、座り込んだ体を動かすのも億劫だった。
「……叔父上」
例えば春の青空だとか。
秋の夕暮れ、冬の朝、夏の昼間にも。
舞う飛沫に、佇む花に、輝く月の光に。
そんな美しいもの全てに父は叔父を見いだすのだろう
例えば血に塗れた両手だとか。
流された血、犯した罪、暗い夜闇、枯れ果てた草に。
そんな醜悪なもの全てで父は叔父を惜しむのだろう
咲く花は変わらず美しくあれど、それが何になろう。
永久に咲き続ける花を美しいと思える筈もない。
そして父は花を枯らした。
花は躊躇わずに死に。
父はその花の舞う中で一人、なく。
泣いたところなど見たことがない。
泣けばいいのに、泣いてしまえばいいのにと思う。
でも一人で泣かれては意味が無いのに。
「…いまわたしがしんでも」
泣いてくれるのだろうか
握りしめていた文を投げ出す。
ごく自然な挨拶から、春の訪れを告げ、相手の様子を尋ねるまるでありきたりの文のような。流れるような文の最後はだが、穏やかならぬ言葉で結ばれている。
春の、
「…好きだった花、か」
投げ出された手足を思う。
京の絢爛の春
舞うように、眩うように
花は散ってそして
「…ずるいんですね、叔父上…」
そう生きていようがいまいが、所詮この人はあなたのものなのだ
白壁続編です。さくらに続きます
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