冷たい木床へと滲みていく己の熱に、少しばかり据わりの悪い気分が掠める。
暮れた日が差し込む室は、燭の火も無く薄暗い。斜めに延びる格子の影が投げ出した足の
上を這い、何とはなしにその形を目で追う。
次から次へと沸き起こる散漫な思考を取りまとめる気にもなれず、零れ落ちる言葉をその
ままにしていた。
日は暮れかけもう客は大体帰ったのだろうし、残るような連々は恐らくは伯父があしらう
だろう。もしかしたら直義は母の処へ行ったのやもしれぬ。
…離れて暮らして居た時期のことは、今でもありありと覚えているのに。何故だか帰り来
た直義を迎えたあたりの記憶は曖昧だ。何故、と思うのに叩き折った手の痺れに靄がかったように思い出せない。
先刻懐かしく胸を灼いたものは、まだ燻ったままで在る。
滔々と溢れた熱に、一二度目を瞬いた。
「兄上」
静かに響いた名に、視界に飛び込んだ姿に、かかる睫で熱を弾く。後ろから僅かに差し込
む赤は目を差したが、只凝とかち合う視線を捉えたままでいた。
…透明な、いろをしている。
凍り付かせたような寂寥を浮かべた、茶が真摯に此方を見ている。
いくつかの言葉を交わしながら、その色を見詰めれば直義は眉を落としてそれでもゆるり
と笑った。
切なさが喉を締め上げるように駆け上り、一つ息をのむ。堪えきれず溢れた熱に片手で瞼
を押さえた。
「…、」
気遣う様に近付いた気配に、指の間から熱が洩れる。
綺麗な色だと、いつも思う。自分のとは違う其の淡い彩は柔らかく、そして冷たい。
流れた涙に誤魔化して、刹那よぎった感情を押し殺す。
ただ怖くて泣いているのだと、直義に知られぬよう。
…離れて暮らして居た時期のことはありありと、覚えているのだ。
「……あぁ…伯父上は昔から俺を若殿、と呼んでましたね」
呟いたのには、大した意味は無かった。繋がれた大きな手は何ら揺らぎを伝え無いのに、
伯父は固い顔でこちらを見下ろす。
市から館へ帰る路は夕暮れ間際の白さに照らし出され、乾いた土が些か埃立っている。直
義が帰ってきても、此の刻辺りに連れ出してはまた咳を戻すかもしれないと埒もない事を
案じていた。
そんな時に不意に口を衝いた言葉に、刹那ぎくりと背筋を凍らせる。こんな事はこの先も
言うつもりはなかった。
「……高氏、様」
「…あの」
「…」
少しばかり諦観に似た色をよぎらせた伯父は、しかし珍しく本気で困惑しているように見
えた。
躊躇いながら、言葉を探る。しかし言ってしまった、と何処か安堵すらしているのを自分
で分かってもいた。
「…若は、憲房を…」
「…違います…俺は…伯父上、どんな理由でも伯父上がそう、為さった事を有り難く思っ
てます」
伯父は多分に自分を可愛がってくれる。其れも記憶にある限りは初めから、そうであっ
た。
その理由を、薄々知っている。
でもこんな事はこの先も本当に言うつもりはなかった。
「若、…高氏様。お待ち下さい、其れは」
「伯父上」
見上げた先で嘆きか憐れみに似た苦渋を滲ませ、伯父はそっと目を細めた。
「高義兄上が、いらっしゃれば俺は」
「…お止め下さい、埒無きことです、」
「…伯父上は、少し誤解なさってます」
小さく笑えば、伯父は少し狼狽えたように見えた。そんな姿は本当に珍しくて、もう一度
笑う。ため息をつくように肩を落とした伯父も、若、と眉を下げた。
伯父が母の息子である自分に足利を継がせたいと思うのは当然のことだ。足利は武家が名
門、それだけの価値がある。
滑稽なほど恭しい態度は今でこそ相応しいが、兄高義が存命の時期にあっては全く以て児
戯に等しい。父の正妻はあの北条が一門、劣るところのなき血筋であったのだから。
伯父の望みは確かに上杉の家にあるのかもしれない、けれど其れは悲しく思うようなこと
ではなかった。
「……伯父上、俺は伯父上が俺を若として扱って下さったから、きっと然うたることが出
来たのです」
直義が自分との立つ場の違いに心を痛めているのは知っている。それでも、直義を守るに
は正にそれこそが必要なのだ。そうあれと教えたのは伯父だ。
「……俺は怖いのかもしれません」
「ご当主となられることを、?」
「いえ…父が居なくなり…自分が其処に、入ること…が」
失う事を知っているのに。
父が死んだ。
病で、家を遺し。
どちらを怯えるのか分からない、ただ直義には父自身の死に流れるものだけが見えていれ
ばいいと思う。
泣く術を知らぬ哀れな弟が、出来れば穏やかでいられればと。
胸を灼く恐れが、間違いなく手の中からなくすことへのものだと知っている。
奪うものが例えば透明ないろ、肖たその儚さ、倒れた病だと。
知られなければいい、父が死に一番に考えたことが父が直義に似ていたことだなんて。
遅い夕餉をとり、寝所へ向かう。廊の前を行く直義を、小さく呼んだ。
「……直義」
「はい、」
「…直義」
「…兄上?」
見上げてくる視線に、手を伸ばして腕に抱き込む。唐突な動作に少し驚いたように肩を揺
らせたが、構わずに背を抱いた。
伝わる熱が失われない確かさでそこにあることを、慎重に確かめる。撫ぜる線が儚げでは
ないことに、息を吐く。耳の横で鳴る心の音を、指先で辿れば直義は小さく身じろいだ。
「ぁ…兄上…」
「…すまん」
そろそろと身を離して、向きなおる。少し顔を赤らめた直義に、また手を伸ばしてだけれ
どもそのまま空に浮かせたままでいた。
「手を、」
「え?」
「握ってくれないか」
思えばこんなことを言ったことなどない。手を繋ぐ時は、何時も延びてくる手を自分か
ら握った。
戸惑ったように瞳を揺らせた直義はだが、直ぐにそっと手を伸ばして自分の手を握り込ん
だ。尋ねるように傾げられた細い首に、泣き笑いのような応えを返す。
「今日は…悪かった。明日はもう、平気だ」
「兄上…」
「…お前が居る。…だから大丈夫だ」
「…、」
迷うまい、と思う。恐れを知られまいと。
ただただ手を離したくないのだと、それだけを。
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