足利の屋敷には、近臣が控えるための詰め所があって、それは事実上執事を務める一族である高とその関係者のためのものとなっている。
夜通しで用事を済ませねばならぬとき、または有事に備えねばならぬときなどに使われたが、やはり一番そこに『詰め』なければならぬのは、次期当主高氏の執事である師直だった。

「お疲れ様です」
「ああ、お疲れ様です」


灯りの下で何やら筆を進めていた従兄は、顔を上げ、柔らかい笑みを口元に浮かべながら会釈をした。

いつもと変わらない。
というよりも、師直はこの表情の師秋しかほとんど知らない。
しかし一日の疲れを背負った目許は、少しだけ乾いて、落ち窪んでいるようにも見える。自分もきっと同じように見えているのだろうと思うと、何だか笑えてくる気もした。

師直一人かまたはその部下がいることが常となりつつあったが、昨今はたまに、もう一人執事という役についたこの従兄がいる時があった。
従兄の師秋は自分よりも三年遅れて、高氏の弟である直義の執事となった。直義は、兄と同じ八歳で執事を迎えることを拒み、そしてやっと受け入れた十歳過ぎにはある条件をつけた。

『歳の離れた者がよい』

おかげで、本来そうあるはずだった師直の弟である師泰ははずされ、この従兄が役目を負うこととなったのだ。この条件に直義のどのような意図があったかはわからない。
ただし直義は極度の人見知りであったから、歳が近いと逆にどう接していいかわからないのかもしれない。
だがそれももう三年も前の話だ。師直は十九歳、それより三つ上の師秋は齢二十二となっていた。

「急ぎの、何かが?」
「ええ、少し。」
「・・・大変、ですね」
「そんな、私の不手際です」

たとえ一番近い境遇にいるはずの自分にすら、師秋はいつも愚痴一つ零さない。全くわざとらしくない謙遜をして、他人を立てるようなことしか言わない。黙々、淡々とやるべきことを進め、いつも穏やかな表情をしている。

「師秋。何かあったら、手伝い、ますけど」
「いえ、大丈夫です。ありがとうございます。・・・ああ、そうか、私がこうしていては、師直が休めませんね」

失礼致しました、と言いながら筆を早める従兄に、師直は慌てて首を横に振る。
近しいようで、たまにしか言葉を交わせないこの従兄と、何かもっと気の利いた時間を過ごしたいと何となく思っているのに。この柔らかい笑みは、とっつき易い様で思いのほかくずせないのである。
師秋は真剣な横顔をこちらに向けるのみで、静かな時間が流れる。誰に対しても受身であるこの従兄と、内気な直義。彼ら二人の間にはどのような時間が流れているのだろうか。

「師秋」
「はい?」

まるで童をあやすような口ぶりで返事をし、目を上げた師秋は、僅かに首を傾げ続きをと促した。
こういう扱われ方は、嫌いではなかった。

「近頃はどうですか」
「?」
「・・・直義殿、とは。」

ああ、と瞬きをした彼はむしろ、 師直を案ずるような目をした。

「変わりなく、といえば変わりないのですが。・・・いえ、困りましたね。」

また、そうだ。その柔らかい笑みが、ごまかすような苦笑なのか。その境が曖昧になって、でも結局何かを吐露してくれることはない。

「・・・別に、困らせたいわけではなかったのですが」
「師直はどうです?きっと、毎日色々な気苦労があると、思いますけど」

そう言うと、師秋はじっと師直をみつめた。自分には兄などいないが、もしもいたらこんな眼差しを向けてくるのだろうか、と師直は思う。
近くであの兄弟を見ているせいか、そんな邪推自体はひどく冷静な感情だというのに、何かを言いたいという焦りと安堵が、同時に湧き上がってくるような気もした。

「高氏さまも、相変わらずです」
「ええ」
「相変わらず、直義どのの、ことばかり」
「ふふ、そうですね」

師直がぽつぽつと連ねる言葉に、師秋は相槌をうちながら筆を進めていた。
聞いているのか、と思う前の絶妙な頃合で顔を上げ、じっと目を合わせてくるから、照れたようになってまた言葉を続けてしまう。
結局いつも、彼が聞き役になって自分ばかりが話している。
師秋がさらっと花押を記したのが見え、師直は自分の話をやめて問いかけた。

「いったい何の書簡なのですか?」
「ああ、誰に頼まれているわけでもなくて・・・私の所用なんです」

手で風をおこして墨を乾かすと、師秋はそっと書簡を折り畳んだ。
そして朱印を押そうと、赤の壷を後ろの棚から出してくる。蓋を開けて中を覗き込むと、瓶の底が見えていた。

「朱が切れていますね」
「そうでしたか、すみません。えっと、取ってきます。いつも使っていたのは私なのに、気づかなくて」
「大丈夫ですよ」

師秋はすっと立ち上がり、室を出て行った。
とんとんという足音が遠ざかり、師直の視界には彼の残した書簡の白い紙だけが映った。気づけば手が伸びて、指がそれを拾い上げている。


こんなことをしていったい何になるのかもわからないし、本当にそうしたいのかもわからないままだったが、師直はさらさらと紙を広げ字を追っていた。
思いのほか男らしい達筆で、きっちりと記された文字がそれでも彼らしかった。 最後まで読み終えると、師直は綺麗に畳みなおし、元の通りに卓の上に置いた。従兄が帰ってくるまで少し余った時間が、とてつもなく退屈であった。


その後室に戻ってきた師秋は、朱を足した後手早く朱印を押して、書簡に封をした。そしてそれをそっと懐に仕舞うと、立ち上がって身支度を整えはじめる。

「泊まっていかないのですか?師秋」
「ええ」
「床なら多めに仕舞ってありますよ」
「ありがとう」

丁寧に礼を述べながらも、彼に折れる気がないことはありありと知れた。

「もう遅いのに」
「この書簡を預けるついでに、戻ります。今日預けて明日届けに行ってくれれば、きっと早く相手の手に渡るでしょうし」
「・・・・・」
「それにきっと師直も、一人の方が気を遣わず休めますよ」

師秋の言葉に返事をしないのが、師直のせめてもの抗いであった。
それに気づいてくれているのかいないのかわからない従兄と、やはり心の何処かでにらみ合っているのだと感じた。


彼の父と自分の父の因縁。
高家の本筋を彼から奪い、次期当主の執事となった自分。
それを全く責めることはない目の前の男が、どうしてか憎かった。



「やっぱり、何も相談してくれないのですね」
「・・・」
「高氏さまのことを知る私と、直義どののことを知る貴方なのに。」

ぴたっと師秋の表情は固まる。その瞬いた瞳の奥に皮肉や侮蔑を探し求める。
責められたがっている今のようなときにこそむしろ、従兄への優越感が首を擡げていることに気付いていた。
しかし師秋の表情に邪悪さはなかった。むしろ自嘲染みた、悲しいあの笑いを口許に貼り付けた。

「直義様はそのようなことを好まないでしょう。おそらく、に過ぎませんが」

おやすみなさい、と礼をして彼は室を出て行った。

もしも嫌われたのなら、それはそれで喜ばしいのに、と全く望まぬことを望んでいる自分がいた。

最近体調を崩している直義を診るよう、薬師に頼む書簡ならば、そういえばいい。
自分が頼んだと直義に知れないよう、父貞氏のついでだというように装ってほしいだとか。そんな内容が、彼らしい礼儀正しさをもってやんわりと綴られていて、なんだか乾いた笑いが漏れそうになった。

『誰に頼まれているわけでもなくて・・・私の所用なんです』

命ではなく彼自身の憂慮であるなら、それはそれではっきり告げればよいのに。
直義のもの病みがたいてい、高氏と切り離せないことを知っているなら、なお更。













直義が何か耳打ちをしようと、執事の方を振り返る。
師秋は当然のように、幼い主のために身を屈め、言葉を聴けば深く頷いてみせる。
意外と上背がある彼のしっかりとした肩が自然と下がって、退くように直義から離れる光景が、師直は時折無性に憎くなるのだった。

礼儀正しく穏やかで、そして誠実である従兄。

そんな彼に決して甘えようとしない直義を、褒めてやりたい。
しかしそんな彼を無条件に信頼できる直義は、やはりどこまでも憎らしいのであった。