残る暑さに微かに揺れる白旗は、風の無い午にあってはだらりと只垂れ下がるのみであ る。

父が逝った。数日前の事だ。行われる諸々の儀式はだが、瞬く間に過ぎていった。



籠もる熱の所以でじわりと背を伝う汗に反射的に眉を顰めた。何時もの通り合わせを掻き 開き、涼を取ろうとしてはたと我に返る。数多の忍ばされた視線に小さく息を吐いて、伸 びた手で首筋を撫で誤魔化した。
何処か安堵した空気が流れたことに、内心苦々しく嘲う。眉を顰めて幼子が如くに泣き出 すのではないかと、這わされた幾つもが案じているのを知っている。実際酷い気分だ。頭 の中に響く割れる様な痛みに、何もかもを投げ出したいような気にすらなる。もし此処で 自分が倒れでもしたら、頻りに自分へ視線を向ける連々にしても其れは酷い気分になるの だろうと何処か遠く思った。


「…高氏」

気遣われるように潜められた母の声に、ゆるゆると頭を上げる。居並ぶ人々へと向き直っ て、姿勢を正した。真っ向から受け止める憐れみと品定めの視線は、染み入る様に纏わり つく。
その中の一つに敢えて視線を合わせずに、深々と礼を取った。

「…父への弔意忝く存じます、…」

つらつらと口を衝く辞儀に今更のように喉が掠れた。暫し逡巡してから一度口を噤んで、 一気に言い切る。漸く終わる、という感覚にすうと身体から力が抜けた。

「…殿」

伯父が其の呼称で自分を呼び、某かの形式が確かに完了したことに一同は息を吐いた。

「…お休みなられませ」

この場で課された全てを終えたと、暗に告げた伯父は実際に自分の意に沿う様にと、もう 一度視線で促した。お座なりの礼をして室を飛び出す。誰もそれを止めないと知っていた し、そして其の意味はきっと明らかだった。






「…っは、」

庭に飛び出し、人気のない奥の方へと駆け入る。体を突き動かす熱が無茶苦茶に滾り、ち かちかと視界が揺れた。
木陰を見つけ半ば倒れるようにして蹲る。咳込み、今度こそ合わせをぐいと引き下げてそ のまま胸元を鷲掴む。暴れ狂う熱に声を上げようとしたが、ただ掠れた喘鳴だけが嗚咽と なり喉を灼いていく。思いの外静かに流れ落ちた泪に、しばらくの間そうしていた。

「…父上…」

悲しみがただ純粋に死者を悼むものでないことを知る。
焦燥にも似た慟哭には確かに覚えが、あった。






十は疾うに越えた頃のことである。
一時直義と別れ暮らしていた時期があった。身体の調子を崩した直義が療養の為父の屋敷 に行く事に相成り、療養という名目故に自分が共に行く事は当然叶わなかった。丁度父や 母が元服を見据え本式に剣の稽古などに取り組めと言い出した時期でもある。
大して病が重いと言うわけでも無し、慌ただしい程直ぐに帰還する羽目になるだろうとの 目算だけを慰めに送り出したことを覚えている。

その時期の、ことだ。



「伯父上あちらに芸人が」

人々の喧騒に誘われる侭に逸る歩を進め、その活気に身を浸した。めまぐるしく動く其の 鮮やかさに辺りを見渡しながら、呑み込むそのうねりの中にに半ば息を止めて体を置い た。

「高氏さま、お楽しみなのは結構ですが、この憲房めを置いていかないで下さいまし。」

低く通る声が、穏やかに柔らかく逸る足を引き留める。明らかに笑み混じりの声は酷く優 しい。

「ああごめんなさい……伯父上、」
「いえいえ、大変結構な事なのですが、もう此の爺は若殿にお付き添いするには些か若さ がたりませんゆえ…御寛恕願えますかな」

そう言いながら肩を竦めた伯父は、せいぜい父と同年か一つ二つしか違わない。大体その 身でこなして見せる剣捌きの鋭さを知ってもいた。思わず漏れた力無い笑みでその顔を仰 げば、童の様な表情で態とらしく伯父は口の端をつり上げてみせる。

久々に連れ出して貰った市はやはり活気に溢れ、さざめく喧噪は絶え間ない。ぼんやりと あたりを見渡して、そしてから傍らに立つ伯父を再度見やる。あからさまでなくとも、否 応なしに透ける気遣いが酷く自分を責めている。なのに何も聞こうとしないその慈悲に、 小さく唇を噛んだ。


「…伯父上、少しあそこを見に行っても構いませんか」

芸人に群がる人々の輪を指させば、伯父はゆったりと笑んでひとつだけ肯いた。人々の腕 を潜るようにして前に進めば、伯父ではない気配が確かに自分の後を追っているのを感じ る。今更のようにその莫迦莫迦しさに苦い笑みが口元に浮かんだが、伯父に見えないのを いいことに其れを隠すのを暫し忘れた振りをしていた。


直義と離れてもう一月がたとうとしていた。


笑いはいつの間にか自分を嘲るその形へと変わり、ざわめく人々は其れ自体が一つの意思 のような遠さで、踏み込まぬ慈悲を帯びる。

「……」

人々の群を突き破り真中へ出た刹那、ただ只管にその群をもう一度突き破り、後ろも見ず に駆け出した。突き動かす熱は激しく、目尻を熱いものが一筋流れていくのを感じてい た。

短い激発は直ぐに終わりを迎える。幾ら夢中に走ったとはいえ所詮は幼い自分の足で、 だ。鍛えられた大人のそれにかなう筈もなく、直ぐに見つかる呆気ないまでの逃避。 元々が本気で逃げるつもりなどなかった。逃げたかった、訳ではない。 そっと頬から垂れる汗と涙を袖で拭い、乱れきった息を整える。こちらへ敢えて普段の様 な足取りで近づいてきた伯父を目前に迎える迄、それから暫しその場で立ち尽くした。

「……若殿」

無表情で此方を見下ろした伯父を、ただ凝っと見つめる。
かち合った視線を捉えたまま目を細め、そしてゆっくりと瞼を引き下ろせば、伯父は半分 息をのんだような気配を示す。打ち据える腕を待ち受けていれば、伯父は苦い声で閉じた 両目の上に言葉を零した。

「…若殿、お止め下さい」
「伯父上、でも言っていたではありませんか、…軽挙を慎めぬ者は足利家当主として、相 応しくないと。お叱りにならないのですか俺を」
「若、」


直義と離れてもうすぐ一月がたとうとしていた。療養ははかばかしいのだと繰り返し知ら されるのに、一向に帰り来る気配がない。


「伯父上がいらしたのは、…私、をお叱りになる為なのに」
「…そうで御座います、と申し上げるべきなのですかな」

暫し落ちた沈黙に、そのまま立ち尽くす。市に連れ出し、伯父が気晴らすよう図ってくれ たのはわかっている。だけれども、今はその優しさに浸り満足できるような気分にはなれ ない。隠しもしていない其の態度を慧い伯父のこと、わかりきっている筈なのに。
伯父は何も聞かない、何故あんなことをしたのか、と。



刀を、折った。

調練に使うだけの、大した業物でもなかったがそれなりの拵えを持つ刀だった。

ふと手にとり、そのまま無茶苦茶に館の白壁に切りつけた。切りつけた、というより叩き つけたという方が正しい。暫くすると鈍く高い音がして、不意に手元が軽くなった。無惨 に砕けた刃先が足下に転がり、柄を握りしめた手が痺れて赤くなっていた。
そのまま其れを放り出して、室へ戻った。積み上げられた書簡を、ただ邪魔だと思い卓ご と蹴飛ばした。ばらばらと床に散乱したものに目もくれず、そのまま廊に出てその場で寝 転んだ。うとうとと微睡みながら、驚愕した下女が母を伴い来たのを見ていたのを覚えて いる。

突然のことに母は何も言わなかった。だから今朝伯父が館に来た時、母が呼んだのだろう とすぐわかったのだ。


「…別に苛立った訳じゃないんですが、」

呟けば伯父はただ一つ瞬く。

「……若殿はお瞋りで」
「当然です」
「御存知…でしたか」

一月。直義の体の調子が思わしくないのは確かに事実だった。療養自体は今もきちりきち りとしているのだろう、偽りの長引きならば直義が気づかぬわけもない。けれども殊更に 隠されれば逆に気付くこともある。

足利家の当主たれと説く母や師や伯父が、自分の何を案じたのか。


「伯父上、それでも直義の為が他に足利を背負いたいとは思いません」
「…」
「…ただただ足利の次期当主としてのみあれと仰せなら…」

続きを告げるような真似はせず、口を噤む。市の喧騒がいつの間にか酷く遠い。

わざと引き離したのではない、わかってはいる。けれどもこの状況を好機だとも思われて いるのは確かだ。そんなことは許しがたい、のに。


直義が剣の稽古にでる自分を、悲しげに見ているのを知っていた。隔てるただひとつのも のに心を痛めていると、優しく嘆いている。それでも自分が其れを受け入れたのは、其れ が直義に自分が負うべきことだからである。それをただ己が為にあれと仄めかされ、受け 入れる気になる筈も無い。


「…若殿は」

ふと伯父は言葉をのむ。

「お父上には余り肖ていらっしゃらない」
「…」
「私めにも息子はおりますが」

少しはこの爺に肖ていると、思いますが。と続けながら、道端に立っていた護衛達に頷き かける。そのまま散っていった彼らを暫し見送ってから、伯父は苦笑するように僅かに口 元を緩めた。

「お父上がお好きか」
「はい」
「…若殿は、どうにもこの憲房に肖ておられるような気さえしますな」
「ご子息にはかないません」

ぎこちなく笑えば、伯父はそっと肩に手を伸ばし自分を引き寄せた。

「……若殿は若殿で御座います…いまはまだそれで宜しいのです……本当に申し訳ありま せんでした」

引き寄せられたまま甘えるように伯父に縋り、じっと打ち寄せる熱に耐えた。泣き喚いて しまいたい気もしたが、瞳は酷く乾いていた。

父が好きだ。
穏やかで毅い父を尊敬している。優しく子を慈しむ父を慕い、それでも足利の当主たる父 が眩しかった。
自分らを護る父を好いた。
今、足利を保ち自分が童であり続けることを許す父に、心底感謝していた。

父が好きだ。
父は直義に、肖ている。



「若殿…」
「ごめんなさい、ごめんなさい伯父上」
「…直義様は、もうじきお戻りになりますよ。…其れに…お父上にお会いしてくれば宜し いのです。何を案じることもありませぬ。」

何を懼れているのかわからないままに、ただ荒れ狂った熱に耐えた。手のひらに食い込む 爪の痛みに、凝っと前を見据えたままでいた。

「…若、……高氏様、憲房をお許し下され」
「…伯父上。…大丈夫、です。もう。」

直義が戻るのなら、きっと、と続ければ伯父は肩に置いた手に微かに力を籠めた。






懐かしい熱が漸く引いて、のろのろと頭をあげる。頬を乱暴に拭い、側の木にぐったりと 身を預ける。どれほどこうしていたのか分からないが、客人はそろそろ帰りゆく頃だろう と思う。

先ほど合わせることの出来なかった視線を、想う。
透明な色を弾く其れが何よりも肖ている。



立ち上がり、歩き出す。最早戻れないのだと、悲しみに似た感情が漸く胸を掠めた。