「…ただの流感ですな」

薬師は何処か安堵した様子で言った。それは病人が大層な地位にある者だったからという 理由もあるだろうが、この専属の薬師が呼ばれるのが大抵主が派手に怪我を負った時と相 場が決まっているからだろう。

「な…流感だと…、あり得ない…俺は忙しいんだ!何とかならんか!」

辛うじて薬師が診察をしている間だけは一応殊勝に床に入っていた尊氏は、だががばりと 布団をはねのけて薬師に縋りついた。

「く、薬をお飲みになって安静にしておられれば二三日で快癒いたしましょう」
「尊氏さま…丁度冬至の祭祠も終わりましたし、ゆっくりお休みになりませ」

半ば血走った目で薬師の肩をがくがくと揺らす尊氏を慌てて止めて、一言添える。これか ら新年の言祝ぎまでは大した儀式もない。

半ば殺気立った目つきで尊氏は何事かを考えこんでいる。益々体を堅くしている薬師の顔 は、哀れにも病人の尊氏より余程青い。かく言う自分も尊氏の怒気混じりの目線から逃げ るようにして頭を背けているのだが。

尊氏はおもむろに薬師の肩にかけていた手を下ろして、側に置かれていた椀をひっ掴ん だ。自分と薬師が唖然としている間に、そのまま煽るようにして中身を飲み干して、大き く肩で息をした。

「大儀だったな、じゃあ二人とももう下がれ」
「は…?」
「体の方はもう薬飲んだから大事ない。で師直、俺は出掛けるから」
「は!?ちょ尊氏さま!?」

立ち上がり上衣を羽織っている尊氏を慌てて後ろから止める。要は執務中断宣告なのだが 其れより尊氏が出掛けることの方が問題だ。

「あのそんなお体で何処へ…、」
「馬鹿言え大したものでもない。ちょっと重能に会ってくる」
「…はぁ?それなら重能どのをお呼び立てなされば」
「いい、兎に角出る。馬を引いておけ」

帯を締めなおし刀まで差した尊氏は髪を括りあげてすっかり出掛ける支度を整えあげてい る。諦めきれずもう一度提言しようとすれば、しらりと、早くしろと言い放って室をさっ さと出ていってしまった。




「重能…重能居るか」

一人で行くなどと尊氏は言い張ったが、当然そんな事は聞けたものではない。本当は今す ぐ無理強いしてでもお休みになって頂きたいと思っておりますとまで言えば、漸く折れた が示す難色を隠そうとはせず、ならば目立たぬ様にしろよと少しばかり奇妙な条件を付け た。
尊氏自身が大層目立つのだから、と反駁しかけてだが此の主が度々鮮やかな手管で執務を 抜け出し市井へと足を向けている事を思い出した。なんというか其の存在を自在にするの だ、この人は。戦場で、あれ程強烈な存在を示すのに斯うして尊氏自身がそうたろうとす ればいとも簡単にその強さをくらませる。

わざわざ表の通りを回り、重能の館を門から訪ねた。尊氏の館と繋がっている直義の館を 通り抜けていけば、直ぐ近くに位置するのに全く酷く迂遠なことをする。


「!…将軍?!」

突然の来訪者に目を白黒させる門衛を不憫に思いながらも、重能を呼んでくれ、と言い付 ける。慌てて走り去る門衛の後をそのまま入って行こうとする尊氏を流石に止めて、馬を 適当に繋いでおいた。

「何故止める」

不満げに拗ねてみせた尊氏は、常よりも幼い。その顔には隠しきれない疲労の色が滲んで いて、少しでも休ませようと庭に据えられた縁石に凭れかかるよう促す。悪態をつきつつ 素直に従った尊氏に、小さく溜め息をついた。

「…尊氏さま…その、如何なる御用でのお運びかは存じ上げませんが…、幾ら重能どので もいきなり室に押し掛けるのはどうかと」
「おい、その幾ら、ってのはどういう意味だ」

唐突に響いた声に反射的に背筋を凍らせる。素直に笑みを浮かべた主に、半ば絶望的な気 分になりながら振り向けば此の寒いのに襷で肩袖を括り上げた重能が立っていた。薄らと 額には汗を浮かべているから、鍛錬の途中だったのだろう。

「ああ重能、すまない、邪魔をしたようだな。」
「いえ、そろそろ息抜きを入れようと思っていましたから。」

手を振り迎えた尊氏に、人好きのする笑みを浮かべて重能はそつなく一礼した。何ともど うしようもない決まりの悪さに、ちらと伺えばそれに気付いたらしい重能は顔を背けざま に軽く鼻で笑った。

「…それで重能」

如何にも気だるげに身を起こした尊氏に、重能は軽く眉をしかめた。問う視線が流された のを感じて一つ頷けば、重能はすぐさま切り出した。

「お話ならば室でお伺いします。今茶を淹れさせ…」
「ああ、いい。寧ろ此処の方が都合がいいんだ」

軽く頭を振り、尊氏は重能を凝っと見つめた。

「お前の腕を頼んでたのみたいんだが、受けてくれるか」
「…は、?」


置いて行かれた体裁で話を聞くこと数分。重能がひたすらに晴れやかな顔で尊氏の頼みを 快諾した時、私は流感というものはうつるものだったよなと果てしなくかけ離れたことを 考えていた。




「…おい、」
「な、なんですか」
「呆惚けるな。なんだあれ、大体何であんなんで外歩かせてるんだよ」

あれ、と顎で重能が示した先には何処となく浮ついた様子で歩く尊氏の姿があった。寒空 の下に出たせいで、確実に体調が悪化している。重能の館から辞す際に、乗りかけた馬の 鬣を掴んだままよろめいた為、重能が半ば無理やり馬ではなく歩くよう尊氏に促したの だ。いっそ輿をと言いかければ、凄まじい眼で睨まれ黙り込む羽目になったが。

据わった目で黙りこくったまま歩きだした尊氏の後ろを、重能と二人でとぼとぼと進む。 …何だかんだ情に厚い此の男は、あたかも子を見守る親の様な風情で足取りの覚束ない主 を眺めている。自ら随行を申し出たことに礼でも、と思ったが先んじた重能にお前だけ じゃいてもいなくても変わらねぇ位頼りないからな、と言い放たれて結局口を噤んだ。


「…尊氏さまがどうしても、と仰せで」
「んなことは分かってる。それでも病人なんだから縛り付けてでも床に入れろ」
「…」

深い溜息をついて肩を落とす。重能が思い切り眉を顰めたが、気にする余裕も無く再度大 きく息を吐いた。

「そうですね…尊氏さまの御身が為…そうすべきでした」
「何いきなりへこんでんだ鬱陶しい、大体ぶっ倒れたら苦労するのは手前だろ……あと は、直義様、とか」

重能にとっては詰まるところ重大事とはそういうことだろう。何にせよ結局は傍迷惑な質 だ、其の病人本人はどうにも遅々とした歩みで大路を進んでいる。

「……。それにしてもどちらに行くのでしょう…」
「は、お前は聞いてるとばかり」

先程重能の館を訪ねた時同様に、尊氏はどうやらわざわざ遠回りをしている気配がある。 延々と歩いてはいるが、結局距離とすれば大して離れていない。寧ろ段々重能の館の方へ また近づいている様ですらある。しかしそれでも同じ路を辿る事がない、主の日々培われ た地の明かるさに喜べばいいのか悲嘆すればいいのか内心複雑ではあったが。


「……まさか、」

呟いたきりはた、と口を閉ざした重能を訝しめば、無言で連なる塀の向こうを指さして見 せた。暫く指された辺りをまじまじと見つめ、唐突に気付く。幾つかの屋根の向こうに見 えている棟は確か彼の上杉憲顕の館である。内々に二三年の内に板東を任される事が決 まっているが、仮住まいとはいえ其処は比類無き直義の寵臣であり上杉の家名を継いだ憲 顕のことである。大層立派な造りの館を建てていた。


「憲顕どのに………ええ、と…如何なる御用なのか…重能どのと同じ事、でしょうか」

些か茫然としてからぼんやりと言を接ぐ。お前話聞いてなかったのかと前置きしてから、 重能は違うだろと吐き捨てた。

「尊氏が兄貴に“共に刃を交えて欲しい“なんて言うか?俺はまあ別に初めてじゃない が、あの二人が仲良く稽古したって話は聞かねえだろ」
「………まあ。」

尊氏の頼みが剣技の相手だったことに些か拍子抜けして、ひっくり返った声でいらえを返 す。それにしてもあの体調ではまさか今日やるわけでもなかろうに、わざわざ約定をとり つけることでもない、と少しばかりの引っかかりを覚えた。


「……師直、重能、何だ置いていくぞ」

こちらの動揺など素知らぬ顔で、尊氏が示した行き先は案の定憲顕の館だった。



「これは尊氏どの…わざわざのお運びいたみいる」

笑顔で侍従の運んできた茶を勧めた憲顕は、だがあからさまに怪訝な、といった色を顔面 に張り付かせていた。
自分と重能まで引き連れて、いきなり室へ押し掛けてきたのだから其れは無理もない反応 である。しかも当の尊氏ときたら、最早隠しようもなく顔色が悪い。憲顕が眉根を寄せた だけで何も問いたださないのが、寧ろおかしい程だ。

「……憲顕、その、頼みがあるんだが」
「は、」

尊氏はのろのろと置かれた茶を手に取り、湯気の立つ其れを無造作に傾けた。制止の声を あげる暇すらなく、尊氏はすぐさま弾かれたように顔を上げ口元を押さえた。余りといえ ば余りに間の抜けた行為に、憲顕が珍しく呆然といった表情で尊氏を呼び直した。


「っつ…す、すまん…些か呆けているみたいでな…。」
「…はぁ、いや私は構わないんですが…お休みになられた方がよろしいのでは」

重能の時と同じくこちらへと向けられた視線に、再度小さく首を振る。溜め息をつけば横 に座る重能が小声で、こうなるに決まってるだろ馬鹿、と呟いてきた。

「……それで、頼み、なんだが」
「はい」
「お前琴を出来るか、笛でもいい」
「………、は、ええ…まあどちらとも其れなり、でしたら」

唐突な問い掛けに毒気を抜かれた態で返した憲顕に、尊氏は漸く安堵したと言うように ゆっくりと笑んだ。其の酷く柔らかい笑みに、重能が重症だ、と天を仰ぐ。実のところ全 く以て私も同じ事を考えていたので、無言で憲顕の方を見詰めなおした。

「ああ、よかった。じゃあ頼んでいいか憲顕」
「…あの、今此処で、弾けば宜しいのですか」

少しばかり引きつった笑顔で尋ねた憲顕に、尊氏は首を横に振った。

「違う違う…今度重能と剣舞をするから、その楽を当ててほしい」
「えぇ!?尊氏様、先程のはそういうことだったんですか」

思わずといったように声を上げた重能を、寧ろ驚いた様に尊氏は顧みた。

「…重能?」

確かめるように憲顕が重能を呼び窺う。慌てた様に重能は、いやそうですよね、と姿勢を 正し座り直した。
尊氏は何処か理解していない様で、ただ可笑しげにそれを見ていたが取りあえずは納得し たのだろう、またくるりと憲顕の方に向き直った。

「…尊氏どの、それは構わないのですが…別段私は楽師が如くに巧いと言うわけでも無 し、ほんの手習い程度に爪弾くだけですよ」

困惑の色を滲ませて憲顕は言った。憲顕は何事もそつなくこなしてみせるが、それは抱え の楽団などと比べては話が違うだろう。彼らは其れで宮の中に職を得ているのであるか ら、そうした連中に頼むのが余程道理である。

「いい、楽がどうという訳でもなし」

私的な催しだから、といった意味合いであろうか。思わず重能と顔を見合わせてから尊氏 の方を見直す。憲顕はますます解せぬといった顔で、さらに言葉を続けた。


「…はあ、其れなら何も私でなくとも、佐々木殿とか…何より直義どのにお頼みになれば よろしいのでは」

確かに道誉は相当そういった嗜みがあると言うし、何より直義なら尊氏と重能の剣舞に当 てるといえば喜んでその役を買って出るだろう。直義が琴と、何よりも笛を嗜むのは他で もない尊氏のせいなのだから其れを尊氏が知らぬ訳もない。

だが尊氏は過剰な程に首を横に振って、慌てた様に言い募った。

「其れでは意味がない、直義に頼んだりしては意味が…」
「は、?」

尊氏はいきなり手を伸ばしたかと思うと、憲顕の上掛けをがしりと掴んだ。

「憲顕頼む。あ、直義には内密に…」

縋るような尊氏の態度に目を白黒させた憲顕がそれはどういう、と言を続けようとしたそ の時、廊から声がかかった。


「憲顕様、錦小路様がお出でですが、お通ししても?」
「、え」
「あ、ああ構わないが」

憲顕の返事に尊氏がそのまま固まる。それにつられた様に室の中の動きが止まり、障子の 床を滑る音が酷く鮮明に響いた。


「あ憲顕どの失礼しま……あれ?」


思わず全力であらぬ方へ目をやる。室の入り口で立ち尽くした直義は、きょとんと室の中 を見詰めている。重能と二人固まる自分に加え、奥ではの室の主に掴みかかる格好のまま 兄が固まっているのだ。それはさぞかし異様な光景であろう。

「……た…たっ…た直義…!?!」

ひっくり返った声で叫び、尊氏が弾かれた様に立ち上がる。直義を見つめ目を見開いた尊 氏は、何故、と細い声で呟いた。

「今日は視察で夕まで帰らぬ筈、」
「あ、其れは細川どのが宮方の用事が入って、それならば明日にと」
「和氏め…!!今日しかないと思ったのに!」

心底口惜しいと言った様子で吐き捨てた尊氏を、唖然と直義は見詰める。意味が分からな い、直義の留守が今日だからという理由でわざわざ今日こうして出てきたらしい。 勢いよく立ち上がったせいで、案の定ふらついた尊氏に、直義が慌てて駆け寄った。

「あ、兄上…熱があるじゃないですか…、早くお休みになって下さい!」
「え、あ…」

真剣な顔で言い募る直義に、尊氏は小さく後退った。恐らくは何処か痛んだのだろう、そ の調子に顔を歪めた尊氏に益々直義は苦い顔をした。

「兄上、こんなお体で一体何の御用ですか?何かお仕事でしたら直義が全てやりますから …。ね、お休みになって下さい」

直義に悲しげに懇願されて尊氏が否やと言える訳もない。案の定酷く困った顔で、う、とか 言葉にならぬ呻きを漏らした尊氏はだが急にがくりと膝を折った。

「…!尊氏さま」

直義の腕の中に崩おれた尊氏の顔色は、青さを通り越して白くなっている。 重能が慌てて廊の侍従に人を呼びに行かせている間、直義はそっと尊氏の体を抱いて横た えていた。






「……」
「それでまあ、尊氏どのの用件てのはそんな風だったが」

憲顕の室の続きの間で横たえられた尊氏は、少し落ち着いたらしく静かな寝息をたてて 眠っていた。話をする為にともと居た室の方へ戻り座を囲んだのだが、直義は開け放たれ た襖の向こうを絶えず気にしていた。
珍しく少しばかり憮然とした様子で状況説明をと請った直義は、順番に語られた顛末に次 第に表情を緩ませた。最後の方のやりとりに話が至るにあたって、直義は完璧に意得たり といった感で小さく微笑んでいた。

「…兄上たら…」
「あの直義どの…すまんが私には尊氏どのが何をしたかったのかが今一分からんのだが」

憲顕の横で重能が大きく頷く。困ったように眉を落とし視線を巡らせた直義と目があっ て、慌てて首を横に振った。自分も何も分からない、話を聞いただけで得心のいったらし い直義に語って貰うしかない。

「…兄上は、その、二十九日に宴を催してくれるおつもりなのです」

笑みを零して、直義はゆっくりと続けた。

「驚かせようとして下さったんですね…ふふ」

剣舞、宴、二十九日と並べられて初めて答えに思い当たる。冬至の祭祠が終わったという のに忙しいと言い募った尊氏が、直義の留守を狙った理由。



「………ええ…と」
「……ああ………よかったな直義どの…そういう事なら私も喜んで弾かせて頂くよ…」
「……あ、そうすね!直義様の為俺も頑張りますから…!」

果てしなくぎこちなく言葉を紡いだ二人に、直義はにっこりと綺麗に笑いかける。 眠る尊氏にそっと視線を這わせた直義の既視感漂う姿を見て、私は自分の物覚えの悪さに 目眩がした。


毎年この時期尊氏は毎回毎回何かしら趣向を凝らし、最愛の弟の誕生を祝おうとしていた ではないか。



それ以上言葉を見つけられない様子の憲顕て重能を見て、もう一度私は小さく溜め息をつ いた。