長月の五日、とうとう父が逝ってしまった。
それは奇しくも兄上の嫡子、義詮の誕生の翌年。
来たるべきもの故に来てはいけないものだと、私はずっと思っていた。
父が死ねばこの足利の当主は、名実共に兄上になってしまう。
己の身に運命を委ねられない歯痒さは、いかばかりであっただろうか。私は父を好いてい
た。
だがその境遇を重んじる迄で、まるで父自身には触れていなかったのではないかと思う。
それは父も同じで、私と顔を合わせると、慈しむ優しさの中にちょっとした戸惑いを滲ま
せていた。
私がまだ、五つにも満たぬ頃。
「父うえ!」
兄上は顔を綻ばせて躊躇いなく父に飛び込む。離れていく背中を見つめながら、たった今
離された手の感触を淋しく思った。
父貞氏は幕府の要職にあった為、鎌倉にいた。そして兄上が五つを数える時に、側室で
あった母上は嫡男の母として私達を連れ、上杉荘から父の元へ移ったのだ。その頃にはも
う、正室の影はなかった。
父は穏やかに笑い、兄上の頭を撫でた。その眩しさに、私は傍にいた母の手を握る。
「ほら、直義も」
兄上は振り返り私を手招いたが、私の指はなかなか母から離れなかった。恐い、などとい
うことがある筈もないのに、何処か張り詰めた気配を漂わせる父には駆け寄ることが躊躇
われた。この頃既に、父の病はその兆しを見せ始めていたらしいのだが。
「直義、はやく!」
焦れた兄上が駆け戻り私の腕を引く。母もそっと、背中を押した。引き摺られるようにし
て前に立ち、少しずつ顔を上げてその表情を伺った。
「こんにちは、父うえ」
丁寧にお辞儀をして挨拶をすると、母が後ろで少し笑う。
「…直義か」
父はしゃがんで視線の高さを合わせた。そしてまるで初めて会ったかのように、慎重に私
を見ていった。目、鼻、身の丈、一つ一つを照らし合わせ、覚えるように。そして私もこ
の時、兄上より私の方が父と似たものを多く持っていることに気付く。顔を見合わせたそ
のまま、父は口を開いた。
「高氏はよく、面倒を見てくれるか」
「…はい父うえ」
そうか、と低く頷く父はまた立ち上がる。合わなくなった高さに妙な焦りを覚えて、兄上
を伺った。
「よかったな直義、これでみんな一緒だ」
兄上はそう言って、父を見上げる。
「一緒…」
「うん」
皆が揃うということは嬉しい。父の不在は間今まで、間違いなく『欠け』であった。母も
安堵するだろう。そして喜ぶだろう。
だが私の手はまた不安げに彷徨い、繋がるものを探そうとしていた。それに気付いた兄上
は、まるで何ということも無いかのように、自分の袖にそろそろと伸びてきた私の手を
握ってくれる。
「兄うえ」
兄上は笑いながら、私の耳元に顔を近付けた。
「大丈夫だよ直義」
「……」
「だって俺たちの、父うえなんだ」
屈託のない笑顔に圧されて頷く。そうして、握り返す手を強めた。
父と会うのはこれが初めてではなかった。何かの折りに、上杉荘を訪れることは何度も
あったのだ。だが兄上ほど、父を父だと思い慕いきれていなかった己に気付けば、妙な後
ろめたさが過った。
そしてその後ろめたさが、この後も私と父を確かに分けていた気がする。
客人は帰路に着き、屋敷の中は徐徐に静かになっている。僧へ礼をしたり弔辞を受けたり
しているうちに、時は経っていた。
凛と振る舞っていた母が気に掛かり、室を訪れる。迎え入れてくれたその顔には、気付か
ぬ筈もない深い悲しみが表れていて、それを包み込む気配は暗く静かだった。
「母上、」
呼び掛けた時に、ふと燭台の炎が揺れた。気を取られて言葉を切ると、それきり何となく
続きを失ってしまう。
「直義。…母を気遣って来てくれたのでしょう」
母は弱々しく微笑み、視線を流した。
「私は大丈夫よ。でも…とても疲れましたね」
「…はい」
父の代わりに家を仕切るような場面が多くあったものの、それは母が父の良き妻として、
その枠を守り通すことと等しかった。
母が父を愛していること、父が母を愛していること。
この事実が当たり前のように私と兄上に在ったおかげで、足利の家はある種の秩序を失わ
ずに済んだのだ。
「私より母上の方がお疲れのことと思います。だから、後のことは気にせずお休みくださ
い」
「有難う」
涙を流してはいなかったが、母はそっと目頭を衣の袖で拭った。去ろうとみじろいだ時
に、声がかかる。
「直義、…高氏は?」
「兄上は……」
「ふふ、また面倒なことを貴方に押しつけたのでしょう」
口籠もった先を察した母の言葉に、苦笑する。
「いいのです。兄上には…、今はただ父を偲んであげてほしいと思っています」
「そうね。…一番つらいのはあの子かもしれない」
つらい、という響きが胸を重くする。兄上はいつも、私に『つらい』とは言ってくれな
い。
「高氏が背負うものは大きい。…だから直義は、高氏の傍にいてあげて」
「勿論です、母上。…では、お休みなさい」
父を失った悲しみの先に、見えるものが多すぎる。
隠岐に流された後醍醐帝に、播磨の赤松が応じた。そして今、笠置山に籠城している。
まだ喪も空けぬうちに、やがて幕府からは出陣の沙汰がくるだろう。
だから、
だから今ぐらいは、悲しみに浸る時間が必要なのだ。
薄暗い廊を渡り自室に戻ると、そこには客とも呼べぬ客がいた。
「兄上」
奥の壁に寄り掛かり、虚ろに戸口を向いていた視線は、室に入った途端私とかち合った。
「お戻りでしたか。母上も心配しておられましたよ」
その瞳が潤んでいることには、瞬く光で気付いていた。なるべく普段通りに努めて、傍に
腰を下ろす。
「母上に会ってきたのか」
「はい」
「悪かったな。…色々と苦労をかけた」
「気になさらないでください」
夏の去り際はまだ蒸し暑くぬるさが拭えないが、夜ともなれば涼しげな風が吹き込むだろ
う。膝行して、庭に面した戸を空ける。
木が滑る音が終わり、少し経った。
「俺は父上の、名代だったから…。だからここまでやってこれた。…なのに父上が亡く
なってしまったら、俺はどうしたらよいかわからない」
低く途切れがちな声は、外に逃れることもなく足元に散らばっていく。今日は風が無い。
「何をおっしゃるのです兄上。兄上は兄上として、私達を守ってきてくれたのではないの
ですか」
代わりなどではありませんでしたよ、と付け足すと兄上は片手で目を覆った。やがてその
指を抜けて涙が伝ってきたので、そっと距離を詰める。
「…でも、もう父上はいない」
共に過ごす歳月は、様々なものを取り払い私と父を近くした。親と子に相応しい関係を、
十分に築き上げられたと思う。
しかし、ただそれだけだったのではないかという不安に、私は今になって支配されてい
た。
訃報が届き、一番に感じたのは悲しみではなく、ただその痩せた死顔に対する痛ましさと
哀れみではなかったか。
式が終わるなり室を飛び出していった兄上の背を、幼き日のあの時と重ねはしなかった
か。
そしてこうして佇む己こそ、彼の元に飛び込めなかったあの時と、何も変われはしなかっ
たのではないか。
「考え事をしていると、お前は指だけ落ち着きがなくなる」
「…え?」
「人前では、…やらぬが」
「そうでしたか」
無意識に膝を叩いていた中指に気付き、緩く握った。兄上は正座をしている私のすぐ横に
身を横たえ、じっとこちらを見上げる。
「今は何を考えている」
その眼差しは、張り詰めていた。
「父上と、兄上のことを」
「ん?」
「兄上が父上を慕っていから、私は父上を好いたのかもしれません」
「……直義?」
聞き返す声には、答えられない。
「兄上。…直義は変わろうと思います」
「…どう、変わる?」
憂いにも似た感情が覗いた。
「…少し狡く。」
「お前がか?」
「……はい」
「ははっ、ありえぬな」
壊れた笑い声を収めた兄上からは、ふと表情が消えていた。
「いつだって、直義は真直ぐだ。だから…だから、俺は」
兄上は何処か慎重な面持ちで、濡れた指先を私の甲に薄く滑らせた。指が力なく床に落
ち、その瞳が閉じられる。
「…兄上」
静けさが満ちる。目を落とせば、濡れた軌跡は青い血の筋をなぞっていた。
それを見たときやっと、私は頬に涙の触りを感じられる。
父は逝ったのだ。
それは来てはいけない時だった
その日から、まだ半月も経たぬうち
「高氏さま。…執権、高時さまより」
兄上は師直の方を向かず、私だけが振り返った。
一度めの、出陣の催促。
二度目はもう取り返しがつかない。私は、父の死に誓った。
|